26 / 63
8 いにしえの庭に遊ぶ(2)
「光理様、厨房、自由に使ってくれて大丈夫ですから」
と、東雨は湯のみを桶の水に浸した。それから、顔をしかめて、ぐるりと見渡し、
「ちゃんと片付けますので……」
と、恨めしそうに言う。
東雨がいない間、厨房の整理も五亨庵全体の掃除も、備品の管理も、何もかもが放置されてしまった。
普段自分がやっていることが失われると、これほどに荒れるものかと、がっかりすると同時に、自分の存在意義を再確認する。
「いつもは、こんなに散らかってないんですよ」
東雨は少し、五亨庵の品格を弁護した。玲陽はにこっと笑う。
「東雨どのがいないと、五亨庵は機能しないみたいですね」
「わかっていただけますか!」
東雨は嬉しそうに、
「若様や玄草様が忙しいのはわかるんです。でも謀児様はもう少ししっかりしてくれてもいいと思います」
と、大人びたことを言った。
それを聞きながら、玲陽はまだ会ったことのない緑権という官吏に興味が沸いた。
礼儀正しい東雨がこれほど言える相手なのだから、きっと、気軽に話しができるだろう。
続いて、東雨は、厨房の隣の部屋へ案内する。
「こちらが書庫です」
壁一面に机架が並び、そこには木簡や竹簡、布製の地図などが、きちんと並んでいた。
宮中には大規模は秘府があり、必要なものはその都度借りに行くのだが、日常的に使うものについては、こちらに保管してある。
「きっと、光理様なら、一日中、秘府にいても飽きないと思いますよ」
東雨は、竹簡に夢中になる玲陽を想像した。
「私も、読むことが許されますか?」
「もちろんです。若様は光理様に、最高の地位を用意したんですから」
玲陽は少し困ったように、斜め下を見た。犀星が録坊に願い出たのは『承親悌』という、耳慣れない官位だ。
「『承親悌』は若様が新たに作ったんですよ」
玲陽は、わずかに青ざめた。
「それ……簡単なことではないのでしょう?」
「まぁ、いろいろ無理を通したみたいですけど、若様のすることですから、心配ないと思います」
東雨は、平気そうに言った。だが、この話が進む中で、自分が玲陽に嫉妬を抱いたことは、自覚していた。
犀星は今まで、誰かを特別に扱うということをしてこなかった。それが、玲陽に対しては、あまりに熱心だ。
東雨はそこに、棘のような痛みと寂しさを覚えてしまう。
「光理様、次はこっち!」
東雨は、大きな声を出して玲陽を呼んだ。
「若様の席の後ろ、兵庫なんです」
玲陽は中を覗いた。壁には、長槍や細身の戟、短剣などが用意されている。火薬も扱っているようで、鍵がついた木箱の中身は、煙玉や、襲撃を知らせる火紋などだ。
「この部屋、若様の私室や寝室とも繋がっています」
東雨は部屋の一方を示した。衝立もなく、すぐに移動できるように動線が確保されていた。
「万一、入り口から敵に侵入された場合、若様がここで武器をとって中庭に行きます」
と、東雨が非常事態のことを説明する。
「まぁ、今のところ、そういう事は無いですけどね」
玲陽は、兵庫の中をしげしげと見た。
どの武器にも、丁寧な手入れの跡があった。
東雨はちらりと、昔聞いた話を思い出した。それによれば、玲陽は、犀星よりも剣術の腕が立つらしいのだ。
「あの、光理様って、刀、使えるんですよね?」
と、東雨は少し遠慮がちに聞いた。
「はい」
と、玲陽は控えめに答えた。
「子供の頃、父上に習って。でも、この十年、まともに稽古をした事はありません」
「でも、真面目な光理様のことだから、何もしてなかったわけではないでしょう?」
「真面目と言うことではありませんが……忘れたくなくて、素振りや、体幹を鍛えるための体術などは少しだけ…… けれど、体が弱って、思うようには動けませんでした」
正直だ。
東雨は、玲陽の受け答えに安心感を覚える。玲陽は、すっかり心を許しているように見える。
「光理様の体が良くなってきたら、俺に稽古をつけてもらえませんか?」
と、東雨は思い切って言った。
「私が東雨どのに稽古? 逆なのでは?」
玲陽は、東雨の剣の腕を知らない。東雨はあえてそこには触れずに、
「とにかく、一緒にやれたら楽しいと思います」
と、だけ答えた。玲陽はもちろん、頷いた。
玲陽の実力がどの程度か、それは宝順に報告するためにも必要な情報だった。
当然、玲陽には、東雨の真意などはわからない。
「稽古するなら、ここがいいですよ」
東雨は兵庫の外壁の戸を開いた。ふっと、外気の匂いがした。
「中庭です」
言って、東雨は、ぽん、と真新しい雪の上に飛び降りた。玲陽はそっと庭を覗いた。
誰にも踏み荒らされていない雪は、銀の粉を撒いたようにキラキラと輝いている。日差しが降り注ぎ、それが雪に反射して、玲陽は眩しさに目を細めた。
