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9 添えば、君(2)
「家に来ると、涼景様は私の病状のことをずいぶんとお聞きになってましたから。それなのに、ご自身では特に何かをするという事は無かった。だとしたら、人に言われて情報だけ欲しいんじゃないかって思ったんです。それを頼んだ人間がいるとしたら、安珠様しか思いつかなくて」
「さすがだな」
玲陽の説明に頷き、涼景はちらっと東雨を見た。涼景と目があうと、東雨はどうしても落ち着かない。
「陽に隠し事はできない。そう、思わないか、東雨」
と、意味ありげな言い方をした。玲陽の顔色が変わった。
東雨は笑顔の仮面を外さない。
「俺には関係ないです。光理様に隠し事なんてしませんから」
と笑ってみせる。それを見ても、涼景は全く顔色を変えない。東雨の方は、仮面の下で腹の底が冷えるような怖さを感じていた。
「東雨どのは、本当によくしてくださってますよ」
玲陽は少し身を乗り出した。
「今日も、五亨庵を案内していただきました。とても、頼もしいです」
東雨はほっと息をついた。涼景は無表情で、遠くを見た。
「随分、仲良くなったんだな」
玲陽は無垢に笑ったが、東雨の笑顔は一瞬、遅れた。ゾクっと肩が震え、手が痺れてくる。
ダメだ、これ以上、無理……
東雨は立ち上がった。涼景が視線だけでそれを追う。
サッと、玲陽は血の気が引いた。犀星の指先がぴくりと震える。
「俺、掃除しなきゃ……」
誰にともなく、東雨はつぶやいた。その横顔にはもう、笑みはない。
「私も、なにか……」
玲陽が腰を浮かせる。東雨は、玲陽の方は見ないで首を振った。
「これ、俺の仕事ですから」
その声はわずかに掠れていた。
玲陽は長榻を離れていく東雨の背中を、心配そうに見守った。
「悪い……」
涼景は低くつぶやいた。ゆっくりと涼景を振り返る玲陽の口元は穏やかだったが、その目は笑ってはいなかった。静かに見開かれている。
涼景は思わず視線を外した。
「涼景様、察します」
玲陽は声を殺し、さらに低めた。
「いくら兄様が大切でも、彼を傷つけるような振る舞いは、解しかねる」
「おまえの気持ちもわからないわけじゃない。だがな……」
「いいえ」
玲陽は、今まで見せたことのない冷ややかさで、
「傷を抱えた人に、さらに鞭打つことは見過ごせません」
全てのやりとりを見ていた犀星が、深く息を吐いた。慈圓がこちらを見ていないことを確かめてから、そっと、玲陽の膝に手を乗せる。それは甘えの仕草ではなく、何かを諭すようだった。
玲陽は手を重ね、強く握った。そして、長く息を吐いて、目を伏せた。
言いたい事は胸の中に渦巻いていたが、言葉にすることは思いとどまった。
まずは、自分の気持ちを整えることが先決だ。先ほどまで穏やかだった部屋の空気が、突如として騒ぎ出した気がした。
涼景は、気まずそうに黙り込んでいる。
犀星は茶器を置くと、玲陽に膝を寄せた。衣擦れの音に玲陽は目を上げ、迷わずに見つめてくる。
助けを求める気配が、玲陽の目に宿っている。
「疲れただろう」
犀星は小さくささやいた。
「少し休もう」
玲陽は、断ることもできたはずだった。だが、玲陽の中の少し柔らかい部分が、その誘いを拒絶しなかった。彼は黙ってうなずいた。
そっと犀星が体を支える。必要はなかったが、あえて犀星の手に体を預ける。
席を立つ時、一瞬、玲陽は涼景を見た。涼景は背を丸め、じっと視線を床に落としていた。その表情は半分伏せられていたが、隠しようのない苦悩が揺れていた。
犀星は、外壁の一つにある自分の寝室に玲陽を連れて行った。部屋に入ると帳を下ろして、中央の広間から見えないように仕切る。
部屋には一台の牀と、小さな几案、そして交椅が置かれていた。
犀星は玲陽を牀に座らせた。冬の空気に、褥もすっかり冷えていた。
