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10 英霊と左右の将(3)

「それに仙水様がいてくだされば、大丈夫に決まってます」  緑権はなぜか自信ありげだ。 「俺は、幽霊を斬ったことはない」  涼景は冗談とも言えない口調で言った。 「大丈夫です」  緑権は、根拠のない『大丈夫』を連発している。 「仙水様ならば、幽霊だろうが怨霊だろうが……あれ、幽霊と怨霊って、どう違うのでしょうか……?」  緑権はぶつぶつと独り言を言いながら考え始めた。  怨霊、という言葉に、涼景は胸が騒いだ。  歌仙で、まさに、怨霊が取り憑く犀遠を見た。あれは、とても自分一人で抑えられるものではなかった。あの時は犀星や玲凛が共に戦ってくれたが、今は……  と、横目で緑権を見る。  茶色い長袍の裾を蹴りながら、小股で歩く緑権は、間違いなく戦力にならない。薪も割れないひ弱な男である。  東雨のほうがまだマシだと、正直、涼景は思った。  蓮に相談するか……  と、考え、すぐにそれを諦めた。  幽霊退治に付き合ってくれ、などと言ったら、間違いなく無言で殴られる。  ここは己一人でどうにか切り抜けようと、涼景は覚悟半分、諦め半分だ。  改めて、我が身の不遇を思い知る。  花街の事件、蓮章の後始末、無人宅の解体工事、そこに幽霊騒ぎ……  幽霊よりも、現実の方が遥かに厄介だった。  しかし、なぜわざわざこのようなことを?  涼景にとっては物足りない歩幅で歩きながら、夏史の腹を探る。  例の矢倉を解体するというのは、確かに理にかなっている。そこには問題は無い。  統括する五亨庵の緑権を呼んだのも、当然の判断である。また、指揮をとっている右近衛隊の隊長として自分を同席させたことも納得できる。  ここまではよい。  違和感を感じるのが、矢倉の上で一晩を過ごせと言う指示だ。  理由は幽霊だろうがどうでも良いが、なぜ、そのようなもったいをつけたことを求めたのか。  涼景は緑権を心配させない程度に顔を背け、息をついた。  ……罠だな。  幽霊ではなく、人の手によって何らかの罠が仕掛けられている。幽霊の存在とやらを完全に否定するつもりはないが、少なくともこんなにも都合よく出てくるとは思えない。ただの口実として利用したと考えるのが適当だ。  夏史がそのつもりなら、こちらもそれに乗って、逆に利用はできないかと、涼景は考えていた。  左近衛隊は、同じ左派の三番隊が恥をかかされたことを根に持っている。そのため、右派にも同じだけの失態を求めてくるに違いない。  油断はできない。  自分がしくじれば、これから先、暁隊も右近衛隊も、嘲笑の的とされてしまうだろう。それ以前に、しくじったことが知られれば、涼景は蓮章の手によって幽霊にされかねない。  気が抜けない。  涼景はふと五亨庵での出来事を思い出していた。  『背負いすぎだ』  犀星はそう、言ってくれた。  救われた。だが、それから半日も待たずに、次の問題が持ち上がった。  おい、星。これ、どうしたらいいんだよ……  皮肉めいた笑みが、無意識に口元に浮かぶ。  しかし、それでも犀星の言葉を思い出すと、気持ちが少し楽だった。  中央の華やかな邸宅群を抜け、西へ向かう。  やがて、目的の矢倉が木々の間から見えてきた。周囲の防風林によって、地上付近は死角になっている。矢倉の見張り台は林よりも高く、中央区の役所や貴族の邸宅の一部が見渡せる。  夕闇の迫る中、その輪郭は不気味にそそり立っていた。  敷地を囲む木の塀はほぼ崩れ、役割をなしてはいなかった。二棟の平屋の間に建てられた矢倉は、西の白虎門の警戒のためのものだ。この周囲は、今は右近衛が巡回するだけで、門が開かれることは滅多にない。  矢倉の基部は軒を備えたつくりで、四面の壁の周りには黒々とした柱が何本も立ち並び、格子状に組み合わさって見張り台を支えている。頑強な構造ではあるが、木材の一部が腐って、いつ倒れてもおかしくなかった。風が吹くと、ぎしっと柱が鳴った。その音に、緑権は腰が引けている。  涼景は、慎重に近づいた。矢倉の基部に蝶番の戸があった。見張り台へは、内部から梯子がつながっているらしい。  緑権が、涼景の袖を引いた。振り返ると泣きそうな顔でこちらを見つめている。涼景は露骨に顔を歪めた。 「謀児どの、やはりお帰りになった方が……」 「嫌です」  極度の怖がりだが、同時に頑固でもある。そこは、さすが慈圓が目をつけて推挙しただけのことはあった。  涼景は深く息を吐いた。 「では、ついてきてください」  涼景は戸を押した。軋む音に、緑権がぎゅっと身を縮めるのがわかった。  矢倉の中は明かりも届かない。涼景は目が慣れるのを待って、慎重に動いた。梯子が四本、内壁に沿って掛けられている。 「俺が先に上がりますので、ここで待っていてください」  しぶしぶと緑権は、涼景の袖を掴む手を離す。  