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11 月下(2)
天輝殿を離れ、少し行くと、備拓は突然、隊を止めた。馬を降り、兵の一人に手綱を預ける。
明るい月夜に、馬は目立ちすぎる。
兵たちには詰所に戻るよう伝え、自分はひとり、徒歩で中央区を横切った。
ことの真実はまだ見えないが、知られずに動いた方が良いことだけは、備拓にも察しがつく。
かつて、英仁のもとで副長を務めていた時から、その才覚は際立っていた。もともとは近衛ではなく、戦における実戦をになった正規軍の出身である。大怪我をして前線に立てなくなった備拓を、英仁が指南役として登用したのがはじまりだった。
周囲は何かと、備拓が英仁を妬んでいると噂していたが、実のところは真逆であった。妬むどころか、備拓はよく英仁を支え、その信任も厚かった。
しかし、表向きにはあえて、憎まれ役を買っていた。そうすることで、周囲の不満を自分にあつめ、逆に英仁には理解ある指導者として光をあてたのである。それは、当人たちにしかわかり得ぬことであった。
隠密行動など、何年ぶりだろう。
備拓は昔の勘を頼りに息をひそめ、足音を消して、暗がりを選んで矢倉を目指した。
三年前、北方民族の襲来の折り、宮中内部で暴動が起こったことがある。
戦時下で住む土地を奪われた民や商人などが集結し、西門から宮中に侵入したのだ。
通常であれば考えられない惨事であった。その背景には、いくつもの偶然と策略が重なっていた。
第一に、警備の薄さがあった。本来であれば、白虎門は右近衛隊が管轄する。しかし、当時、右近衛隊の隊長であった燕涼景は、正規軍の大将として北方の前線に出ており、参謀の遜蓮章もまた、それに従軍して不在だった。右近衛隊の指揮権は一時的に左近衛隊長の英仁に委譲されていたが、緊急の事態であり、掌握が遅れた。
また、内部から手引きした者もあった。戦時の混乱に乗じて宝順帝を廃し、自らの即位を狙った第一親王・周紡の差金であった。
白虎門近くの矢倉を拠点とし、民や周紡の私兵を相手に、近衛隊の陣頭に立ったのが英仁であった。
できる限り民の犠牲を少なく抑えようと計ったが、結果として戦いは長引き、隙をつかれて命を落とした。
英仁の死は、決断の甘さが招いた事故であった。
備拓はすぐに隊をまとめ、実力行使でその場を鎮圧した。
都の混乱の知らせを受けてとって返した正規軍により、周紡は討たれ、謀反は失敗に終わった。だが、備拓はその後、あらぬ疑いと心無い噂にさらされることになった。
それでもよい、と備拓は思っている。
自分一人が嫌われるだけで、他の者たちの心がひとつになるのなら、安いものだ。
涼景が皆の信頼を一身に集めるならば、備拓は反対に、孤独の中で支配力を示す指揮官であった。
道中の篝火のひとつで、備拓はそっと竹簡を燃やした。
防風林の間を抜ければ、件の矢倉が見えてくる。英仁が亡くなってからは、立ち入ることのなかった場所である。当時を思い出すと、自然と歩みが遅くなった。
夜陰に紛れて、備拓は矢倉の戸を開けた。
見上げれば、隙間から差し込む月光がぼんやりと板壁と梯子とを照らしていた。
「仙水どの?」
小さく声をかけた。
ぎしり、と天井の板が鳴った。月明かりで切り取られた見張り台の上から、人影がこちらを見下ろすのが見えた。
「備拓様?」
低い声が答えた。
「今、上がる」
言って、備拓は慎重に梯子を登った。
見張り台の上では、隅で文官風の装束の男が眠り込んでいた。
備拓は足元を気にしながら、距離をとって涼景と向き合った。
南天に満月が輝く夜、静謐な林に囲まれた矢倉の廃墟に、左右の近衛隊隊長が対面する。
この貴重な場面、ただ一人の目撃者であるはずの緑権はぐっすりと眠り込んでいた。それはそれで幸いだったのかもしれない。目覚めたところで、この状況に慌てふためくだけだろう。
「さて、どうしたものか」
備拓はうっすらと笑みを浮かべた。気まずそうに、涼景も小さく頷いた。
「一応、お尋ねしますが」
と、涼景は遠慮がちに、
「どうして、備拓様がここへ?」
「うむ。『燕涼景』どのに呼ばれてな。英仁様の死について真実を知っている、と」
「なるほど。その真実とやら、私が知りたいくらいです」
「時として忠義は、目を曇らせ、憎む相手を求めるのだろうな」
「そういうことですか」
涼景は得心した。そして、極めて穏やかに、
「私の口を封じるため、あなたが刀を抜く……」
「そして返り討ちに合い、わしは殺される……」
「そして私は、私情であなたを殺めた罪を負う、と」
全ては、夏史の誤解から生じた茶番。しかしそれは、単なる戯れと笑い飛ばすにはあまりに切なく、痛ましかった。
備拓は深く、息を吐いた。
「さて、どうしたものかな、暁どの?」
「このような静かな夜に、剣戟とは無粋」
涼景は微笑した。
「月見でもいたしましょう」
言って、空を仰ぐ。
涼景の頬を、月光が静かに照らしている。備拓は目を細めた。若く精悍なその雰囲気は、かつての英仁の面影と重なる。
「暁どの。そなたは、気をつけなされよ」
「それは?」
「どのような強者とて、全てをひとりで担うことはできぬゆえ」
言いながら、涼景と並んで月を見る。
「あの方は私たちに弱みを見せなかった。英仁様が亡くなられた時、私には他に、できたことがあったのではないかと、今でも悔いている」
涼景はじっと老兵を見た。その言葉には嘘偽りはないと感じる。備拓は今でも、英仁の死を悼み、その思いに寄り添おうとしているようだった。
備拓は穏やかに笑った。
「そなたとここで斬り結ぶことはできぬが、一度、手合わせ願えればと思っている」
「それも一興」
涼景はうなずいた。
その時、煙が立ち上るように、備拓の背後に闇が生まれた。夜の暗さとは明らかに違う、すべての光を吸い込む黒だ。
涼景は思わず飛び退いた。
「仙水どの? いかがなされた……っ!」
驚いた備拓の口に、黒い闇が渦巻いて潜り込んだ。涼景の脳裏に、歌仙での激闘が鮮烈に蘇る。
傀儡だ!
