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7 五亨庵(3)

 道は五亨庵の門へとつながっている。その大きな木製の扉は質素だが重厚で、外敵を防ぐための大切な役目を担う。幸にして使われたことは無いが、犀星が設計したとあって、五亨庵は軍事的な機能も考慮されている。  大抵の場合、この外門は開かれたままである。  五亨庵は、五角形をした外壁と、その内側のもう一つの五角形による内壁の二重構造で組み上げられている。  二つの壁の間には空間があり、仕切って部屋として利用されている。外門はその部屋のひとつに続いていた。そこは常駐する近衛兵の詰め所だった。十人ほどが楽に入る詰め所には、やわらかな毛氈が敷かれた|長榻《ちょうとう》が置かれている。今、そこにごろんと横になって、ひとりの近衛兵がぼんやりとしていた。 「|湖馬《こば》様、こんにちは!」  東雨がわざと大声で、中を覗いた。慌てて近衛兵が飛び上がる。 「……なんだ、東雨じゃないか。脅かすなよ」  湖馬と呼ばれた近衛は脱力した。 「へへ」  と、笑う東雨の後ろから、犀星が音もなく姿を表した。湖馬はだらけた姿勢のまま、犀星に目を向けた。 「久しぶりだな。元気そうでよかった」 「! ……歌仙さまっ!」  湖馬の声が裏返る。慌てて姿勢を正すが、もう遅い。 「い、異常ありません!」 「ここは、近衛の皆さんの休憩所です」  と、東雨が後ろの玲陽に説明する。 「休憩ではなく、警備に当たっているはずなんだが」  と、犀星が思わず正論を述べる。東雨は楽しそうに、 「ここで休むことを許可したのは若様じゃないですか」 「別に許可したわけではない。彼らが自然にそうしていたから、放っておいただけだ」 「放っておいたって事は、認めたってことなんです」  と、東雨は笑う。まぁ、そうなるか、と、犀星はそのままにした。  もともと、近衛の警備範囲は、宮中の中央区域である。それが、五亨庵の立地のために、南の辺境にまではるばる出向いてこなければならない。少しくらい役得があってもいいではないか、と、犀星は本気で思っている。  犀星たちのやりとりよりも、湖馬は玲陽の姿に目を奪われていた。  犀星が従兄弟を連れてくる、という連絡は受けていた。その従兄弟が珍しい容姿であることも伝わっていたが、実際に眼にすると驚きを隠せなかった。 「初めまして」  と、玲陽は丁寧に礼をして、にっこりする。 「あ……はい」  と、湖馬は間の抜けた対応をする。  このような、玲陽の笑顔による一撃、は、完全に相手の警戒心を溶かした。 「さぁ、光理さま、こちらです」  東雨は、内扉に手をかけた。 「いらっしゃいませ!」  明るい東雨の声が響いた。  開かれる門の隙間から、ゆっくりと中の様子が明らかになる。  玲陽の顔が、生き生きと輝いた。  そこは、まさに五角形の壁で仕切られた不思議な空間だった。  青と白、銀色の取り合わせで整えられた柱と壁、黒檀の床と白い石畳で囲まれた静謐な大広間は、清純な空気で満たされていた。玲陽は上を見上げた。高い天井の近くには、ぐるりと部屋を一周する欄間があり、青く澄んだ空が、まるで建物の装飾の一部であるかのように輝いて見える。そこから吹き込む風は心地よく、さらに床に近いあたりにも通風口が用意され、常に空気が循環するようにできている。 「冬場は寒いんですけど、夏は逆に外よりも涼しいんです」  と、東雨が言う。玲陽は小さく頷いた。 「この風の通り道……歌仙の屋敷で使われる、避暑の工夫が生きています」  その言葉に、犀星はかすかに嬉しそうな顔をする。  五角形の大広間は、辺を取り囲むように板張りの艶やかな回廊が巡っている。いくつかの机や棚が置かれ、個人が仕事に取り組みやすい配置だ。その外側には、外壁との間の空間があり、いくつかに仕切られた小部屋になっている。