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7 五亨庵(2)
その日、犀星たちは馬ではなく、徒歩で宮中へ向かった。ゆっくりと道を覚えながら、散歩がてらだ。
犀星たちの屋敷から北へ向かい、朱雀門を目指す。東西南北にある門のうち、南の朱雀門は民衆から異国の要人まで、幅広く利用する紅蘭の象徴とも言えた。
高さは、通常の民家を十も重ねたほどで、見上げるだけで圧倒される。
玲陽は近づくにつれて大きくなる朱雀門に、目を見張った。
左右に三重の楼閣をそなえた構造で、最上階には朱塗りの手すりがついた回廊がある。見張りの兵が何人か、弓を手に立っていた。それを支える基部は堅牢な石造の台座で、階段が前後にせり出し、その両側には石獅子が堂々とした風体で鎮座していた。城門の幅は、馬車が五台は並んで通っても余裕があるほどだ。
「大きいでしょう?」
と、東雨は言った。
「こんなの、想像もしてませんでした」
玲陽は驚くよりも先に、ただひたすらに呆然としている。犀星は周囲の景色などどうでもいい、と言わんばかりに、玲陽の横顔に釘付けである。
「昨年、修復が終わったばかりなので、色も鮮やかです」
東雨はすっかり、玲陽の道案内を担当していた。
「ここは宮中の南だから、朱雀門っていうんです」
「それで、鳳凰の飾りがあるんですね」
玲陽は上層の梁を仰ぎ見た。緑釉瓦で覆われ、反り上がった四隅に、陶製の鳳凰が据え付けられている。また、朱塗りの柱の至る所に、黄金の鋲が整然と打たれ、冬の午前の低い日の光に、威風を放って輝いていた。うっすらと積もった白い雪との対比が美しい。
東雨は先に立って、門の兵士に近づいた。本来なら、ここで通行証が必要となるのだが、今は犀星が一緒である。東雨は門番に、犀星を示した。
「歌仙様!」
気が抜けていた門番が、慌てて姿勢を正し、声を上げた。
「ああ。ご苦労。変わりないか?」
犀星は、歌仙親王特有の静かな、感情のない表情で尋ねた。決して笑顔を向けられたわけでも、名前を呼ばれたわけでもない。ごく普通の社交辞令だったが、若い門番は恐縮して頬を赤くする。
「はい! ありがとうございます!」
門番の返事はいささか的外れではあったが、犀星は小さく頷いて門を通り抜ける。その姿を、門番はじっと目で追いかけていた。
玲陽は一部始終を見ながら、東雨と一緒に門をくぐった。
「若様、ここでは人気あるんですよ」
と、東雨は、にこにことしている。
門の内側にも番の者がいた。犀星のことは先ほどと同様にやり過ごした。だが、玲陽の姿を見ると、眉を寄せた。呼び止めるつもりはないようだが、何者だろうという警戒の色が見える。しかし、玲陽ももう慣れたもので、にっこりと笑ってみせた。大抵、この笑顔を向けられると、相手は何も言えなくなってしまうのだ。
「光理様の笑顔は最強ですね」
東雨は嬉しそうだ。
「どんなに警備が厳重でも、光理様がにっこり笑ったら通してくれます」
「今は兄様が一緒ですから特別です」
と、玲陽が照れて言う。犀星は、門を通るときに作っていた親王の顔をやめて、玲陽のためだけの笑みを浮かべていた。
朱雀門からさほど遠くない一帯は、一般の民衆も出入りすることが許されている場所だ。ここでは商人たちが行商に来たり、宮中とのやりとりをしたり、取引のために簡単な屋台を組んだりと、活気ある様子だった。市場の延長で、犀星たちが住んでいるあたりと雰囲気は変わらない。
人通りも多く、賑わいもある。官民が入り乱れており、鮮やかな衣装も目につく。貴人の馬や輿などに混じって、商品を乗せた荷車も通る。
「今日、すぐにおまえの登録に行ってくる」
犀星は歩調を緩めて玲陽に並ぶ。東雨は、負けてなるものか、というように、玲陽の反対側に回り込んで一緒に歩いた。
「録坊で、正式におまえを俺付きに任命する。そうすれば通行証も出るし、自由に歩き回ることができる」
