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8 いにしえの庭に遊ぶ(3)

「言葉も少ないし、表情もあまり動かないですけれど、心の中はとっても繊細で、いろんな感情がたくさん溢れているような気がします。だから余計に、自分の気持ちを押さえつけてしまうんじゃないかなって」 「……はい」  玲陽は頬を緩め、うなずいた。 「東雨どのは、本当に兄様のこと、大切にしていらっしゃるんですね」  東雨は自分の手がぴくりと震えたことに気づいた。 「あなたのような人が兄様のそばにいてくれたから、兄様は頑張ってこられたのだと思います」  東雨は少し驚いた顔をした。  誰からも、子供扱いされ、利用はされるばかりだった東雨にとって、玲陽は対等に話をしてくれた。  それを喜ぶ心と、全ては演技だと否定する心が、せめぎ合って東雨を揺らした。 「別に、俺は……」  と、東雨は鼻をこする。  自分は今まで何をしてきたのか。  自分が信じてきたことと、まるで違う意味を、玲陽から渡された気がした。  微笑んで東雨を見ていた玲陽は、その向こうに、楓の木を見つけた。枝には、まだ数枚の葉が残されている。根本の雪の上に、赤や橙、黄色の葉が、鮮やかに散りばめられていた。  玲陽は楓に近づくと、一枚の赤い葉を拾い上げた。  じっと見つめる。  その顔は、あまりにも美しくて、雪景色と紅葉と青い空によく映えた。 「こんな色、初めて見ました」  玲陽は小さく息を吐いた。 「歌仙には、紅葉ってないんですか?」  東雨にとって、秋に葉の色が変わることなど当たり前である。  玲陽は少し首をかしげるようにして、 「色づかないわけではないですが、ここまで鮮やかなことはありません」  言って、玲陽は、冬空と、まだ枝先に揺れる赤い葉を眺める。 「その命の最後に、一枚の葉が、これほど美しく輝くなんて知りませんでした」  そう、ささやいた玲陽の顔には、透き通るような美しさがあった。  玲陽は、何枚かの葉を手に取ると、少し離れて、踏み固められていない柔らかな雪の上に丁寧に並べた。一枚一枚に話しかけて、この世界に生み出すような優しさで。  玲陽の手で、その存在を認められた枯葉が、東雨は羨ましかった。  雪と紅葉と、子供のような横顔。  十五歳から、長くたった一人で閉じ込められていた玲陽の心は、年齢よりもずっと幼いままのかもしれない。  この人は、まだ、子供なんだ。  東雨の胸に、抑えがたい激しい感情がこみ上げた。  たまらなかった。  この人を傷つけてはいけない。  強く、強くそう思った。  皇帝の声が、東雨にそっとささやいた。 『玲陽の信頼を得よ。ふたりきりになれるほどに』  今、二人きりだ。  玲陽には隙しかない。武器もなく、こちらに背中を向けて座り込み、急所を曝け出している。  自分の懐には、刀がある。  五亨庵には誰もおらず、何が起きても、言い逃れができる。  ……果たしてしまった。  命令の遂行は、東雨にとっては生き残る唯一の道である。  だが、これは、歩んではならない道だったのではないか。  自分は、裏切り続けている。今、こうしていることは、策略の一部であって、真心ではない。  ……そんなふうに、俺を、信じないでください。  東雨は、玲陽に背を向けた。  取り返しのつかないことをした罪悪感にうろたえる。  思わず自分の肩を抱く。体の震えは収まりそうもない。  そっと、自分の手に暖かな玲陽の手が触れて、東雨は驚いて、さらに身を縮めた。 「……寒いですか?」  玲陽が気遣うように聞いた。  東雨は背中を向けたまま、必死に仮面を探した。  こういう時は、どんな顔をすればいいんだ? 考えろ!  東雨は焦る気持ちをねじ伏せる。  それから、困りきった顔で振り返った。 「だめですね、体がまだ慣れてないみたいで。光理様のほうがたくましいです」 「では、中へ入りましょう」  玲陽は、何も知らず、そっと促してくれた。  これ以上、玲陽の姿を見ていたら、自分はどうにかなってしまう。  東雨はあえて目をそらし、平気なふりをして五亨庵の中へ戻った。  「お茶をいれてきます。休んでいてくださいね」  玲陽は、東雨に勧められるまま、中央の長榻におとなしく座った。  厨房へ入る。  こういう時は、忙しく働くに限る。  東雨は余計なことを考えず、火を起こすことに集中した。しばらく使われていなかったのか、ほとんど触られた形跡がない。 「何もかも、俺任せなんだから」  東雨は独り言を言った。普段通りにしていると、自分に科せられた使命が遠のくようで、少し気持ちが軽くなる。  湯を沸かし、棚を探る。箱の底に、白茶が残っていた。  東雨は、茶葉を急須に入れた。銅壷に沸かした湯を注ぐ。  燃え残っていた炭は火鉢に移し、手を温められるように、茶と一緒に玲陽のもとへ運んだ。 