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9 添えば、君(1)

「ええっ! 紀宗様がいたんですか?」  話を聞いて、東雨は、怯えた顔をした。  録坊から帰ってきた犀星と慈圓は、完全に精魂尽き果てたという様子で、中央の長榻に座り、姿勢を崩していた。帰り道もまた、彼らは人だかりに襲われていた。  玲陽がそっと犀星の隣に座る。待っていたかのように、犀星は玲陽のほうに体を傾けた。  しなだれかかるようなその姿に、慈圓はあからさまに顔を歪めた。 「伯華様!」  と、声を上げる。 「誰も見ていない」  言い訳をしながら、犀星が玲陽の肩に顔をすり寄せる。その仕草に、さすがに慈圓も黙っていられなかったらしい。ドンと几案が鳴り、茶器がガチャリと危なげに揺れた。  犀星は瞬時に姿勢を正した。玲陽が苦笑する。 「伯華様、これだけは、はっきりとさせておきますが」  と、慈圓が襟を正して説教の構えに入る。 「ご自宅において、伯華様と光理どのがどのような関係であろうと、我々が口を挟むことではありません。しかし、五亨庵は公の場所であるということをお忘れなく。ここでは伯華様には歌仙親王としてのお立場がある。そのようなことにこだわらない方であるのは存じてますが、その分別は、しっかりと心得ていただきたい」  犀星は言葉に詰まり、深くため息を漏らした。 「わかった」  本当にわかっているのか、と東雨が怪しんだ。東雨の疑いを裏付けるように、犀星はそっと玲陽の袖を握っている。  大抵の者は、犀星のこのような感情の発露を見て、驚いたり呆気に取られたりするだけなのだが、慈圓にはそれをきちんと戒めるだけの余裕がある。  こういうのを、年の功っていうのかな。  と、東雨は思ったが、年寄り扱いされることを嫌う慈圓には口が裂けても言えなかった。  重い空気を変えるように、東雨は、 「大体、どうしてわざわざ紀宗様がでてきたんです? 名前なんてそんなに重要ですか?」  言って、茶をすすった。 「偉い人はいくつもお名前があるし、ややこしいったらありゃしないです」 「お前は一つだけだからなぁ」  と、慈圓が東雨をからかった。 「一つあれば充分なんです」  東雨も負けていない。玲陽は静かな声で、 「名前には、相手を指すだけではなく、特別な意味がありますから」 「特別な意味?」  東雨は玲陽の話ならば聞く気があるらしく、身を乗り出した。  玲陽はそっと腕を引いて犀星の指から袖を抜いた。犀星は仕方なく、空っぽになった手を自分の膝の上で重ねた。 「例えば、字とか」  と、玲陽が言った。 「ああ」  東雨は頷くと、思い出しながら、 「元服したときに、名前の意味から拾って、自分で自分につける……」 「はい、その通りです」  玲陽は頷いた。 「公の場所では、字で呼ぶのが正式です。その人が、社会的に自立していることを認める意味になります。相手に対する敬意も含んでいますね」  東雨は納得しながら、 「確かに。大抵は、字で呼びますね」  ごく一部、例外はいるけれど、と、東雨は思い出していた。 「はい。ですから……」  ちらっと犀星を見る。 「私も、兄様のことは、伯華様とお呼びするべきです」  呼ばれ慣れていない犀星が、瞼をぴくりと動かして不安そうな顔をする。 「兄様も、ちゃんと、光理、と呼んでください」 「俺は……」  犀星は何か言おうとして、うまい言葉が見つからない。 「陽は、陽だから……」 「言い訳にすらなってないです」  ぴしゃりと玲陽が否定した。そのやりとりに慈圓がつい、にやっと笑う。 「これはこれは、光理どのは心強い」  慈圓は、ふぬけた犀星に辟易している。玲陽までがそれに流されてはたまらなかった。幸い、玲陽はこの点では常識人である。 