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10 英霊と左右の将(1)

 五亨庵を出た涼景は、思わず気が抜けて、閉めた内扉に背中を預けてため息をついた。乱暴に目を拭う。 「え? 隊長?」  とぼけた声が、すぐそばで自分を呼んで、涼景はぎょっとした。  長榻に寝転んで昼寝中だった湖馬が、こちらを見ていた。しっかりと目があう。どちらも気まずかった。 「あぁ、いや……俺は、何も見ていない」  涼景は顔を背けた。目元はまだ熱い。 「俺も、何も見てません」  寝癖を直しながら湖馬も体を起こして、ちゃんと座った。立たないところが彼らしい。  湖馬は、右近衛隊に入隊してから、一年余りたつ。気さくなその人柄と、若者らしい柔軟さで、すぐに隊に馴染んだ。  涼景も、近衛にしては、考え方の柔らかい湖馬を気に入っている。 「隊長、さっき……」  と、言いにくそうに口を開く。 「左近衛から連絡があって、隊長に左の詰所に来るように伝えてくれと」  明らかに涼景が嫌な顔をするのを、湖馬は見逃さなかった。 「多分、この前の副長の件だと思いますけど……」 「だろうな」  涼景は力なく頷いた。 「親王が都に戻る時は朱雀門まで送れ。蓮に報告を済ませたら終えていい」  わかりました、と湖馬は答え、それから一言付け加えた。 「頑張ってください」  その言い方があまりにも的を得ていて、涼景は思わず笑ってしまった。  小道を抜け、山桜を右に折れる。  朱市には、暁隊の面々が集まり始めていた。  今夜から、宮中の古い邸宅の取り壊しが本格化する。  暁隊は、朱市の空き地を借りて、柱や梁の大物を解体する役割だ。  行儀の良い近衛が苦手とする体力勝負は、暁が行うのが効率的である。鍛錬にもなる。また、力任せに日ごろの鬱憤を晴らすにも有効だ。  一方、直接建物を解体するのは、蓮章と右近衛に任せてある。建築材料は、そのまま薪にできるものばかりではない。防腐効果のために松脂などで加工した建材をかまどにくべたら、火力が強すぎて鍋が焦げ付く。そればかりか、匂いも相当だ。建材の性質によって分類しながら運び出すのは、近衛隊の方が向いている。  丁寧な作業は近衛にやらせ、力では暁を使う。適材適所の配置である。  涼景は、有り余る元気でこちらに手を振っている隊士たちを眺めた。彼らを解体現場に投入したら、一瞬で全てを破壊し尽くすだろう、という確信があった。  涼景は気持ちを整えながら、左衛房を目指した。  正直、行きたくはない。  忙しさを理由に断りたいところだったが、これ以上、軋轢を深刻化させる訳にはいかない。  それが、隊長として全ての責任を負う涼景の辛さである。  どうせ文句を言われるだろう、と涼景は覚悟した。  文句程度済めばいいが、何が出てくるやら、と気が重い。  広い朱市を抜けると、その先には庭園が広がっている。それは生垣と木立で仕切られ、宮中の南と中央を隔てる境界線である。  庭は広く、かなりの規模だ。国中から集められた花や木が、季節ごとに人々を楽しませる。温かな時期になると食べ物の屋台が出て、民も貴人も隔てなく集まってくる。  この庭園までが、民が入ることを許された範囲だ。この先には、特別な許可がない限り、足を踏み入れることはできない。  枯れた木々の間を抜け、わずかに残る常緑の緑を過ぎて、中央区の入り口となる関所に入る。立っているのは、宮中警備の禁軍である。涼景を知っている彼らは、通行証を見せずとも通してくれた。  関を抜けると、その先は景色が一変する。今までの朱市の雑然さが失せて、気品ある落ち着いた空気が漂う。華やかな色彩の建物が、間隔を開けて並ぶ様は圧巻である。  都では平屋造りが多いが、ここは楼閣を備えたり、一部は二階づくりのものもある。それぞれの門には、役所や家名、号などの扁額がかけられ、どれもが、強い自己主張を放っている。  この一帯には、主に政治的な中枢が多い。立法や行政に関する施設が中心だ。左右の宰相の屋敷や政所、大量の資料書簡を集めた秘府もある。  そして、中央区の北側に位置するあたりは、天輝殿の領域である。皇帝の御所として、前殿には政治的な部屋が用意され、裏には後宮が広がる。皇帝一人に美女二千人という世界だ。  涼景が主に関わる軍部の拠点は、さらにその北に位置する。  石畳に、軽やかな涼景の靴音が響く。やがて、北との境界にある並木を過ぎると、また、一気に雰囲気が変わる。  北区は主に、軍事と司法の要となる。それまでの貴族たちの華やかな居所とは違い、軍族を中心とした、威風堂々たる家が立ち並ぶ。  裁判所や懲罰房、処刑場に加え、それぞれの軍のための詰所や、演武場、武器の製作所、火薬の取り扱い所、軍用資料専門の秘府も揃っている。都の北に、軍部の要が置かれているのは、北方との国境線が近いことにある。そのた宮中の中でも北の玄武門は、主に軍隊が出入りに使用される。  左衛房は、北区域の東に位置し、専用の演武場も併設している。はるか西、涼景たちの右衛房は、対称の位置にある。今頃は、蓮章が仕事の段取りで忙しく、采配をふるっているところだろう。