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10 英霊と左右の将(2)
兵士が退出すると、しん、とした緊張感が二人の間に張り詰める。遠くから兵士たちの声が聞こえてきた。もうすぐ日が暮れる。訓練も終わり、夜の警備に就く時刻である。
夏史は近衛らしい機能性と装飾を兼ね備えた綾取りのある袍と、革の軽装鎧を身に付けている。腰に垂らした張りのある黒の佩巾は左近衛の所属を示す。対する涼景は、深い赤褐色の常服に黒の帯と直裾姿だ。襟元から見える襦袢と帯の裏地に忍ばせた白は、右近衛の象徴色である。
「仙水どの」
と、夏史は涼景を呼んだ。
「先日は、三番隊が世話になった」
きたな、と涼景は身構える。
「何の話でしょう?」
あえて触れない。もし、これで夏史が引き下がるならば、それで済ませたかった。だが、夏史にそのつもりはないようだ。
「市場での一件を、まさか見逃しておいでか? 隊を束ねる者として不甲斐ない」
「市場の一件とは?」
涼景は一才動じず、受けてたった。夏史も落ち着いた口調で、
「暁隊の副長、遜梨花どの。公共の場にて騒ぎを起こすとは、狂気の沙汰としか思えん」
「ああ、あの件ですか」
わざとらしく、涼景は答えた。その口元には意図して余裕の笑みを浮かべる。
「梨花が少々、ハメを外したと聞いております」
「少々、ですと?」
こちらは大恥をかかされたのだぞ、という夏史の無言の圧力がある。涼景は腕を組むと、しっかりと夏史を見据えた。
「我が隊では、あの程度のことは『少々』と申します。あれしきでうろたえる者は、暁にはおりませんゆえ」
言葉は丁寧だが、涼景は正面から勝負に出る。ここで引いては、あなどられることを承知である。
「なるほど、荒くれ揃いの無法者には、世の道理は通じぬと見える」
夏史も負けてはいない。
「乱れを正す者が自ら混乱を招く。これは、暁隊の処遇も見直す必要があるやもしれぬ」
「毒をもって毒を制す。それは連番隊の不得意といたすところ。我らにしか成せぬことかと」
「どうあっても、謝罪はせぬというか?」
「非のないことを、詫びる道理はございません」
言葉の剣戟の音が、一瞬、鳴り止む。
「まったく、相変わらず強情な男だ」
夏史は少し改まった口調を崩した。
「そうでなければ務まらん。お互い様だ」
涼景もわずかに頬を緩めたが、その目は警戒を解いてはいない。
「嫌味を言うために呼び出したのなら、帰らせてもらう」
「本題は別だ。座れ」
夏史が制止したとき、兵士が部屋にひとりの男を連れてきた。
男の顔を見て、涼景は素に返った。
「謀児どの?」
そこにいたのは、いかにも、五亨庵の官吏、緑権、字を謀児、その人であった。
「仙水様!」
緑権は心細かったのか、涼景を見つけて心底ホッとした顔をした。
夏史が涼景の隣を指した。緑権は長袍のしわを気にしながら、ゆっくりと腰掛けた。そして、兵士が差し出した茶を、ためらいもせずに飲み干した。
涼景は、若干の呆れを含んだ吐息を漏らした。
緑権とは、こういう男だった。
根っからの文官で、つねにおどおどと周囲を気にしては、縮こまっていた。そのくせ、肝心なところは不用心ときている。政治的に無能なわけではないのだが、その性格が災いして、周囲からは軽く見られることが多かった。東雨でさえ、緑権は自分より下だと思っているふしがある。
慈圓が主に五亨庵内で案件を片付けるのに対し、緑権はその手足となって、あちらこちらの交渉に回される。今日も家屋の解体工事の関係で動いていると聞いていた。
「謀児どのと私が同席、ということは、宮中の家屋解体の件についてか?」
「さすが仙水どの、話が早い」
夏史はにこりともせずに言った。
「歌仙親王の英断、我々も協力したいと思いましてな」
何を今さら、と涼景は内心悪態をつく。
犀星からの提案を皇帝が受理したとき、まっさきに右近衛が適任、と言い出したのは備拓と夏史であった。
五亨庵は左右の派閥に属さない中立を保っている。だが、事実上、犀星と涼景は個人的なつながりが強い。それを理由に面倒な仕事を押し付けてきただけのことだ。
「人手を出してくれるのか?」
涼景は具体的に踏み込んだ。
「右近衛も、通常警備と合わせて人手不足は否めない」
「そうしたいのは山々だが……」
夏史はもったいをつけて言う。
「今月、天輝殿の警備は左近衛の担当ゆえ、よそにまわす人手はない」
と、言いながら、さらに、
「あったとしても、我々はとても大工の真似事などできん。そこは多才な右近衛が適任であろう」
「確かに、応用力は我が隊が得意とするところ。規約に准じる左近衛隊には荷が重いだろう」
「さすがは些末にとらわれぬ右近衛だ。格式を軽んじることにも躊躇せぬ心意気だな」
「多様な人材の制御には、柔軟な思考と胆力が問われる。我が隊の副長は適任だとは思わないか?」
暗に蓮章にも触れて夏史を挑発する涼景の口元に、不敵な笑みが浮かんでいる。夏史も、そちらがそうくるならば、と交戦の構えだ。
二人のやりとりに、緑権は青くなる。
どこまで噛み合うつもりなのだ?