雪の広場の向こうには、木々が立ち並んでいる。葉を落とすもの、冬も緑を保つもの、など、あらゆる樹木が美しく空に枝を広げていた。それらは特に整えられず、自然の流れに任せた姿である。
木々の下には低木や茂みもあり、真っ赤な果実が雪との対比で美しい。
「さすがに、ここに畑はありません」
と、東雨は言った。
「以前、若様が言い出したことがあるんですけど、お客様もいらっしゃる場所に畑はダメって、みんなで止めたんです」
「兄様らしいです」
玲陽は呆れた。
入り口から左手を見ると、薪割りのための場所が用意されていた。薪割り用の切り株が、すっかり雪に埋れていた。そばには木材が積み上げられ、こちらも雪を被ったままだった。
「あーあ、やっておいて、って言ったのに」
東雨はそちらを見て、
「薪割りもできないんだから……」
と、木材に乗った雪を払う。
「申し訳ありません、光理様、薪割り……」
と言いかけて、東雨は玲陽の左手のことを思い出し、口を閉じる。だが、玲陽は嬉しそうに言う。
「一緒にやりますか?」
玲陽は、楽しいことを提案するかのようだ。東雨は嬉しさ半分、照れくささ半分で顔を緩めながら、
「そうしてくれると楽しいし、嬉しいし、助かります」
と、率直だ。
その無垢を装う仮面の下には、別の顔がある。
薪割りならば、隙も大きい。事故に見せかけて何をするのも自由になる……
もうひとりの冷静な東雨が、胸の中でこっそりと耳打ちした。だが、それを知るのもまた、東雨本人だけである。
東雨の天真爛漫な明るさが、玲陽には何よりも嬉しい。自分が長く人との付き合いを恐れて、どう接していいかわからずにいる中、東雨は自分から手を伸ばして玲陽を導いてくれる。
犀星とはまた違った、その関わり方に、玲陽は心から感謝している。
「光理様は子供の時、薪割りも、していたんですか?」
東雨が尋ねた。玲陽は、こくんとうなずいた。
「全身の鍛錬になるからやれって、よく、兄様と一緒に。あの頃、子供たちはみんな薪割りでしたね。今思うと、大人たちが億劫がって押し付けていたのかもしれません」
と、どこか嬉しそうだ。
「それ、あると思いますよ」
東雨は、ああやっぱり、と肩を寄せて、おかげで散々鍛えられて、剣術より得意です」
東雨が照れながら言う。
「頼りになります」
と、玲陽はどこまでも優しい。
東雨は嬉しくなった。
そしてまた、仮面の下の東雨が、騙されるな、と警告するのが聞こえた。
東雨は騙す者であり、玲陽は騙される者であるべきだった。
東雨は、自分自身の声を、少しだけ邪魔だと感じた。
「光理様、あれ、わかりますか?」
庭の中央あたりに生えている、一本の桂の木を指さした。
玲陽は、雪を踏んで近づくと、その幹に体をもたれかけた。
その仕草は、初めて会った日の犀星と同じだった。あのとき、犀星は突然、宮中の庭の蝋梅の木に、今の玲陽のように体を寄せた。
まだ、犀星のことを何も知らなかった東雨は、その行動に驚かされたのだった。
今、玲陽はあの時の犀星と同じことをしている。
歌仙には、そんな風習があるのだろうか、と東雨は思った。が、すぐに、
これは、この二人だけのものだ、と、考え直した。
一緒に育つと、仕草までが似るのかもしれない。
玲陽は少しそうしてから、枝葉を見上げた。
「桂の木は、仙界とつながる、神秘的なものとされています。この五亨庵には、本当にふさわしいと思います」
東雨にはそのような言われはわからなかったが、この庭を作るときに犀星が自分で植えたのを覚えている。
「花が、すごく素敵なんですよ」
言いながら、東雨は懐から小さな香り袋を取り出した。
「歌仙に行く前にちょうど花が咲いて……俺、毎年ここの金木犀で香袋を作るんです。来年、光理様にも作っていいですか?」
「嬉しい! 私、そういうのに憧れていたんです」
玲陽は、目を細めて、可愛らしいことを言った。
「任せてください! 腕によりをかけて作りますから!」
東雨はもう、嬉しくてたまらない。
香袋からはほのかに甘い匂いがする。東雨はこの匂いが好きだった。それは、自分が五亨庵の一員であるという証のようにも思えた。
東雨はふと、声を低めた。
「俺、思うんです」
玲陽からそっと目をそらし、空を見上げる。
冬の空が、東雨は好きだった。その透き通る色に、犀星の面影を重ねる。
「若様は、外見が、あんなふうに綺麗でしょう?」
唐突に、そんな話を切り出す。
「みんな、若様の見た目や、仕事の結果にばかり目を向けているけれど、それだけじゃ足りない」
興味深そうに、玲陽はじっと耳を傾けてくれる。
東雨は香袋をそっと両手で包みながら、
ともだちにシェアしよう!

