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9 添えば、君(3)
「どうする? 伝えるか?」
「…………」
「無関係とはいかないだろう」
「……言ってどうなる?」
犀星は声を絞り出した。
「もう、終わりにしてやってくれ……」
涼景は目を細めた。犀星は震えてはいたが、冷静だ。
「わかった」
涼景は広げていた竹簡をすべて、皮袋に収めた。
「星、この件は俺にまかせて、お前は忘れろ」
犀星は唇を噛んだ。
「おまえが気にする限り、陽は勘づくぞ」
「……勝手だな」
犀星のつぶやきに、涼景は目元を動かした。
「おまえのことじゃない」
犀星の手は、血の気が失せるほど、かたく握りしめられていた。
「勝手なのは、俺だ」
「…………」
「これは、あいつの決着なのに、その機会さえ、奪いたいと思ってしまう」
「それは違う」
素早く、涼景が否定した。
「おまえが言うように、もう、終わらせるべきだ。これ以上、痛みを重ねる必要はない」
涼景は鋭く息を吐いた。立ち上がると、犀星の前にひざまずいた。顔を見上げる。
「星。毅然としていろ。おまえが揺らげば、みなが迷う」
犀星は息をすることも苦しい、という顔で涼景を見つめた。それは、玲陽を取り戻す前の、心が崩れたころの犀星を彷彿とさせた。
涼景には、なす術がない。玲陽ならば、ただ犀星を抱きしめるだけで、支えてやれるものを。
あまりに不器用で無力だ。
涼景は悔しさで、わずかに震えた。
犀星のことも、東雨のことも、どうにかしたいと思えば思うほどに、何もできないことを思い知る。
足掻けば足掻くほど、大切にしたい人を傷つけてしまう。
所詮自分は、刀を振るうことでしか、人の役には立てないのか。
誰かを傷つけることでしか守れない力に、どんな価値があるのか。
玲陽や東雨のように、その微笑みと明るさで人を癒せるならどれほど尊いだろう。
涼景には、それがあまりに口惜しい。
「涼景?」
不意に、犀星は手を開き、そっと涼景の右の頬に触れた。涼景は動けなかった。頬に刻まれた傷跡を、犀星の手のひらが包む。その手があまりに優しく、涼景は息が詰まった。
「おまえの方が辛そうだ」
碧く澄んだ犀星の目が、全てを見通すように涼景を映していた。誰かの瞳に映る自分の姿を、涼景は初めて見た。その姿がじわり、と滲む。
涼景は咄嗟に顔を伏せた。ぽたり、と雫が床に落ちた。何かが崩れた。それでも、犀星の手は離れなかった。
「……俺は……」
次につなげる言葉のあてもなく、涼景はつぶやいた。
「抱えすぎだ」
まるで、空白になった涼景の言葉を埋めるように、犀星が言った。
「何もかも、一人で背負おうとする。おまえは、昔から……」
その声は、耳元で囁かれているように近く感じられた。
「だが、そうさせてしまうのは、俺の弱さだ」
犀星の指が、そっと傷痕を撫でた。
「強くなると、約束する。だから、自分を追い詰めるな」
涼景は、ふたつ、涙が石畳に落ちる音が聞こえた気がした。
じっと目を閉じ、ただ、犀星の温もりだけを感じる。
守っているつもりが、守られている。
自分には真似のできない、底も天井もない無限の赦しによって。
涼景はそっと、犀星の手に触れた。そして、ゆっくりとその手を頬からはずす。最後まで、指先で触れながら、名残惜しげに手を離した。
顔を背けたまま、涼景は立ち上がると、鼓動を鎮めるように、大きく全身で息をした。
「心配するな」
涼景は強く言った。
「また、連絡する」
かすかに、犀星が頷く気配があった。
涼景は振り返らず、ただ、真っ直ぐに五亨庵を後にした。
涼景を見送り、犀星はしばらくじっと目を閉じて、長榻に座っていた。それは彼にとって、必要な時間だ。自分の感情と向き合い、ひとつひとつに名をつけ、心の底に鎮める儀式。