犀星は長袍を脱ぎ、玲陽に羽織らせた。玲陽は反射的に袍の襟を掻き抱いた。犀星の温もりがじんわりと沁みてくる。
犀星は静かに褥を引き寄せ、丁寧に整えながら、玲陽をそっと寝かしつけた。褥は柔らかく、微かに犀星が好む香の香りがした。玲陽は深く口元まで引き上げた。背中に重い火傷がある玲陽は仰向けになることが辛い。自然と体を横にして犀星に顔を向けて眠る。犀星は枕元の交椅に座って、迷わず玲陽の額を撫でた。
玲陽は自らすり寄るように首を動かした。先ほどまで、慈圓の目をきにしたが、ここには二人きりだ。心が、一人になりたくないと言っていた。
「星」
玲陽は少し甘えた声を出した。
帳の向こうにいる涼景たちには聞かれないように、
「苦しいです」
玲陽は囁くように言った。
「そうだな」
と、犀星も小さく答える。
先程の、何気ない涼景と東雨のやりとり。そこには明らかな警戒や、探り、含みがあった。
そして、東雨はそれを認めるかのように席を立った。
玲陽は、そこから気づいてしまった。東雨が隠そうとしている、大きな何かの存在に。
おそらく、東雨自身にもどうすることもできない、逃れがたい『何か』なのだ。
自分に向けられた東雨の笑顔も、思いやりも、全て真実だったと玲陽は信じている。彼はどんな想いで、精一杯に笑っていたのだろう。
たまらなく優しい人なのに……
玲陽の目には、涼景が冷たく東雨を突き離したように見えた。
「涼景様……あんな言い方、しなくたって……」
玲陽は、つぶやいた。
犀星はそっと髪を撫でるだけだ。だが、心は誰より玲陽に寄り添い、その痛みを自分の痛みとして受け入れている。
「あんなふうに、東雨どのを追い詰めて……」
感情的になった玲陽は、収まるまでに時間がかかる。
そのことを、犀星はよく知っている。
犀星の温もりに励まされ、玲陽は去り際の涼景の顔を思い出した。
苛立ちと後悔とやるせなさにさいなまれて、こちらまで苦しくなる涼景の表情。自分は、つい、責める態度をとってしまったが、涼景もまた、辛いのだと知った。
犀星は何も言わない。片手で髪を撫で、もう一方の手で、優しく腰のあたりをとんとん、と叩く。
「あなたは、ご存知だったんですか?」
東雨どののこと、と、玲陽は細い声で尋ねた。犀星は黙ったまま、かすかに首をかたむけた。
「そうですよね」
玲陽は寂しそうに微笑んだが、それは泣き顔のようにも見えた。
「あなたが、気づかないわけがない」
横たえられた体には少しずつ脱力が見られ、眠気もやってくる。
それでも今だけはしっかりと目を開けて、犀星の顔を見ていたかった。
犀星はかすかに目元を緩めた。
「陽、考えなくていい」
そっと、玲陽の頬に唇を寄せる。優しく触れる。
「俺もいる。玄草もいる。涼景だって、もう何もしない」
犀星はささやいた。
「少し休んで。今日はたくさんのことがあった。本当によくがんばったよ」
玲陽は、少しずつ意識が沈んでいくのを感じていた。犀星の声はどこまでも優しい。
「これからまた都へ戻らねばならない。その前に少し体を休めておいて欲しい」
玲陽は、重たいまぶたをまだかろうじてあげ、犀星を見た。包み込む微笑みが視界に広がる。
「眠れ。俺の頼みだ。聞いてくれるな?」
玲陽は声を出そうとしたが、もう、力がなかった。
頬を撫でた犀星の温もりに、最後の意識が途切れ、眠りの底に沈んでゆく。
犀星は玲陽の呼吸が落ち着くまで、そのまま、そばに寄り添っていた。
玲陽は優しすぎる。
犀星は、かすかに歪められた玲陽の目元を見ながら思った。
宝順帝から預けられた東雨が、何らかの使命を帯びていることを、犀星も早くから察していた。明確なきっかけがあったわけではない。だが、長年一緒に暮らしていれば、それとなく違和感に気づく。
涼景がそのことを気にしていることも知っていた。
