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11 月下(1)
東雨は何度目かの同じ夢を見た。
自分は真っ暗な中に一つの明かりを見つめている。
湿った空気に満ちた、夜の森。赤々と揺れるのは大きな篝火だ。耳の中に轟々と音を立てて、男の狂気じみた声が響いている。木々の向こうで白い影が揺れ、遠ざかるのが見えた。
自分はゆっくりと歩みを進める。うずくまって、笑いとも、鳴き声ともしれない声を上げる黒い人影に近づいて行く。いや、その黒い人影が近づいてくるのか。どちらでも良い。
手の中に、しっかりとその存在感を示す、重たい短刀。
柄に手をかけ、引き抜く。
ふっと匂う、土の香り。ゆらゆらと篝火が刀身に映り、脈打つように輝く。
腕を高く掲げ、息を止め、その背中に……
悲鳴を上げて、東雨は飛び起きた。
全身にぐっしょりと汗をかいている。冷たい厨房の隅で、自分の息がわずかに白く煙ったようだった。思わず両手を見る。手のひらも手の甲も指の間も手首も。そして、ほっとして腕を下ろす。
体はしっかりと覚えている。ぶつっと響いた。肉を断つ感触。人の皮膚はこれほど厚く、強いものなのだと、初めて知った。
東雨は胸が落ち着くのを待ってから、そっと懐の中に手を差し入れる。自らの熱で温んだ一振りの短刀。夢の中で握り締めていた感触を、今再び直接その手で味わう。
両手で抱き、背を丸め、震える。
何度その夢にさいなまれても、彼は一度として後悔した事は無い。この罪は、自分のものだ。まるでそれだけが、唯一の持ち物であるかのように、刀とともに自身を抱きしめた。
汗が引き、体が冷える。あっという間に凍えてしまう。
屋敷は静まっている。東雨は苦しそうに煙抜きから空を見る。
今夜は満月だ。
満月の夜は、宝順の元に行かねばならない。
東雨は立ち上がった。長く座り込んでいた体が痛む。と、はらりと肩から布が滑り落ちた。月明かりにかざす。それは玲陽の長袍である。薄紅色の、甘い香りがする。
東雨の目元が、抑えきれない動揺で歪んだ。
うたた寝をしていた自分に、そっと玲陽がかけてくれたのだろう。
光理様、ごめんなさい……行かなくてはならないんです。
東雨は長袍を羽織ると、勝手口から外へ出た。
宮中の北側、五亨庵から最も離れたあたりに、近衛隊の練兵所がある。広い敷地内には、普段であれば、兵士たちが散り、それぞれに鍛錬に励むのだが、今は様相が一変していた。日も暮れ、東の空に浮かんだ満月の明かりを頼りに、多くの近衛兵がひたすら荷物の運搬と分別にあたっている。
それを指揮しているのは、右近衛隊副長の遜蓮章である。
冬の寒さに弱い蓮章はしっかりと厚着をし、髪も布で覆って備えながら、練兵場の入り口に立っていた。宮中のあちらこちらから、次々と木材が運び込まれてくる。
蓮章は、それを用途別に分類する指揮をとっていた。
「床板と垂木は向こうだ」
と、指示を出す。
運んできた兵士たちが、そのまま荷車を押して奥へと進んでいく。木材が運ばれた先では、さらに斧で小分けにする。薪として使える状態で、荒縄でくくられ、山と積まれていく。
蓮章のそばに、ひとりの近衛が馬を寄せてきた。
湖馬である。
「梨花様、ただいま五亨庵より戻りました」
五亨庵の名を聞いて、蓮章は不機嫌そうに眉根を寄せた。
ご苦労だった、と形式的にだけ答える。湖馬は馬を降り、蓮章の仕事ぶりを眺めた。見慣れた練兵場は、完全に材木置き場と化していた。
「これは全部、壊した邸宅なんですね」
と、湖馬は感心している。
「誰かさんのおかげでな」
蓮章は不機嫌を隠さない。湖馬は苦笑いした。
「歌仙様らしいですね。持ち主もなく、放置されていた家をつぶして薪にするなんて」
「おかげで余計な仕事が増えた」
「でも、これで薪不足も少しは落ち着くでしょう? それに、荒れ放題だった屋敷がなくなるから、宮中の外観も良くなります。副産物の薪も手に入って、良いことずくめです」
湖馬はいたって呑気だ。
「だとしても、どうして俺たちがやることになる?」
蓮章はまだぶつぶつ言う。
「それは仕方がないです。歌仙様と仙水様は一蓮托生ですから」
やれやれと蓮章は一瞬気を抜きかけたが、目の前を過ぎる荷車に朱色を見つけて呼び止めた。
「それは違う。漆や松脂を使ったものは屋内では燃やせない。野営用にするから西側に持っていけ」
と、指示を出す。
兵士たちは、蓮章に負けず劣らず、やれやれと言う顔である。
「五亨庵が言い出したのだから、涼景の隊がやるのが妥当であろうと。左近衛がくだらんことを言うから」
「陛下が認めてしまったんですから仕方がないですよ。それに、こういう斬新な計画、いかにも歌仙様らしいです」
湖馬はにっこり笑った。蓮章はちらりと横目で見て、
「そんなにこの計画が気に入ったなら、お前も参加しろ」
と、蓮章が職権の濫用に走る。湖馬は慌てて手を振った。