部屋に戸はなく、衝立が置かれていた。  中央は、板張りの回廊から数段を降りて、石畳になっている。石畳には長榻が二脚、その間には長い|几案《きあん》が用意されていた。どうやら、みなが集まって話し合う空間らしい。足元には柔らかな毛氈が敷かれ、まさに五亨庵の中心がこの場所であるということが示されていた。  入り口の内扉の前で、玲陽は立ち尽くしていた。玲陽の視界に、ちらりと光が踊った。それは彼にだけ見えた幻だったのだろう。玲陽は自然と、その光に導かれるように、中央へと歩んだ。そこで立ち止まり、ゆっくりと一周、見回した。まるで、この五亨庵という空間に、抱かれているような感覚があった。それはどこか犀星の気配そのものでもある。  東雨は、そんな玲陽の素直な反応を眺めていたが、やがて、そっと声をかけた。 「あそこが、若様の席です」  入り口の真正面に、ひときわ大きな几案が据えられている。床に座らず、|交椅《こうい》を用いている。刀を帯びたまますぐに動けるように、という犀星らしい選択だった。  美しく、神聖さを醸し出していると同時に、軍事や政治の機能性も兼ね備えているその構造は、犀星の心そのものを映し出しているかのようだった。  五亨庵は、あなた自身なのですね。  玲陽は、思わず自分の身体を抱きしめていた。  犀星が堪えきれない、という仕草で、その肩を抱こうと腕を上げた時、落ち着いた男の声がした。 「ようやくお戻りですか。随分と長い休暇でしたな、伯華様」  左奥の小部屋から、初老の男が姿を見せた。びくっとして、犀星は手を引っ込めた。 「玄草」  と、字を呼ぶ。玲陽はぼんやりしていた心を引き戻した。  その男は、蓄えたひげをひねりながら、背筋を伸ばしている玲陽と向き合った。 「玄草様……」  玲陽は裾を揺らして一歩進み出ると、まるで宮中で育てられた若君のように、優雅に礼をした。 「慈玄草様。お目通り叶いまして光栄にございます。犀光理にございます」  美しい鐘のような玲陽の声が、五亨庵の澄んだ空気に響く。  これを待っていたのだ、と、犀星は思った。この地に五亨庵を構えた時から、必ずや玲陽を招くと決めていた。  犀星は自分がどこにいるかも忘れてしまうほど、気持ちが高ぶっていた。  慈圓は、落ち着きのない犀星と、冷静に自分を見つめて立つ玲陽とを見比べ、そして、大袈裟なほどのため息をついた。 「侶香は、随分と面白い人間を育てたようですな」  唐突に慈圓が口にした名前に、犀星と玲陽は顔を見合わせた。 「あの?」  と、玲陽が困った表情を見せた。自分は何か失礼なことをしただろうか。  慈圓はにやり、と笑った。その顔はどこか、犀遠に似ていた。 「いや、光理どの。失敬した。おぬしの義父、犀侶香はわしの盟友でな。あやつがどんなふうにおぬしを育てたか、楽しみにしておった。伯華さまがこの調子ゆえ、もしや光理どのも似たような破天荒であってはと案じていたところだ。だいたい、伯華様ときたら……」 「玄草、その話はまた後にしてもらえるか?」  犀星が、まるでそれ以上話されては困る、というように遮った。玲陽はもっと聞きたい顔をしたが、こればかりは勘弁してほしい、という犀星の目に、苦笑して黙っていた。 「陽の登録に行きたい」  犀星はわざと忙しさを装うように、自分の席に寄ると、脇の箪笥の中を探す。 「何をお探しですか」  と、慈圓が近づく。 「王印」  と、一言、犀星は答えた。 「え! 無いんですか?」  東雨は犀星と一緒に、几案のまわりを探し始めた。 「王印?」  玲陽が慈圓に問いかける。 「親王が公式文書に用いる印のことだ。五亨庵では第一の貴重品だな」  冷静に、慈圓は言った。玲陽は目を丸くした。 「そんな大事なもの……!」 「心配には及ばん。おそらく……」  慈圓は落ち着いた様子で、几案のひとつに向かう。