心の昂りは、犀星がもっとも避けたいもののひとつだった。特に、玲陽が絡むとそれは制御できない嵐となる。感情を閉じ込めていた箱の鋲が緩んで、隙間から熱いものが溢れ出してしまう。見せたい自分と、見せてしまう自分との不一致が、犀星を動揺させる。
冷静であらねば。
犀星は自分に言い聞かせた。
ゆっくりと開かれた犀星の目には、強い意志の光が灯っていた。
犀星は、静かに寝室を覗いた。玲陽は深く眠っていた。その顔に辛そうな気配はなく、規則正しい呼吸が宿っている。
うなされることなく穏やかな時が過ぎるように、と、祈りを残し、部屋を出る。
慈圓の席で、今後の予定についていくつか言葉を交わし、やるべきことを確認する。慈圓はいつも通りの冷静さで、手際よく話題を進めた。三ヶ月の留守を取り戻すために、取り組まなければならない仕事は多い。
差し当たって、先日指示していた空き家を薪にする作業について打ち合わせる。犀星が都の私室で立てた計画は、慈圓の協力によって形となり、皇帝の許可を取り付けた。解体の仕事は涼景が率いる右近衛隊を中心に進めることが決まっており、緑権が五亨庵の代表として現地を走り回っているとのことだった。
相談が済むと、中央の几案に残されていた茶器を片付け、厨房に運ぶ。厨房内は東雨がきれいに整えたと見えて、いつも通りの整然とした様子だ。
だが、東雨本人の姿が見えない。
犀星は視線だけで東雨を探した。五亨庵の中に姿は見えなかった。
慈圓に行き先を問うと、中庭に行ったきり戻ってないという。
犀星は迷わず裏口から中庭に出た。
冬の風が、全身の熱をひやりと冷ました。風も弱く寒さは厳しくはないが、長時間、外にいれば体にこたえる。
庭の左奥で、軽快な音を響かせて、東雨は薪割りをしていた。犀星が庭に出てきたことにも気づいていない。何かに取り付かれたように、黙々と斧を振る。
犀星は裏口に立ったまま、その様子を見守った。
すっかり大きくなった。
犀星の唇が緩む。
自分と出会ったばかりの頃、東雨は八つの子供だった。視野が狭く感情が豊かで何事にも大騒ぎをする、実に明るい少年だった。彼の天真爛漫さは犀星を困惑させ、同時に異郷での寂しさを紛らわせてもくれた。
幼い東雨にとっては、毎日が驚きの連続だっただろう。都に染まらない歌仙育ちの犀星の元で、翻弄され続けていたはずだ。思えば、可哀想なことをした、と犀星も反省する。
それなのに、気がつけば東雨はすっかり自分のやり方を覚え、先回りして犀星を助けてくれるようになっていた。
いつも、若様、若様と、犀星の世話を焼き、時には良くないと思ったことはしっかりと言葉にして諌めてくれるまでに成長した。その言葉も大人びて、時折犀星の口癖を引用する。それを聞くたび、犀星はどこかこそばゆかった。
利発で活発、真面目で甘えることが下手な東雨は、いつも全力で犀星たちにぶつかってくれた。彼でなければ、十年もの間、犀星の侍童をつとめることはできなかっただろう。
言葉の少ない犀星の気持ちを推し量り、何事にも容赦のない慈圓に振り回され、自分より頼りにならない緑権の面倒を見て、無遠慮で怖いもの知らずの涼景とも渡り合った。
東雨ほどの逸材は、そうそういるものではない。その巡り合わせは幸運だった。
玲陽を迎えてからも、東雨は献身的なまでに力を貸してくれた。
心を病んだ玲陽に寄り添い、犀星のすることをよく見て覚え、対処してくれた。犀星は一度も、玲陽の状態を説明したことはない。それでも敏感な東雨は全てを把握していた。
そして、さりげなく助け、犀星の負担を軽くしてくれた。決して恩着せがましくなく、ただただ、自然体のままに。
本当に、苦労をかけた。
犀星は、東雨の背中に、心底からそう思った。