「それは楽しみです」
玲陽はやんわりと答えた。
「でも、ここ本当に広いですから……」
と、目を遠くへ向ける。
「こんなところ私一人で歩き回ったら、迷子になりますよ」
「それは困るな」
犀星は、あまり困っていない顔をした。
「一人で出歩いて迷子になるくらいなら、必ず俺と……」
「若様、そうやってまた光理様を一人占めにする気でしょう?」
と、東雨が横から、意地悪なことを言った。犀星はそっと東雨から目をそらした。
「五亨庵への目印は……」
気を取り直して、犀星は先を見た。朱雀門から北へ伸びる大通りの脇に、古い山桜の木が一本立っている。
「あの桜を覚えておけばいい」
「はい」
と、玲陽も歩きながら確認する。
「あの木を右に行くと、五亨庵だ」
「こんな、朱市の中にあるんですか?」
玲陽は首をかしげた。
「私、てっきり公の役所は、もっと宮中の奥にあるのだと思ってました」
玲陽の指摘はもっともだ。
「そうだな。そういう場合もある」
と、犀星は答えた。
「場合もある、のじゃなくて、五亨庵が特殊なんです」
と東雨が念押しした。玲陽は、やっぱり、という顔で、
「兄様のことだから、何かやらかしてるんじゃないかって思ってたんです」
と、犀星を見る。犀星は気にした様子もなく、ただ黙って前を向いて歩いている。
玲陽は、犀星という人間をよく知っている。無理を通す性格の犀星が、前例を無視した言動をとることは、想像の範囲内だった。
東雨は、玲陽の常識的な価値観に望みをかけて、
「光理様からも言ってやってください。若様のやることときたら、何でも突拍子がなくて、おかげでまわりからの目が厳しくて。俺だって、他の所の使用人にいろいろ言われるんです」
「いろいろって?」
と、玲陽が心配そうな顔をする。東雨はもう、隠すつもりがないのか、堂々と言った。
「親王は姿形は美しい。でも、その変わり者ぶりは宮中に並ぶものなし。よくあんな常識のない主人のところにいられるなって」
「常識のない主人、ですか」
玲陽は口を結んで、犀星を見た。当の本人はどこ吹く風で、気にも止めていない。
「確かに、常識はないです。否定しません」
玲陽はあっさりと認めた。
「でも、実はただの非常識じゃないんですよ」
「どういうことですか?」
東雨が首を傾げる。玲陽は穏やかに、
「全てが非常識なら、誰もついてはきません。けれど、決まりきったことだけでは、新しいことは始められないでしょう?」
「確かに……」
やはり、玲陽の説明はわかりやすい、と東雨は納得した。
「兄様は、その両方を取る人です。欲張りなんですよ。だから、常識の守り方も破り方も知っている……」
そんな話をしても、犀星はやはり穏やかで、むしろ、それがどうした、という顔をしている。玲陽はそれがおかしかった。
「兄様、破天荒な振る舞い、わざとですよね?」
と探りを入れると、犀星は肯定するように笑った。
「どうりで……若様のやること、最後にはうまくいっちゃうんですよ。どうしてなのかと、不思議だったんです」
東雨は大きく頷き、それから、
「大変ですけど、最近は少し楽しいです。色々あって、退屈しないので」
と、笑った。
「すっかり兄様に毒されましたね」
と、玲陽は嬉しそうだった。
朱市には、東市で見知った商人も出入りしている。そういう慣れた者は、犀星たちを見つけると手を振ったり、頭を下げたりする。そんな時には、犀星もほんのわずかに笑みを浮かべて応えていた。
犀星は、公私でまるで違う表情を見せる。玲陽はそれが好きだった。
朱市の賑わいの中にいると、いつもの市場のように思われて、ここが宮中であることを忘れそうだ。しかし、少し遠くを見れば、明らかに様相が違う。広々とした門前の広場の北には、夏場であれば緑豊かに茂る庭があった。今は全て雪に覆われ、灰色の景色になっている。
「暖かくなったら、案内しよう」