「光理、って綺麗な響きですよね」  東雨の素朴な感想に反応したのは、玲陽ではなく犀星の方だった。どういうわけか目が泳ぎ、頬が赤らんでいる。 「なんで、若様が照れるんですか?」  逃れようのない東雨の言葉が、犀星に刺さる。痛い、という顔で、犀星はわずかに体を引いた。 「光理、は、兄様がつけてくださったんです」  さらり、と、横から玲陽が答えた。  一瞬、慈圓と東雨の頭の中が白くなった。  字は自分でつける名である。名付ける行為自体が社会性を表し、独立した一人の人間、大人としての証明でもある。 「ちょっと待て」  慈圓が困惑した。 「光理どのの字は、伯華様がつけたものだと?」 「はい」  玲陽はうなずいた。 「もしかして……」  東雨が遠慮がちに、しかし確信があるという顔で、 「若様の字は、光理様がつけてたりしません?」 「はい」  玲陽は再び頷いた。  慈圓と東雨は顔を見合わせた。こんな話は聞いたことがない。玲陽は不思議そうに、 「あの、そんなにおかしいですか?」 「おかしいです!」  慈圓と東雨が声を合わせた。 「いや、まさか、そんなことになっていたとは……」  慈圓が頭を抱えた。  東雨は慈圓ほど動揺はしなかったが、明らかに呆れた顔である。 「光、理……」  東雨は、一字ずつ、口にしてみた。 「どういう意味ですか?」  玲陽がそっと、犀星を見た。犀星はやっと観念して、みなの方に顔を向けた。 「陽は俺にとって、|理《ことわり》を照らす光……」  東雨は、よくわからない、と慈圓を見上げた。慈圓は完全に呆れ顔だ。 「つまり、光理どのが全ての基準であり、正義であると……」 「うわ……」  思わず、東雨は口を抑えた。それから、玲陽を見て、 「じゃあ、伯華……様の意味って?」 「兄様は、私の大切な、たった一つの華ですから」  臆面もなく、玲陽は最強の笑顔で答えた。  何も言えなくなった東雨は、そっと、横を向いた。慈圓もまた、これ以上ない苦笑を浮かべていた。  でも、なんか、羨ましい……  こっそりとそんなことを考えながら、東雨は二人を盗み見た。  犀星が何か、小声で玲陽にささやいている。目の前にいるというのに、その声は東雨には聞こえない。それは本当に、玲陽にしか届かない『特別な声』なのかもしれない、と東雨は思った。  急に、寂しさが胸をぎゅっと締め付けた。一緒にいても、ひとりにされた気がした。  唐突に、内扉がガタンと大きな音を立てて開く。  挨拶もなく、歌仙親王の政所に入ってくる神経は普通ではありえない。そのありえないことをやってのける人間が一人だけいる。  涼景である。 「陽、いるか?」  涼景は中央の席に玲陽を見つけて、安心した顔をした。  東雨が思わず眉をしかめた。 「涼景様、また厄介事ですか」  涼景が直接ここを訪ねてくるのは、大抵個人的な用件なのだ。  普通の警備であれば、他の者たちに任せているのだから、本人が来る必要はない。  涼景は苦笑いした。 「仙水!」  何を思ったか、慈圓が血相を変えて涼景に詰め寄った。その迫力に、涼景は一歩引いた。 「仙水、おぬし、まさか梨花と……っ!」  と、言いかけ、慈圓は唸って黙り込んだ。  顔の近さに、涼景は焦った。 「れ、蓮と……?」  涼景には、色々と思い当たることがありすぎる。師匠である慈圓には言えるはずもない逸話は、数限りない。 「あ、いや、俺は……」  慈圓の睨みつけるような目に、涼景はしどろもどろになりながら、 「お、俺たちはそういうんじゃ……まだ、なにも……」 「字を贈り合ったりなど、しておらんだろうな?」 「……え?」  一気に緊張の糸が切れたように、涼景の表情が緩んだ。 「字?」 「そうだ」 「蓮と?」 「そうだ」 「まさか」  涼景は、乾いた表情で笑った。 「しませんよ、星たちじゃあるまいし」 「おまえ、知っていたのか?」 「……あ」  明らかに、自分が火種を踏みつけた感触があった。 