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8 いにしえの庭に遊ぶ(1)

 丁寧に仕上げた渾身の申請書を持って、犀星は慈圓と共に五亨庵を出た。  玲陽を録房へ連れて行こうとした犀星だったが、さすがに東雨に引き止められた。  理由は明白、目立ちすぎるのだ。  犀星が宮中に姿を見せるのは久しぶりのことである。それだけでも、相当に騒がれるに決まっている。その上、玲陽まで連れていては、火に油を注いでしまう。  さらに、どう考えても今の犀星は一線を越えている。玲陽を迎えた嬉しさゆえの興奮なのだろう。人前だろうと構わず、肩でも抱こうかという勢いである。そんな姿を見られるわけにはいかない、と、東雨は譲らなかった。  なかなか納得しない犀星に疲れ、東雨は玲陽に助けを求めた。  玲陽が見事に犀星を操ることを、東雨は知っていた。  玲陽は、寂しそうに微笑んでそっと犀星の袖を引き、早く帰ってきてくださいね、と小首を傾げて見せた。無理に説得するよりも、この斜めに構えて微笑む戦術は、犀星には特効である。  東雨もこっそりと鏡の前で試してみたが、残念ながら彼には真似できなかった。  玲陽と二人になると、東雨は安心したように一息ついた。 「全く、若様ったらあんなに舞い上がって。みっともないったらないです」  玲陽も中央の長榻に腰かけ、首から肩のあたりを揉みながら、同意のため息をつく。 「あの人、昔からあの調子なんですよ。静かにしているかと思えば、何かのきっかけで爆発してしまうんです。最近、少し落ち着いてきたなって思ってたんですけど、今回ばかりは仕方がないのかもしれません」  玲陽は疲れたように笑った。東雨も、呆れてはいるものの不機嫌ではない。 「若様、ずっと光理様とここで過ごすこと、楽しみにしてましたし……むしろそのためだけに十年間生きてましたし……」 「私的感情で政治をしていたってことですね」  申し訳なさそうに、玲陽は言った。 「それでも、結果的に誰かの役に立てていたのならよかったです」 「もちろん、役に立ってましたよ。だから街の人たちも、光理様のこと、すぐに受け入れてくれたんです」  玲陽は、市場での一件を思い出した。歌仙親王の弟、と紹介された途端、あらゆる疑いが氷解した。それは犀星に対する信頼の大きさを表している。  東雨は玲陽の向かいに座り、足をぶらぶらとさせた。 「昔、似たようなことがありました」 「似たようなこと?」 「はい。若様が都に来てすぐの頃、やっぱりいろいろと嫌な噂をされたんです。誰も若様のことはよく知らなかったし、母上も亡くなっていて後ろ盾がなかったから、軽く見られてたんだと思います」 「そんなことが……」 「はい。でもそのとき、涼景様が若様の後見についてくれたんです。あの時はもう、暁将軍として人気あったので、涼景様が保証するなら大丈夫だろうと」 「もしかして兄様、私に同じことをしようとしていたのでしょうか……?」 「まさかぁ。ただの偶然ですって。そこまで計画的になんて……」  と、否定したが、ふと、二人は揃って沈黙する。犀星の身の回りで起きることはすべて、彼の計算によるものではないのか。  無言で意味ありげに微笑む犀星の横顔が、はっきりと想像された。玲陽も東雨も、それ以上、ことの真相を考えることはやめた。  そうだ、と、玲陽が気を取り直したように、 「五亨庵のきっかけになったという石を、見せてもらえますか?」  玲陽の言葉の終わりに、ふっと風が通り過ぎた。  東雨は、軽く跳ねるように立ち上がった。 「こちらです」  言って、慈圓の席の後ろ側を指す。そこには黒光りする花崗岩が鎮座していた。東雨が両腕でようやく抱えられるほどの大きさだ。 「根元は土の中に埋まったままです」  と、東雨は腕を組んだ。 「掘り起こさないでそのままにするように、って若様が言ってました」  巨石の基部は白い玉砂利で囲まれ、上部が黒檀の床板の下から顔を覗かせている。  細部まで人の手が加えられた建物の中にあって、その自然のままの石は異質に見える。 「部屋の中に庭を作ったようなものです」  と、東雨は言った。  玲陽は他の石も順に見て回った。青みを帯びた石は氷のような透明感があった。赤い石はほんのりと暖かく思われ。光を受けて緑がかった石は若葉の匂いを感じさせ、最後の一つには、金色の筋が走っていた。  石に込められた意味を、玲陽は考えずにはいられなかった。そのひとつひとつに丁寧に触れ、記憶に刻みつける。  この場所が、何らかの霊的な意味を持っていたこと、そして、その力が犀星を引き寄せたことは明らかだった。今もなお、結界として空気を清浄に保っている。  玲陽は思慮に沈んだ。  本来、この地域にはない種類の石が持ち込まれ、五角形の頂点に位置するように正確に置かれたとすれば、そこには間違いなく人為的な意図がある。  