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8 いにしえの庭に遊ぶ(4)
玲陽に語ることで、自分の心を初めて知った気がした。
光理様は、俺にとって必要な人だ。
東雨は、それを受け入れた。
犀星に対する思慕とは違う、また、別の愛しさが、確かに生まれていた。
東雨はそっと、聞き耳を立てた。まだ、扉の外は静かで、犀星たちが戻ってくる気配はなかった。
若様、ごめんなさい。
少しの罪悪感と、好奇心。
東雨は静かに玲陽に歩み寄った。手を伸ばし、その背中に触れ、それから黙って額をあてた。温もりが伝わる。
玲陽は涙を堪えるように、じっと立っている。
「大丈夫、ですよ」
優しく、東雨はつぶやいた。
「大丈夫、ですから」
東雨は、何度も繰り返した。
玲陽なら、本当にやってくれる。犀星を助けてくれる。誰よりも、犀星のことを、守ってくれる。
嘘つきな、俺なんかより、ずっと……
東雨の目から、涙が溢れたが、声は立てなかった。
同時刻、録坊。
玲陽が案じた通り、録坊への道は、大変な騒ぎになっていた。犀星を見つけて駆け寄る者が後を絶たず、また、何かにつけては呼び止められて、その歩みは遅々としていた。
中常侍や尚書令配下の郎官、禁軍の小隊長などの見知った者もいたが、直接関わりのない侍医や尚衣局の女官、果ては稽古帰りの楽官までが、放ってはおかなかった。さらに遠巻きに、何人もの女性たちが、犀星に色っぽい視線を浴びせかけた。
初めは冷静に対応していた犀星だったが、次第と表情がこわばり、失礼がない程度に浮かべていた笑みも尽き果てる。
ようやく録坊の公案に書類を差し出した時には、犀星も慈圓もすっかりくたびれていた。
もともと、人付き合いの苦手な犀星は、大勢に囲まれることを好まない。明確な用件があるのならば良いが、ただのご機嫌伺いの連発では、まさに閉口の極みだった。最後には、黙り込んでしまった犀星に代わって、慈圓が周囲に愛想を振りまく始末である。
玲陽を連れて来なくてよかった、と二人とも心底思った。
犀星が提出した書類を確認し、担当の官吏は複雑な表情を浮かべた。
断るわけにはいかないが、前例のない話である。事前に慈圓が根回しをし、犀星もあらゆる無理を通してきた。ここで反故にされることはない、とわかってはいても、許諾が降りて証明札を受け取るまでは、落ち着かなかった。
わずかに燻った香の匂いが立ちこめる別室に通され、ようやく膝を折って床に座ると、犀星は珍しく肩を落とした。
「さすがに疲れた」
と、呟く。
「これからが本番ですぞ」
と、慈圓が励ます。
犀星は恨めしげな目で慈圓を見た。慈圓が悪いわけではないのだが、それ以外にぶつける相手がいない。慈圓は逆に、にやにやして、
「これに懲りて、長く宮中を留守にしないことです」
「考えておく」
犀星は小さく答えた。
言葉はそっけないが、慈圓の声には温かみがある。犀星はこの偏屈な官吏が好きだった。
五亨庵で政務を始めるにあたって皇帝から、深い見識のある者を身近に置くようにと勧められた。何人か候補があり、その中に、慈玄草の名があった。
その頃の犀星には知る由もないが、皇帝が慈圓を候補に加えた一番の理由は、手に余るから、というものだった。
慈圓の気質は、頑固な理屈屋そのものだった。感情の赴くままに振る舞いたい宝順にとっては、目障りな存在であった。才能がありながら、中書侍郎どまりの出世となったのも、皇帝に疎まれたからに他ならない。
だが、毒も使い道では薬になる。
慈圓を犀星のそばにおけば、自然と押さえつけてくれるだろう、との期待があった。
そんなことは露とも知らず、犀星は、なんとなく父に似ていたから、という理由で、慈圓を選んでしまった。犀星は慈圓と犀遠の関係を知らなかったが、直感的に似た気配を感じたのだろう。
慈圓に一度任せると決めれば、犀星は一切口出しをしなかった。放任ではなく、信頼の上での行動であると、慈圓は読んだ。そして、犀星を支え、厳しくも丁寧な指導で導いた。
それが、今日の二人の信頼につながっている。