涼景は傷みが少なそうな梯子を選び、足元を確かめながら一段ずつ慎重に上がった。  踏むたびにぎしぎしと鳴る。梯子をつかむ手にも力が入る。  いつ段が崩れても転落しないように、全身に緊張感を持たせ、ゆっくりと動く。  ようやく、見張り台の床板に手をかけ、這い上がった。  あたりは既に太陽の光の気配が薄くなり、逆に地平線の上には煌々と輝く満月が昇っていた。  照らし出された見張り台の床は、傷みが激しかった。  端には転落防止のための板が、胸の高さあたりまで巡らされている。だが、それも全体的に歪み、所々には亀裂が見られた。  なにより、この矢倉自体が傾いている。涼景が歩くと、微かに揺れるようですらある。  やはりこれは、夏史の嫌がらせなのかと、ふと思った。こんな場所に一晩閉じ込めるだけで、十分に精神的苦痛がある。 「仙水様?」  と、階下から謀児の弱りきった声がした。  梯子の穴を覗くと、ぽかんと口を開けて緑権がこちらを見上げている。 「ゆっくり上がってきてください」  涼景は静かに声をかけた。緑権は梯子を見たが、なかなか手が出せずにいる。 「怖かったら、そこで待っていてもいいですが……」 「一人は嫌です!」  泣きそうになって、緑権はようやく梯子に手をかけた。  彼が登り終わるまで、ずいぶんと時間がかかった。途中で何度も動きが止まる。そして今度は、そんな中途半端な姿勢がより余計に怖くて、次の一歩を踏み出す。 「仙水様、段が崩れそうです」 「心配しないでください。俺の体重でも大丈夫でしたから」 「落ちたら死にます」  そうだろうな、と涼景は思ったが、あえて、 「足場に頼らず、手で支えてください」  と、どうにか励ます。  緑権はどうにか最後の一段に手をかけた。助けを求めるように伸ばしたその手を、涼景は掴んで引き上げてやる。 「怖かった……」  絶望的な声で、緑権はその場にへたりこむ。それから、恐る恐る、今上がってきた梯子の穴を覗いた。 「ああっ!」 「どうしました?」  緑権はぽろり、と涙をこぼした。 「降りられないです。帰りはどうしましょう」  そのときは突き落としてやるから、心配するな。  思わず言いそうになって、涼景は苦笑いを浮かべることで我慢した。  普段から、こちらが手綱を絞めなければならないような前のめりに暴走する連中の相手をしていると、緑権のような後ろ向きに走り出す性格の人間にどう対処すべきか、わからなくなる。 「この辺がいいですよ」  涼景は、できる限り揺れない場所を探し、緑権を座らせる。 「今夜一晩そこから動かないでください。じっとしているのが一番安全です」  涼景は床の具合を気にしながら、自分の居場所を探した。  矢倉は、周りの建物より一つ抜きん出て高い。そのため五亨庵の方角や中央区の中心部に向けて視界が開ける。だが、満月とはいえ、夜はやはり暗い。  涼景は少し目を閉じ、暗闇に目を慣らしてから静かに開けた。月の明かりが当たるあたりに立って、周りを見回す。所々にかがり火が見える。右近衛隊の方角を見たが、そちらは暗く沈んでいる。  良い立地にあるな。  と、涼景は思った。そしてふと、ここが英仁の死亡現場であることを思い出した。  三年前、自分が北方の国境線に軍隊を率いて出ていたときのことだった。  涼景が不在としていた間に、宮中に入り込んだ暴徒との戦闘の中で、英仁は命を落とした。最後までこの矢倉の上で指示を出し、戦局を動かしていたという。流れ矢が当たり、首を貫かれて即死したと聞いている。  流れ矢というのは都合が良い。誰が射たかはわからない。  涼景はじっと月を見つめていた。あの月が西に沈むまで、ここにいなければならない。傍らに目を向けると、緑権が膝を抱えて一生懸命何かをぶつぶつやっている。耳を澄ますと、ひたすら、出ないでください、と繰り返すのが聞こえた。  英仁の幽霊なら会っても良い、と涼景は思った。  英仁はかつて、涼景を右近衛に推挙してくれた人物だ。左派ではあったが、若い者たちに寛容で、様々な意見にも耳を傾けていた。歳も若く、人々からの信頼もあった。そのため、長く隊長として活躍して欲しいという期待が、周囲にも高まっていた。  当時副隊長であった備拓は、英仁よりもはるかに年長で家柄も良かったが、英仁がいる限り、出世はあり得なかった。  英仁が戦死し、備拓が隊長の座につくと、備拓による暗殺だったのではないかと噂がたったのも自然だった。  その場にいなかった涼景には真偽の確かめようがない。彼が都に戻った時、既にすべてが終わっていた。英仁は葬られ、備拓はすっかり左近衛を掌握していた。  何事もなければ良いが……  涼景は軽く目を閉じ、耳を澄ませた。そして時が過ぎるのを静かに待った。

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