誰が、いつ、何のために。  今、この場所から、嫌な力は感じなかった。しかし、強い力は時として諸刃の剣となる。犀星がこの地に惹かれた、ということも気がかりだ。玲陽と同じく、犀星にも玲家の血が確実に受け継がれている。  玲陽は目を閉じた。  こうして五亨庵の中心に立っていると、建物すべてに見つめられているような感覚がある。耳の底に、低く銅鑼のような音が繰り返し響いた気がした。 「光理様?」  深刻な顔で黙ってしまった玲陽に、東雨は思い切って声をかけた。玲陽はハッとして、東雨を見た。  つい、自分の内側にこもって考え込む癖が出てしまった。 「ごめんなさい、ぼうっとして」 「いえいえ」  東雨は気にしていない、と首を振る。 「前にここにきた陰陽官も、同じようなこと、してました」 「陰陽官?」 「はい。気になるから見せて欲しい、って。ここは力が集まるとか、調和がどうとか……」  話を聞くうちに、また、玲陽の表情が暗くなる。しかしそれは、東雨の最後の一言で打ち砕かれた。 「とにかく、いろいろ面倒!」  その言い方に、玲陽はぽかんとした。東雨が言うと、どんなことも深刻にならずに済みそうな、明るい救いが感じられた。  その陰陽官が言いたかったのは、結界や聖域として力を持つ、ということだろう。それは世界のことわりを整えるという観点で、非常に重要であり大切にされるべきことわりだ。それを、面倒臭い、と片付けた東雨に、玲陽は好感が持てた。 「若様ったら、なんでこんなもの、作っちゃったかなぁ」 「本当に、兄様らしいです」  文句を言いながら、ふたりは笑顔だった。犀星について話すとき、ふたりは、自然と声も明るくなる。 「形はともかく、こんな宮中の端にあったら、いろいろ大変なのではありませんか?」 「そうなんですよ!」  と、東雨は力一杯に肯定した。 「俺、毎日何回も中央区にお使いに行かなきゃならないんです。若様が出かけるとなると、近衛まで付き合わされちゃいます」 「湖馬様、でしたね、先程の……」 「はい。右近衛隊から、いろんな人が入れ替わりで、ここまで出張してくれてます。一人だけだけど」 「警備が手薄になって、危なくはないですか?」 「俺も、それ、心配してたんです。この南の区域、宮中の禁軍の警備もほとんど無いし。でもね」  と、東雨はにんまりする。 「朱市のそばだから、逆に商人たちが見張っていてくれるんですよ。兵を率いて襲ってきたら、みんなが確実に気がつきます。昼間は人目があって怪しいことはできません」 「なるほど……」 「そして、ここは住居ではないので、夜は都の屋敷に帰ってしまう」 「ああ」  と、玲陽が手を打った。 「若様らしい、防衛方法でしょう」 「はい」 「せっかくですから、五亨庵の中、案内しますよ!」  玲陽の笑顔に、東雨はさらにやる気が出た。  玲陽との関係を親密なものにする、絶好の機会だ。  ふたりきりのとき、玲陽が自分に対して隙を見せ、あわよくば命を狙える関係を築くこと。  それが、宝順が東雨に下した命令だった。 「こちらへどうぞ」  東雨は親切な顔をして、犀星の几案を指した。  五亨庵に設置されている几案はどれも同じ規格で、犀星のものだけが特別立派である、ということはない。  だが、その机の上の様子は、実に彼らしい。常時必要となるもの以外は全く置いていない。  筆架と筆、硯、墨と水入れに文鎮。それらが机の端にきちんと揃えてある。筆も一本一本が丁寧に整えられて、整然と筆架にかけられていた。  左の端に木簡をおさめる箱が置かれていたが、今は中身は空である。普段はここに、処理すべき書類が保管される。  几案の横に小さな箪笥があり、そこには資料や、書きかけの予算書、計画書、経理簿などが、整えて収められていた。  交椅に毛氈が敷かれていたが、決して豪華なものではない。  犀星の席から、外縁の回廊に沿って右の手前に慈圓、奥に緑権の席がある。  それぞれ個性が出るようで、慈圓の席のそばには山積みにされている書類や巻物、それらを収める箱や棚などがぎっしりと並び、まるで壁のように周囲と仕切りを作っている。  緑権の席は、とにかく、物が多かった。その雑然ぶりは、さきほど、慈圓が王印を探すときに確認済みであった。本来、そこにあるはずのない日用品までが、手の届く場所にごちゃまぜに置かれていた。色とりどりに鮮やかな、丸められた毛氈が何枚も見える。よほど座り心地にこだわりがあるのだろう。また、寒くなる季節には、大量の褥が持ち込まれるのが常であった。 「まったく、俺がいないと、出しっぱなしなんだから」  東雨は足早に近づき、湯のみを手に取り、緑権の後ろ側の小部屋に向かった。おとなしく、玲陽は後をついていく。  そこは厨房になっていて、奥の引き戸の先は、井戸と厠につながっている。

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