侍童といえど、東雨は自分の所有物ではない。一人の独立した人間だ。東雨自身が幸せになる権利もあれば、自由に振る舞うことも許されるはずだ。
それなのに、ずっと耐え、自分に尽くしてくれた。
犀星の表情に、優しい影が揺れる。
短く声を発しながら、勢いよく薪を割る東雨の姿は、力強かった。
だが、その横顔はどこか必死で、苦しみを内包しているようにゆがんで見えた。
労働への苦しさではない。心の辛さをどうにかしたくて、力任せに斧を振り下ろしているようだ。
乾いた音を立て、次々と薪を割る。細い破片が雪の上に飛び散る。
自分で自分の心を引き裂いている。
犀星の胸は痛んだ。
東雨のためにしてやれることは、あまりにもわずかだった。
犀星は一歩、近づいた。
雪を踏む足音を聞いて、東雨ははっと顔を上げる。その顔は、いつもよりもずっと大人びてこわばっていた。頬が赤く上気し、息も乱れている。
「すごいな」
と、犀星は言った。
「一人でこれほどとは」
犀星は、周囲にまとめられた幾つかの薪の山を見回した。
東雨は笑って、息を整えた。すぐには声が出なかった。
限界を超えるほどに、振るい続けた両腕が重たく、だらりと下がる。
指がしびれて力が入らない。東雨は足元に斧を置いた。
「若様」
吐息混じりの声で呼ぶ。
全身に汗が浮いている。寒さは感じなかったが、逆に息苦しさでその肌は震えていた。
「代わろう」
犀星は斧を拾い上げた。
東雨はふっと息を詰めた。
「でも、これは俺の……」
そう言いかけたが、犀星はさっさと木片を一本、台の上に固定した。そうしながら、
「お前の仕事だが、お前だけの仕事じゃない」
言って、木片に斧を当て、何度か打ち付けて刃を差し込むと、勢いよく二つに割る。ばらりと木片が裂けて足元に転がった。
東雨は力任せに頑張っていたが、犀星は最低限の労力で効率よく作業を進める。
「これはお前だけの問題じゃない。だから俺にもやらせて欲しい」
続けて、次の木に手をかける。
東雨は頭の中が少し混乱した。
薪割りのことを言っている? それとも……
犀星の目はどこかもっと遠くを、別のものを見ているような気がした。
おまえだけの問題ではない……
その意味するところに、希望があるような気がした。
……いや、これは俺の願望だ。ただの根拠のない期待にすぎない……
東雨は、心の中で様々な感情がぶつかり合うのを感じた。
乱れている。これは危ない兆候だ。自分が自分でなくなる不安定な感覚に飲み込まれてしまう。
「若様」
東雨は思わず、少し叫ぶように呼んだ。
犀星は顔を上げた。その優しい顔に言葉が続かなくなる。
「そこで見ていろ。おまえは十分やってくれた」
犀星の声が響く。
「東雨、疲れただろう?」
自分だけに向けられた微笑みに、東雨はほんの少しだけ素直になる。
「……疲れました」
犀星は頷き、そして、薪割りを続けた。東雨の心の、一つ一つの苦しみを、断ち切っていくように。
東雨は、犀星の気持ちが、たまらなかった。
自分はこんなことをしてもらえる人間ではない。
俺は……あなたの一番大切な人を傷つけているんです。
犀星に対する愛しさと、玲陽様に対する申し訳なさと、自分の存在感のなさと。
東雨は軽いめまいを覚え、視界が傾いた。足に力を込めたが、支えきれない。
倒れてしまう!
投げ出された斧が、雪の上に転がる。崩れ落ちる東雨の体を、犀星が素早く抱きとめていた。
すべてわかっていると言わんばかりに、犀星はそのまま、しっかりと東雨を抱きしめた。脱力して、東雨はその腕に体を預け、目を閉じた。
犀星は何も言わない。
それが、東雨には本当にありがたかった。
自分もまた、何を言っていいのか、わからないのだから。
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