「まぁ、いろいろ、ありますから。でも、そこまで気にすることでもないかと……」  涼景ははっきりしない言い逃れをしながら、逃げるように慈圓のそばを離れると、東雨の隣に無遠慮に座った。 「まったく……今の若い連中は……」  慈圓はぶつぶつと言いながら、自分の席に座り、現実を忘れるように仕事に向かった。  助かった、というように涼景はうなだれ、フッと東雨の前に置かれていた湯呑みを見る。素早くそれを手に取り、一気に煽った。 「あっ、俺のお茶!」  東雨が、不服そうに涼景を睨んだ。 「細かいこと言うな」 「細かくない! それ、光理様が煎れてくれたのに!」 「ほう、ではもう一杯……」  涼景の手が急須に届くより先に、犀星がそれを取り上げた。  思わず、涼景は吹き出した。 「相変わらずのようで」  涼景は唇の片端を上げて犀星を見た。犀星は、何事もない、というふうにそっと急須をゆすっている。 「星が五亨庵に戻ったと聞いて、気になって覗いてみたんだが……」  涼景は、にこやかに玲陽を見た。 「元気そうでよかった」  玲陽は頭を下げた。 「本当によくしていただいて、感謝しています。蓮章様にも、とても助けられました」  蓮章の名前を聞いて、東雨はため息をついた。 「巻き込まれて、寿命が縮んだんですから」  東雨が言い出したのは、いつぞやの市場の一件である。勝手に飲まれたお茶の仕返しとばかりに、食ってかかる。 「いったい、何を考えてるんですか、暁隊の人たちは」 「蓮と暁隊を一緒にしないでくれ」 「だって、副長じゃないですか。同じです」 「こっちも振り回されてるんだ」  涼景は、本当に勘弁して欲しい、という顔をした。我関せず、で、犀星は自分の湯呑みに茶を注いだ。  涼景は嫌なことを思い出した、と、遠くに目線を投げながら、 「あの後、三番隊が蓮章を出せと怒鳴り込んできて、それからずっと、険悪なままでな。まぁ、それはいつものことだが……」  と、顎を撫でた。 「騙されたと知られれば大恥だからな。連中は、本当に怪物が存在したと報告したらしい。その話が三番隊長を通して、元締めの左近衛隊長にまで飛んだ」  玲陽と東雨は、ポカンとして話を聞いていた。犀星はひとりおとなしく、湯呑みから茶を飲んだ。一息つく。 「結局ばれて、大騒ぎだ。民の前で大恥をかかされたわけだから。おかげで左近衛とも折り合いが悪い。仕事で鉢合わせると揉め事ばかりだ」  涼景はそこで、玲陽を見た。 「宮中は市場以上に、噂が早い。巻き込まれないように気をつけろよ」  玲陽は笑って、小さく頭を下げた。 「それで、その騒ぎの元凶はどうしている?」  犀星が湯呑みを両手で大切そうに揺らしながら、長い沈黙を破った。 「今朝、朝餉も食べずに荷物をまとめて出て行ったぞ?」 「今、右衛房に逃げ込んでいる」  涼景は苦笑した。 「当分、出てこられないだろう」  言いながら、涼景は慈圓の方をちらりと見た。明らかに機嫌をうかがっている表情だ。東雨が目をきらりと輝かせた。玲陽に知らせるように、 「涼景様と蓮章様は、玄草様にいつも叱られてます」 「いつもではない」  涼景は否定したが、やや声に自信がない。 「まぁ、陽の調子が戻ってきたようで、よかった」  と、話題を切り替える。 「ご心配をおかけしました」  玲陽は優しく微笑んで、 「ここに来られたのは、本当に皆さんのおかげです。安珠様にも、そうお伝えください」  涼景はぴくっと眉を動かした。玲陽はさらに重ねて、 「涼景様、安珠様に頼まれていたんですよね。私のこと見るようにって」  涼景は一瞬黙り、それからため息混じりに言った。 「全く、お前は勘がいいなぁ」  玲陽は首を横に振った。

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