がくっと膝をついた備拓が、肩を震わせた。
涼景の身体は反射的に大太刀に手をかけた。だが、柄を握っただけで、抜くことはできなかった。ここで抜けば、本当に後戻りができなくなる。
左右の近衛隊隊長が決闘沙汰など起こしては、宮中全体を巻き込む騒動となる。
だが、備拓はもはや、人ではない。
ぐらりと揺れて、備拓は体を起こした。震えながら、剣を抜く。よく手入れされた透き通るような刃が月明かりに白く輝いた。
備拓の目は、虚ろに開かれ、何も見てはいない。
傀儡は、自分の気持ちに共感する者に取り憑くという。英仁の魂が本当に傀儡として残されていたのならば、備拓を選んでもおかしくはなかった。
まさか、夏史はそこまで知って、ここへ?
だとすれば、夏史の裏には、傀儡の道理に通じた者がいる可能性が高い。
だが、そのことを深く考えている暇はなかった。
涼景は一歩下がった。床がきしむ。下手に動き回れば、床板が崩れかねない。じりじりと距離をとったが、その間合いは備拓の飛び込みで一気に詰まる。
涼景の目の前で、剣の先が空を斬った。風圧を肌で感じてのけぞる。なおも追って振り下ろされる追撃を、かろうじて交わしながら、涼景は必死に考えた。
正面からぶつかっても、力では敵わない相手である。逆にその攻撃を弾けば、反動で備拓の腕が破壊される。床や壁に当たるだけでも傷つく恐れがある。唯一の方法は、自分に引きつけ、空振りでを狙うことだった。それは、まさに命懸けの、ぎりぎりの攻防となる。
犀遠との戦いで、傀儡憑きを無傷で抑えることがどれだけ難しいか、涼景は思い知っていた。しかも、今は自分しかいない。
どうしたら……
涼景の目に、明らかな焦りと動揺が浮かんだ。
この状況を打ち破れない!
涼景の目が、わずかに震えていた。
真夜中だというのに、朱雀門は珍しく開かれていた。
東雨は不思議そうに兵士たちの動きを見守った。そして、納得した。
不要な建物の解体工事が、急ぎ進められているのだ。
たしか、若様が命令を出したんだっけ……
東雨は素早く門の端をすり抜け、朱市の東側を足早に過ぎていく。いつもなら静かな朱市は、宮中のあちこちから集められた巨大な木材が乱雑に置かれ、それに群がるように、暁隊の兵士がのこぎりや斧で細かく砕いていた。
まるで、獲物に群がる蟻みたい。
東雨は、宝順ならばそんなことを考えるだろう、と思いながら、横目で見た。
生真面目そうな黒色の甲冑は、右近衛隊の衛士だ。対する暁隊は、基本はえんじ色の革鎧姿だが、中には鎧を煩わしがって、印となる色布を腕や首に結んだだけの者もいる。右近衛も暁隊も、同じ涼景という一人の人間を大将にしているが、その性格はあまりに対極だった。
お堅い近衛と、乱暴な暁。
東雨の中ではそんな認識だ。
こんな真夜中に一人で宮中を歩く姿は見られたくなかった。東雨は長袍を目深にかぶり、顔を隠しながら先を急ぐ。
と、行く手に見知った人物を見つけて警戒する。
あれは……左近衛隊長?
東雨は咄嗟に、近くの木の影に潜んだ。
こんな真夜中に一人で朱市を歩くなんて……
と、自分のことは棚に上げて怪しむ。
東雨は直感的にあとをつけた。
左近衛隊長は、広い朱市を横切り、奥まった道へ入っていく。明らかに人目を避けている。東雨は音もなく追った。
どこへいく?
この道の先には、今は誰も近づかない古い矢倉がある。先代の左近衛隊長が暗殺された、見張り塔だ。
後をつけて、東雨は矢倉のすぐそばまで来ていた。木の間に隠れ、様子を伺う。
気味が悪い……
左近衛隊長は、素早く入り口の奥に姿を消した。ギィと軋む木の音がした。
東雨は茂みの中にしゃがみ込んだまま、しばらくじっとしていた。
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