皇帝の目論見は見事に外れ、慈圓は犀星を制する薬になるどころか、さらに勢いづける翼となった。
書類を提出してからしばらくが過ぎた。出された茶も冷めた。
犀星はふっと、欄間から空を見上げた。
近くに、玲陽がいる。そう思うだけで心が和らいだ。
小さく足音がして、二人の人物が部屋に入ってきた。
一人は先ほど書類を受け取った官吏である。もう一人は、犀星が見知っている男だった。
四十代半ばほどの、気難しい顔をした小柄な風体である。上質な絹の紫袍をまとい、藍色の直裾と合わせている。襟元に見える白の交領は、陰陽を生業とする者の印だ。
腰を下ろす際に、帯につけていた木札が乾いた音をたてた。
名を、|紀宗《きそう》という。もちろん本名ではない。
この類のまじないを扱う者たちは、本名を知られることを嫌う。名を知られることは、すなわち運命を握られることである。
五亨庵を建設する際に、紀宗は土地の吉兆を占ったことがあった。さらに、時折、五亨庵を訪ねてきては『運気が……天気が……風が……』などと、よくわからないことを呟いて帰っていく。
東雨はよく、興味半分気味悪さ半分でそれを見ている。
紀宗は犀星が提出した木簡を自分の前に置き、手にしていた丸い木の霊盤を並べた。
犀星はちらりと慈圓を見た。慈圓は余裕を持って、犀星にうなずいて見せる。
堂々としていなさい。
その暗黙の指示に、犀星は素直に従った。
「何か問題でも?」
犀星は、紀宗に向かって尋ねた。紀宗は唇を捻じ曲げている。細い目は視点が定まっていない。それが余計に不気味だった。
陰陽官としての腕前は良く、帝の寵愛もあるが、つかみどころがない。
「ちと、気になるゆえ……」
と紀宗が、小さな声で、かさこそと喋る。これは彼の癖である。霊盤の上で針を動かし、何やら小さな札を並べ、ぶつぶつとやっている。
「気になるとは、どのようなことが?」
立ち向かうように、慈圓が言った。
「これは……」
と、ようやく聞き取れる程度の声で、紀宗が言った。
「この者の……『犀陽』とは、生まれの名か?」
犀星は全く動じず、返答もしない。
答える気は無い、という強い意思だ。
紀宗は少し顔を上げた。まっすぐに犀星を見ることは礼儀に反するため、喉元のあたりまでで止める。
「生まれの名であるか?」
紀宗は繰り返したが、やはり犀星は黙ったままである。
これでは話が進まない。
事情を知っている慈圓は、仕方なく口を開いた。
「いや、先日養子縁組をしたゆえ、名が変わっている」
「元の名は?」
紀宗が問い直す。
慈圓は犀星の顔色をうかがった。とがめられないことを察すると、自分で答えた。
「元は、南陵郡歌仙の玲家……」
紀宗はぶつぶつと繰り返し、また霊盤に触る。時折ぴたりと手を止め、また針を回す。木札を動かす音が部屋に響く。
何をしているのか、犀星にはわからないが、慈圓がわずかに眉をひそめた。
博学な慈圓には、何かが読み取れるらしい。
「……どちらにせよ、変わらぬ……」
紀宗は、自分を納得させるように言った。それから、また、犀星を見るように顔をあげる。
「……飲むか……飲まれるか……用心せよ」
そして官吏にそっと、犀星の木簡を押して返す。
官吏はただ黙ってそれを受け取り、頭を下げた。
「玲親王殿下よりのご申請、たしかに承りました。録坊において記録手続き、速やかに進めさせていただきます。」
犀星はわずかに目を細めた。
立ち上がり、しずしずと部屋を出ていく二人を、犀星と慈圓はそのままの姿勢で見送った。
「何なんだ、あれは」
と、犀星が感情のない声で言った。慈圓は一つ、強めに鼻で息を吐き、
「名前の吉兆がよろしくないのでしょう」
「名など」
と、強めに言って、犀星は顔を背けた。
名前や血筋、そのようなものに縛られて、自分たちがどれほどの目にあってきたか。
ここにいたってなお、それがついて回ることが煩わしい。
「帰るぞ」
犀星は言うと、立ち上がった。一刻も早く、玲陽の姿が見たかった。
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