「遠慮します! 俺、今日一日ずっと五亨庵だったんですよ。報告に来ただけで……」
「それなら、明日は日の出と一緒に出仕しろ」
蓮章がまた無茶を言う。湖馬は肩をすくめた。
このようなことは、近衛隊の業務ではない。
民間から人夫か大工を雇うのがすじだ。しかし、突然のことであり、また、彼らに支払うだけの予算もないと言う理由で、急遽右近衛隊が借り出されたわけだ。
犀星のやることはいつもそうだ、と蓮章は呆れている。いくら宮仕とはいえ、慈善事業で徹夜作業を命じていては、隊の士気にもかかわる。
「梨花様、あれ!」
湖馬が驚いた声を上げた。
横倒しの太い柱が、丸太の上を転がされて運ばれてきた。蓮章ががっくりと肩を落とす。
「現場で切って、朱市に運べと言ったのに……」
解体現場には、指示は出しているのだが、時々このような間違いが起きる。
暁隊と違い、近衛は決まった仕事をこなすのは任務である。場所や対象が違っていても、警護する基本は変わらない。そのため、応用力に欠ける。また、言われた事はできるが、自分の頭で考えることをしない者が多い。暁隊は逆に自分勝手すぎて困る。その中間は無いものかと蓮章は常に頭が痛い。
「あれどうするんですか?」
湖馬は呆然として眺めている。
この種の廃材はあまりにも丈夫で、簡単に加工することはできない。
再利用も可能だが、今回はすべて薪にせよと言う命令である。
「どうするもこうするも、やることは一緒だ」
蓮章は柱を運搬していた十数名に歩み寄った。
「止めろ。その場でいいから、のこぎりで切れ。四等分だ。切ったら車に乗せて、朱市へ運べ」
近衛たちはぎょっとして顔を見合わせ、絶望的な顔をする。
「朱市って…… 宮中の反対側じゃないですか!」
「運ぶだけでいい。あとは暁隊の連中がぶっ壊してくれる」
何か納得したような顔で、兵士はうなずき、声を掛け合って作業の準備をする。
「こんな時に、涼はどこに行っている……?」
と、蓮章の苛立ちの矛先は涼景に向く。
「仙水様なら……」
と、湖馬が言った。
「左近衛の詰所です。呼び出されたんですよ」
「左だと?」
蓮章は今夜一番の嫌な顔した。
宮中の勢力は、右と左に分かれている。
右相の流れを組む右近衛と暁隊、左相の流れを組むのが左近衛と連番隊だ。
それを核として、それぞれの官吏たちが、右と左に別れるのが通例である。
これは決して反目することが目的なのではなく、それぞれの立場から様々な意見を吸い上げ、多様な考え方を取り入れるための政治的構造だ。
だが、現場では、やはり反目している、と言う表現がふさわしかった。
右近衛隊の隊長である涼景が、左近衛隊の詰所に呼ばれたというのは、不穏な空気以外の何物でもない。
また面倒なことが起きるぞ。
と、蓮章は必死に今後の予定を組み変えた。
忙しい最中だって言うのに、次から次へと…
蓮章のような中間管理の立場にあるものは、常に上と下の間で板挟みである。
白髪が増える、と蓮章はつぶやいた。
どうせ染めるのだからいいじゃないか、と湖馬は思ったが、命が惜しいので黙っている。
とりあえずは目の前のことだ。蓮章は切り替えて、要領よく木材をさばく仕事に専念した。
天輝殿は、常時配置される禁中の警備を司る禁軍と、月毎に持ち回る左右の近衛隊によって警備される。
月が南の高い位置にかかるころ、備拓と交代するため、夏史が引き継ぎの兵を連れて天輝殿の門に現れた。
夏史は部下を先行させると、備拓の前で深く礼をした。
備拓は落ち着いて頷いた。齢四十にとどく貫禄のある備拓の立ち居振る舞いは、篝火に浮かび上がる天輝殿の広い階にふさわしく、堂々としていた。
夏史は備拓が不在だった午後の動きを報告し、明日の予定を確認した。その間に、備拓と共に前半の夜警にあたっていた兵たちが戻ってくる。隊列をつくり、無言で備拓の後ろに整列する様は、よく訓練された近衛の動きとして美しかった。
「備拓様」
夏史は帯に下げていた布袋を外すと、備拓に差し出した。
「これは?」
受け取り、備拓が尋ねる。夏史は少し顔を上げて、
「右近衛隊長より、お渡しするようにと預かってまいりました。中は存じあげません」
「そうか」
備拓はその場で袋を開いた。
薄い竹簡に、短く文字が書き付けられていた。
「これを、燕仙水が、私に?」
備拓はもう一度、夏史に確かめた。
「はい」
と、夏史は静かに答えた。
「あいわかった」
篝火の火に揺らめく備拓の表情が、わずかに曇る。
「では、あとを頼む」
「御意」
夏史は頭を下げたまま、備拓を見送った。
その姿を、備拓は馬上で一度だけ振り返る。そして、もう一度、竹簡に目を向けた。
満月の光が照らし出すその文は、今夜、西の矢倉に来るように、との指示だった。
何を考えている?
備拓はさまざまに想像を巡らせた。
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