だが、犀星には何もできない。
犀星が気づいたと知られた時点で、東雨の居場所はなくなる。それは、死を意味する。
だからこそ何があっても、自分は目を伏せるしかない。それが唯一、犀星が東雨にしてやれることだった。
やはり玲陽には気づかれたか、と、犀星は深くため息をついた。
東雨が玲陽との関係を深める姿に、少なからず不安を感じていた。
宝順の差し金。
矛先のわからない不安と怒りが、胸の奥に溜まる。
玲陽は静かに眠る。
それだけが、犀星にとって救いだ。
眠りを妨げないよう、犀星は音を立てずに部屋を出た。
広間では、慈圓が相変わらず書類に向かっている。それだけを見ると、平和な光景だ。東雨は厨房だろうか、水を使う音がしている。中央の長榻では、涼景が几案の上に資料を乗せて、自分を待っている様子だった。
犀星は黙って涼景の前に座った。
「陽は?」
押し殺した声で涼景は尋ねた。
「眠った」
「そうか」
涼景は何か言いたげだったが、犀星は首を横に振った。
「すまない」
涼景は小さく、一言だけ言った。
犀星は黙ったまま、涼景が並べていた資料に目を通していく。
それは、花街の出来事のあらましだった。
以前、涼景からこっそりと事件の概要を知らされた犀星は、暁隊に調査を命じる王旨を出した。
涼景には、指示者である犀星に、経過を報告する義務がある。
「事件は続いてる」
涼景は、犀星にだけ聞こえるように、声を抑えていった。
「昨日また……これで四人目」
犀星は順番に資料を手にとった。竹簡の上を青い視線が素早く走る。
「どの事件も似たり寄ったりだ」
涼景が要点をまとめた。
「被害者は女郎。全員、背中に焼印が押され、それ以外の外傷は無い。被害者にも犯行の時間帯にも共通点がない」
「犯人のあては?」
「店の記録によれば、成人男性が一人。だが、みな『顔を覚えていない』と言う。人相書を作ろうとしたがダメだった」
「被害者も?」
「ああ。間違いなく、見ているはずなんだが」
涼景は眉を寄せた。
「傷を負わされたときに気絶していて、前後の記憶があやふやになっているらしい」
「悲鳴を聞けば、周りも気づくだろう?」
「それが、最初の時と同様に、誰も声を上げていないようだ。周囲の客も店の者も、時間がたつまで気づかなかった」
涼景は首を振った。
「手口が同じだから、同一犯だと思うが、何しろ足取りが追えず……」
「暁隊は警備に当たってるんだろう?」
「情けないが、裏をかかれてばかりだ。店には注意喚起もしているが、それでも……」
と、顔を歪める。
犀星は一通り資料読み終え、肩で息をつく。それから、涼景の側に畳んで置いてあった小さな布を見た。
「それは?」
涼景は真剣な顔で犀星を見た。目があう。
「声をたてるなよ」
そう言うと、涼景はそっと犀星の前で布を開いた。それは、被害者が受けた焼印の写しだった。
犀星の全身が殺気立つ。見開かれた蒼い目に、鋭い光が走った。
涼景は、その焼印をどこかで見た気がしていた。そして犀星の反応を見て確信した。
「やはりそうか」
涼景は苦しげに言った。
「……ああ、同じだ」
犀星の声が震える。それは怒りだ。じっと堪え、心を鎮める犀星を涼景は見守った。
「……陽と、同じ痕だ」
かたく握った犀星の手が、涼景にもわかるほどに震えていた。それ以上耐えきれない、というように、涼景は布を畳んで懐にしまった。犀星はじっと几案の上を見つめている。
「……陽は知らない」
犀星は、声を出すことで気持ちを落ち着かせようとしているようだった。
「背中の傷だ。見ることはない。本人は、ただの火傷だと思っている」
「そうか」
涼景はふっと、犀星の寝室に下ろされた帳を見た。薄い白い絹が、音もなく揺れている。
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