自分が左近衛に呼び出されたことを知れば、血気盛んな蓮章が黙っているとは思えない。知らせずに処理するのが妥当だった。  涼景は時間を稼ぐように歩いたものの、とうとう、詰所前に辿り着いてしまった。  ここからが、湖馬が言ったように、頑張るべき時、である。自然と涼景の表情が隙のないものになる。  左衛房は、堂々とした風格を備えている。  黒塗りの荘厳な門の上には、『左衛』の二文字が堂々とした筆致で掘り込まれた扁額があった。敷地を囲む塀も黒く、傾きかけた午後の日差しに鈍く光っている。年数を経た建物だが、手入れが行き届いており、何より外聞を気にする左近衛隊長・|備拓《びたく》の気質が表れていた。  脇の見張り小屋の庇の下で、兵士が一人、わざと睨むような目を向けたてきた。涼景だと知った上で、簡単には通したくないという顔だ。  左近衛隊は、右近衛隊に比べ、格式が高く、また家柄も良い者が多い。伝統を重んじ、皇帝の一統政治を支持する性格が強い。革新的な右近衛隊よりも、閉鎖的と言わざるを得ない。それゆえ、涼景の訪問に対して、気に入らないという顔をして当然だった。 「右近衛隊長とお見受けいたす。いかなる御用で参られたか」  すでに静かに戦いは始まっている。挑む覚悟が必要だった。 「いかにも、燕仙水である。|夏史《かし》どのの求めに応じ、出頭致した。取次を願いたい」  涼景が手短に答える。供もつけず、ひとりで訪問してきた涼景を一瞥し、門兵は顎で中に入れと指示した。  これが格式を重んじるやり方か、と涼景は思ったが、顔にも声にも出す事はない。  中に入ると外庭が広がっている。詰所正門までの石畳は冬の曇天の色だ。植え込みも今は冬枯れして寒々しい。  右奥には厩舎があり、左奥は兵庫である。何人かの兵士が裏の演武場と出入りをしているのが見えた。  内門の左右に組まれた矢倉の上には、警備兵の姿が見える。近衛隊というよりも、軍隊の砦に近い。門の脇には、槍立てや盾掛けが設置され、手入れが行き届いた武具が並んでいる。  案内もないまま、涼景は道を進み、中門をくぐった。  門の奥に詰所への入り口が見える。そこに立っていた二人の兵がこちらを見てニヤッと笑った。  睨まれるのも笑われるのも、仕事のうちだ。  涼景は感情を消して進み出る。 「これはこれは、暁将軍」  と、兵のひとりが大仰に声をかけてきた。 「夏史どのに呼ばれた。話は通っているか?」 「はい。伺っております」  と、その兵士は笑って答えた。決して好意的な態度ではない。  正直、涼景には、なぜこれほど左近衛隊に嫌われなければならないのか、と思う節がある。  三年前まで左近衛隊の隊長を務めていた男は、涼景の古い知り合いでもあった。だが、不幸な事故が重なり、任務の中で命を落とした。当時副長を務めていた備拓が暗殺した、と、当時はまことしやかに囁かれたが、真偽はわからずじまいである。備拓はそのまま昇格し、左近衛隊隊長に落ち着いた。現在の副隊長である夏史は、一般の近衛であったが、備拓に取り立てられ、今の地位にある。  夏史は涼景と同じく、先代の隊長の影響を受け、話も通じる相手だった。一兵卒であった頃には一緒に酒を飲んだこともある。だが、副長になってからはガラッと態度が変わり、すっかり備拓の言いなりになっている。  兵士の一人が涼景を中まで案内した。  建物に一歩入ると、檜の匂いがした。香木を焚いているのだろう。控えめで、いかにも武家が好みそうな香りだ。冬場の乾燥した空気で、匂いは余計に鋭く鼻を刺した。  外観は役所に似た簡素な造りだが、内部は甲冑のままでも歩き回れるよう、頑丈で機能的な構造になっている。板張りの床は冷え、足元から冷気が上がってくる。  回廊の壁には、等間隔に左近衛隊の象徴である黒い軍旗が掛けられている。伸びやかな百合の紋章が銀糸で縫い取られたものだ。涼景はちらりと回廊の横から見える中庭を見た。小さいが、貴人の庭園を思わせる石灯籠があった。  先代の隊長・|英仁《えいじん》が亡くなり、備拓が後を継ぐとき、ここは改築された。そのため、備拓の好みがそのまま反映されたものとなっている。格式高く、どこか文化人を思わせるような趣向が随所に見られた。  気取ったところで、趣を解する客人がここを訪れることはない。人が来るとすれば、陰謀や裏切りの厄介ごとの相談である。  回廊を通り、奥の間に案内される。広い几案の上には宮中の地図が広げられていた。涼景よりも少し年上の男が、最奥の席に座っていた。左近衛隊副隊長・夏史である。口ひげを蓄え、目つきも鋭く、いかにも切れ者という風貌だ。  夏史は目線だけを上げて涼景を見た。  官職で言うならば、涼景の方が上である。涼景が夏史の態度を正しても良い場面であったが、彼は何も言わず、ただ、夏史の前に黙って座った。  案内してきた兵士が、几案に用意されていた湯呑みに茶を注ぎ、涼景の前に出す。  ここで口をつけるようなら、涼景も今日まで生きてはいなかっただろう。

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