と、犀星は言った。
少し先の約束ができるというのは、こんなに楽しいのだな、と犀星はしみじみと思った。
春が来る頃にも、こうして一緒に歩いているのだ、という安心感は、犀星の心を暖かく、そして強いものにしてくれた。
都に上がってから、ただひとつ、玲陽をここへ迎えることだけを考え、あらゆることに取り組んできた。
この道を歩きながら、ここに玲陽がいたらどんなにいいだろうと、毎日のように想像していた。それが今、現実になっている。
犀星は自然と足が軽くなるように感じたが、悟られまいと敢えて、落ち着いた声を出した。
「この木だ」
犀星は足を止めた。
その山桜は老木で、既に寿命を迎えている。それでも枝振りは立派で、越冬芽がついている。
「来年の春には花が咲く」
犀星の声は、どこまでも穏やかだった。誘われるように、玲陽も枝を見上げ、目を細めた。
「一緒に見られるんですね」
故郷の歌仙を思い出す。春になると花の下で風に吹かれながら共に話をするのが好きだった。
「きっと、この木もおまえに会えて嬉しいはずだ」
まるで何か、秘密を打ち明けるかのように犀星は言った。
「なぜ?」
犀星は少し照れたように、
「俺が毎日、おまえのことを話して聞かせていたから……」
犀星は少し眉を寄せ、それから、かすかにうなずく。
「ご挨拶を、しなければ」
言って、玲陽はそっと、幹に手をあて、頬を寄せた。目を閉じると、風がそっと金色の髪を撫でていった。
玲陽の反応に、犀星は少し照れたそぶりで、それでも、目は離さない。
人に見られることを気にして、東雨は二人をうながした。
桜の角を曲がり、東へ向かう。
石畳の小径はひと一人が通るのがやっとで、二人が並ぶとどうしても肩が触れる。だというのに、犀星はさりげなく玲陽の隣を歩こうとする。東雨は、やむを得ない、と言わんばかりに玲陽の腰に腕を回して寄り添う姿を見て、
「わざとだな」
と、つぶやいた。
玲陽の説明によれば、犀星は単に好き勝手をしているわけではなく、すべてを計算の上に行なっているらしい。
そうだとすれば、犀星がこの道の横幅を広げる工事に反対していたのは、この時のためだったのではないかと思ったりもする。そんな想像をめぐらせる東雨の顔には、本人も気づかない幸せな笑みが浮かんでいた。
両側の木々はすっかり葉を落として、枝の向こうに鮮やかな群青色の建物が見えている。玲陽は早くにそれを見つけて、じっと見つめていた。
「あれが、五亨庵ですか?」
声が期待に震えている。犀星は口元を緩めた。
「うん。ここに陽を連れてくるのが、俺の夢だった」
これほどに満たされた犀星の声を、東雨は聞いたことがなかった。
五亨庵の壁は輝く青に染められ、銀色の雲紋が描かれている。色彩の対比が実に美しい。緩やかに湾曲した白色の瓦が、高い屋根の上から招くように彼らを見下ろしていた。
五亨庵の最大の特徴は、名前の通り五角形の不思議な形をしていることだ。
近づくにつれ、玲陽は少しずつ表情を変えた。初めは少し驚いて、それから不思議そうな顔になり、最後にはほっと安堵を浮かべた。
新月の光を持つ玲陽には、この場所に宿った霊的な力がはっきりと感じ取れた。
「兄様、もしかして……」
と、玲陽は犀星を見た。犀星は玲陽の意図に気づいて、
「よくわからないんだが……俺はこの土地に呼ばれたと思う」
と、意味深な答えを返した。
「ここはもともと荒地で、あたりには五つの大きな石が埋まっていた」
「石?」
「石は動かさず、そのまま、床の一部にしてある」
「見ればすぐにわかりますよ」
と、東雨が二人の間をわざとすり抜けた。両肩に犀星と玲陽の体が触れる。さりげなく触れられたことが嬉しくて、東雨はそのまま先行した。
「こっちです!」
と、大きな声で道案内をする。
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