「夏に採れた茶葉なので、風味は落ちているかもしれませんが」 「暖かいです」  と、玲陽は茶碗を両手で包んだ。  東雨は少し迷ってから、 「五亨庵の桂に若芽が出たら、それで白茶を作りませんか? 次の、春……」  玲陽が目を上げる。 「光理様と一緒に、芽を摘んで乾かして……」  その時のことを想像しながら、東雨は微笑むような顔をした。 「そうですね。春には、若芽摘みをしましょう。それから、次の秋には……」 「金木犀の香袋を作ります」  次の春、次の秋、未来を約束するその言葉は、東雨にとって尊いような、儚いような、そんな響きがあった。  玲陽は、まるで彼の瞳のような、淡い琥珀色の茶を見つめた。暖かく湯気がたつ白茶は、東雨の優しい心を手にしているかのようだ。  改めて、五亨庵の中へ目を転じれば、変わらずに美しい景色が広がっている。  犀星が作り上げた場所。  一緒に歌仙を走り回っていたあの少年が、遠くに行ってしまったような寂しさ。  しかし、それは玲陽だけの寂しさではなかった。  犀星もまた、ひとり、心細かったに違いない。それゆえに、今、必死なまでに自分を引き寄せようとする。  玲陽に与えられる『承親悌』という名。それを手に入れるために、犀星はどれほどの道を歩んできたのだろう。  だが……  玲陽は、手放しには喜べない自分を感じていた。 「……やはり、公私混同が過ぎると思います、兄様は」  玲陽は、ぽつり、と呟くように言った。直前までの明るさが消える。 「光理様……」  東雨も表情を曇らせ、そっと顔を覗き込んだ。  玲陽は決して、照れや遠慮から言っているわけではなかった。その白い顔はより一層、色が薄れて見えた。 「心配、なんです」  小さく、震えるように玲陽は言った。 「兄様が、私のためにしてくださること。それは嬉しいです。けれど、度が過ぎれば、周囲があの人をどう思うか。せっかく築いてきたものを、私のために壊したくない」  それは玲陽の切実な願いだった。  東雨にも、彼の真剣さ、思い詰めた心の深さが痛いほどに伝わってきた。  東雨もまた、同じことを考えたことがあった。玲陽にかまけて、犀星が政治を放り出すのではないか、そんなことになって欲しくは無いと。  同じだ、と、東雨は思った。  玲陽も自分も、犀星を思う気持ちに違いはない。  東雨は必死に考えた。  今は、犀星の侍童として、何か言いたかった。  玲陽と同じ場所に立って、同じ人を見たい。  東雨は、真剣な顔を上げた。 「方法があります」  東雨を見る玲陽の顔は、どこか、追い詰められているようでもあった。 「方法?」 「はい」  力強く、東雨は頷いた。 「光理様が、若様より、すごいことをすればいいんです」 「……え?」 「俺、宮中で、いろんな人を見てきました」  東雨の口調は今までになくしっとりと、落ち着いていた。 「自分の身内を勝手に官職につけて、政治をガタガタに崩してきた人たちもいました。光理様が、心配している通りに」 「…………」 「でも、逆のことだってありました。肩書きだけで実力はないだろう、って笑われていた人が、すごいことをやり遂げて、まわりを叩きのめしたこともあったんです」 「…………」 「若様は、決して愚かじゃ無い。光理様が大事で、一緒にいたいからって理由だけで、こんなことはしません。俺が知っている若様は、そういう人です」  東雨には、それが真実だという自信があった。 「若様が認めたのだから、光理様は、すごいことをする人です」  それが何かは、東雨にも想像はつかなかったが、そうなる予感は確かにあった。 「名声や、官位なんて、くだらないのかもしれない。けれど、宮中では、実より名が必要な時もあるんです。それは力を発揮するための道具です」 「道具……」 「はい。若様は、何も無いところから這い上がった。それがどれだけ辛いか、悔しいか、知っています。だから、光理様に、やりたいことができる道具を……武器を、あげたかったんです。光理様なら、使いこなせるって信じているから」  東雨は、少し、息を落ち着けて、 「光理様が、みんなを黙らせることをすればいいんです。そうしたら、誰も若様のわがままだなんて言いません」  玲陽は、じっと東雨を見つめていた。 「ねぇ、光理様」  と、東雨は少し笑った。震える声を悟られまいと、精一杯に胸を張る。 「俺も、手伝いますから。だから、一緒に、若様の公私混同、周りに認めさせてやりましょうよ」  玲陽は立ち上がると、耐えきれない、というように、東雨に背を向けた。肩が震えていた。  東雨もまた、すぐに動けなかった。  静かな興奮が、指先にまで浸透し、血の流れまで感じられるほど、感覚が鋭敏だった。  自分が口走ったことが、誇らしかった。  本当に、言いたいことが言えた、と感じた。

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