武人同士の言い争いは、言葉以上に気迫が伴う。不安症の緑権は、この場を逃げ出したい気持ちだ。
早く本題に入ってはくれないか?
と、目で必死に夏史を見つめる。
緑権の涙ぐましいまでの訴えを察し、夏史はやっと姿勢を正して、
「まぁいい。このままでは話が進まん」
と、打ち切った。涼景も深追いはしない。不毛この上ない時間はさっさと終わらせるに限る。
夏史は、広げてあった宮中の地図に目を落とした。
「中央区域の西側……白虎門付近に、かつて左近衛が使っていた見張り塔がある」
「三年前に打ち捨てられた、あの矢倉か」
涼景は、記憶を辿って頭の中に景色を描いた。
地図を覗き込んでいた緑権が、びくりと体を震わせた。
夏史は、それを横目に、
「放置している間にすっかり傷んでしまった。この際だ。薪にした方が役にたつだろう」
「その解体を右近衛隊に、依頼したいと」
「協力、してやっても良いと言っているのだ」
夏史は念を押した。
右近衛隊としては、壊す建物が一つ増えたところで問題はない。
「今日すぐにとはいかないが、計画に組み込むことは可能だ。そちらはどうだ」
と、緑権を見る。緑権は血の気が失せた唇で、何度か小刻みに頷いた。
「五亨庵としましても、ありがたい限りです」
答えはしたが、声が震えている。涼景は怪しんだ。
「どうしました? 何か気がかりでも?」
緑権は涼景と夏史を交互に見ながら、遠慮がちに、
「出るって聞きました……」
と、呟く。
「出る?」
涼景は小首をかしげた。緑権は眉間にしわを寄せて、
「ですから……幽霊が」
言葉にするのも嫌だと、怯えている。
涼景は思わず無言になった。
何を言い出すんだ、この男は……
完全に呆れ返っていたが、緑権は大真面目な様子である。と、
「その話は聞いたことがある」
夏史が緑権に同意した。
「あそこは知っての通り、英仁様が事故で亡くなられた場所。そのあと、妙な噂が立ちまして」
確かに、一時期そんな噂話があった気がするな、と涼景は思った。だが、当時、自分は北方の異民族との国境争いで、それどころではなかった。
「夜に……」
と、緑権が言った。
「一番上の見張り台の上で待っていると、英仁様の幽霊が現れて矢倉から突き落とされるという……ひゃあ!」
緑権は自分で言って、頭を抱えている。涼景はそれを信じたわけではないが、念の為、真面目に夏史に尋ねた。
「実際に、そのような転落事故は?」
「いや、報告はない」
夏史は落ち着いている。しかし、目は真剣だった。
「事故はないが、目撃者は何人かあって、それが理由で使われなくなったのは本当だ」
「ふむ」
三年前の自分ならば、幽霊などいるか、と一蹴しただろう。だが、今は違う。涼景は歌仙で、怨霊に取り憑かれた相手と刃を交えている。明らかに人の理解の及ばないものが存在していることを、認めないわけにはいかない。
「まぁ、そういう事情もあるため、ついでに確認を頼みたい」
夏史は真顔のまま、
「その幽霊の真偽を確かめ、その上で何事もなければ解体し、何かあればこちらが供養の手筈を整える。解体の下見も兼ねて、できれば、今夜」
涼景は黙って、夏史を見た。一言、夏史は付け加えた。
「仙水どのならば、幽霊など恐れはしないだろう?」
まさか、こんな嫌がらせを用意してくるとは。
夏史の言葉は明らかな挑発だが、涼景も、ここで退くわけにはいかなかった。
「わかりました。お引き受けいたしましょう」
緑権の顔が初めて明るくなった。自分一人で幽霊検分など冗談ではない。
涼景は、期待を込めてこちらを見つめる緑権を振り返った。
「では、この後すぐに。早いほうがいい」
緑権は一瞬怯んだが、それでもどうにかうなずいた。
「ご注意なされ」
と、夏史が声を高めた。
「幽霊は大人数では現れないと言うぞ」
「ご心配なく」
涼景は立ち上がった。
「私たち二人で十分。今夜一晩、寝ずの番をしよう。そして朝までに何事もなければ、即刻、解体させていただく」
夏史の目が何かを確信したように、わずかに見開かれた。涼景はそれを見逃さない。
裏があるな、と、察する。
「参りましょう」
涼景は緑権を促して詰所を出ると、噂の矢倉に向けて歩き始めた。
夕刻を過ぎ、徐々にあたりは薄暗くなってくる。
日のあるうちに着きたい。
涼景が足を速める。緑権は精一杯についていったが、
「仙水様、もう少しゆっくりと……」
ついに泣き言を言った。涼景は足を緩めた。緑権は頼りないというよりも、足手纏いと言うべきであった。
「謀児どの、恐ろしいのであれば、俺が一人で行くので」
涼景は少し声をひそめた。むしろ、その方が気が楽だ、というのが本音だ。
「建物の下見も幽霊の確認も、俺がしておきます。謀児どのは無理をなさらず」
だが、緑権はなぜか首を横に振った。
「そんなことはできません」
「しかし……」
「幽霊が怖くて逃げ出したなど、東雨にまで馬鹿にされます」
と、なけなしの意地を張る。
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