そこは、もう一人の五亨庵の官吏である、緑権の席だ。  犀星や慈圓の机上がきちんと整理されているのに対し、そこだけはまるで子供が散らかしたように、ものが雑多に置かれていた。筆は墨が固まったまま放置され、筆架も斜めに傾いている。木簡や竹簡が広げられたまま山をつくり、その隙間から硯が見えた。さらに机の端には算木が立てかけられ、中身のわからない袋や箱の類も不揃いな層を作っている。几案だけではなく、交椅の上にまで物が重なり、一番上には湯呑みがふたつ、乗っていた。  慈圓は慎重にそれらを避けながら、錦の袋を引っ張り出した。残念ながら、中身は空だった。 「あやつめ……」  憎々しげに愚痴りながら、慈圓はなおも周りをひっくり返した。  黒い小さな王印は、几案の下の毛氈の中から見つかった。 「どうしてそんなところに……」  東雨が、ぎょっとした。  慈圓はちらっと、今はいない緑権の代わりに、交椅に座る湯呑みを見た。 「しばらく前に仙水が来て、花街の警備の王旨が欲しいと言ったので、謀児が対応したのだ」 「それって、もう、一月も前じゃないですか」  東雨はげっそりとした顔で、 「謀児様、ずっと王印を踏んづけて生活していたんですね」 「そういうやつだよ、あれは」  慈圓は。王印を錦の袋と共に犀星に渡しながら、 「申請書は、ご自分でどうぞ」  まるで、邪魔はしませんよ、というような慈圓の口ぶりだった。  犀星は玲陽を見た。その目が、こちらに来い、と無言で伝える。玲陽は少し緊張しながら、犀星のそばに立った。犀星はそっと玲陽の背にふれて、座れ、というように促す。戸惑いながら、玲陽は犀星の席に座った。  東雨はそっと慈圓に近づき、並んで様子を伺った。慈圓は腕を組み、特に咎め立てすることもなく、ふたりを見守っている。  犀星は数枚の木札を丁寧に机上に広げた。それから墨を溶き、筆先を整えて、申請文をしたためる。その内容はすでに決めていたらしく、筆のはこびによどみはなかった。 『犀光理を以て、親王の左右に近く仕えしめ、その職を以て、親王の代理として事の一切を委ねる』  玲陽は、その一文に息を飲んだ。それは紛れもなく、自分を犀星と同列に扱うという内容だ。  何か言おうとした玲陽の唇に、犀星は素早く指を当てた。わずかに目を震わせ、玲陽はうつむいた。  犀星は箪笥から、小皿に盛った印泥を取り出し、申請書と並べた。王印を布で丁寧に拭い、印面を確かめてから、少しずつ朱をつける。  無言で進むその様子を、玲陽はじっと見ていた。用意が整うと、犀星は玲陽の後ろに立ち、背中から抱くように右手を取った。そして、玲陽の手の中に、王印を預けた。  ちょっと、待ってください……!  さすがに驚いて、玲陽は犀星を振り返った。  犀星がしていることが、どれほど大胆で常軌を逸しているか。宮中の儀礼に通じていない玲陽にも明白だった。  困惑する玲陽に、犀星はささやいた。 「受けて欲しい」  玲陽はためらい、問うように慈圓に目を向ける。慈圓は黙ったまま、かすかに笑っていた。東雨も何も言わない。  玲陽は改めて書面を見た。それから、ふたたび犀星を見た。犀星の蒼い瞳は確かに潤んで、自分だけを見つめていた。  もう、玲陽には頷く以外にできなかった。  そっと、犀星の手が導き、文末の署名が記された上で止まる。玲陽の手は震えていた。犀星の手も、やはり震えていた。やがて、互いを打ち消し合うかのように、そのさざなみは静まっていく。そして、凪。  どちらからともなく、手を下ろした。静かに、犀星の名に、印が重なる。  雲が切れたのだろうか。  差し込んできた日の光がふたりを照らし、甘い風と暖かな沈黙が辺りを満たした。  群青の中に光を抱いて、五亨庵は静かに、始まりを予感していた。

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