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11 月下(3)
誰かと密会するにしても、老朽化が進んでいる危険な場所を選ぶだろうか?
気になることが多かった。
遠くで、暁隊の作業する声や音がかすかに聞こえているほかは、風もない静かな夜だ。満月だけはいやに明るく、視界は開けていた。
東雨は矢倉を見上げた。
強い風が吹けば倒れるのではないか、という危ない角度に傾き、土台となる柱にもひびが入っている。
ギシッとまた、軋みが聞こえた。入り口を見たが、変わりはない。
何だろう?
東雨は注意深く矢倉の輪郭を目で追う。その視線は、最上階の開かれた見張り台の上で止まった。
東雨の位置からは、見張り台の奥までは見えないが、ちらりと今、確かに人影が動いた。
一瞬のことだったが、東雨にはそれが涼景だということがはっきりとわかった。しかも、それを追うように左近衛隊長の姿も確認できた。隊長の握った剣が、月光を弾いて眩く光った。
ふたりが戦っている!
東雨の心拍が急に高まる。
真夜中、荒廃した楼閣の上で、右と左の近衛隊長が戦っている!
これはどう考えても、異常事態である。
東雨は焦った。
どうにかしなきゃ……って、何をどうすれば……っ!
自問自答を繰り返す間にも、幾度も、金属の衝突音が冷たい空気を伝わってくる。
涼景が負けるとは思えなかったが、勝てば済む、とも考えられなかった。
宮中で人傷沙汰を起こせば、いかに涼景とて咎めなし、とはいかない。しかも、相手が左近衛隊長となればなおさらだ。
涼景の、破滅。
東雨はゾッとして、全身が震えた。
涼景がいなくなれば、自分は正体を暴かれずに済む。
……見殺しにすればいいだろう……?
そう、心の底深くから、何かが首をもたげてきた。
だが、鋭い閃きが、それを引き裂いた。
違う、もう、殺しちゃだめなんだ!
東雨はまなじりを決した。だが、助けるにも、自分に何ができるだろうか。
……そうだ!
東雨は茂みから飛び出した。
朱市に向かって走りながら、髪をほどき、顔の半分を隠すように長袍の襟を引き寄せ、左手で押さえる。
懐に入れてある短刀を引き出し、右手でしっかりと握った。
暁隊の作業の輪に駆け込む時には、まるで必死に助けを求める少女の装いである。
「お願い!」
東雨は高く叫んだ。
その声は喧騒にかき消されそうになったが、近くにいた隊士の一人が気づいて振り返ってくれた。それに続いて、手を止めた何人かが東雨を見た。
「なんだ、あんた?」
東雨は右手に握った短刀を、隊士の前に突き出した。
「それ……暁様の懐刀じゃないか!」
それが、涼景のものであることは、一目見れば明らかだった。次第と東雨の周りに、好奇心いっぱいの隊士たちが集まってくる。
東雨は怯えた目でそれを見回し、涙を浮かべて、切なく叫んだ。
「お願い、助けて! 涼景様が危ないの!」
薙ぎ払われた一撃を避けて、涼景は床を転がった。
素早く立ち上がろうとして踏んだ床板が抜け、体勢を崩す。そこに備拓の剣が真上から振り下ろされた。涼景は無心で太刀を抜き、峰で受けた。そのまま備拓の剣を滑らせ、力を削いでやり過ごす。
備拓が姿勢を崩して倒れかけた上に覆いかぶさり、背後から床に押さえつけた。完全に備拓の身体に体重を乗せたが、易々と跳ね飛ばされた。危うく台の上から転落しそうになり、涼景は柵に取りすがって這い上がった。
立ち上がる間もなく、備拓がその腹を蹴り上げた。まるで大鎚で殴られたような衝撃に、意識は一瞬遠のいた。必死に立ち上がった涼景の胸を目掛け、備拓の剣がまっすぐに突き出された。
その時、どすん、という衝撃が、大地から伝わってきた。備拓も涼景もよろめき、剣筋がそれる。
地震か?
涼景は片手を付いて、身体を支えた。備拓を振り返る。すぐにでもこちらに向かおうと、身体をねじって剣を構えている。
だが、続けざまに、衝撃が矢倉を揺らし、足元が自由にならない。揺れは一撃ごとに大きくなり、矢倉は激しく揺さぶられる。
……何が起きている?
涼景の疑問に答えるように、突然、大声が響いた。
「暁様! 生きてますか!」
涼景は耳を疑った。自分を呼んだ声は、はるか地上から飛んできた。
また、激しい衝撃が襲い、見張り台が大きく傾いた。
「あぶない!」
涼景は咄嗟に緑権の元に走る。その足元が急傾斜となって、壁のようにせり上がる。
悲鳴をあげて転がり落ちてきた緑権の帯を片手で捕まえ、反対の手で床の端を掴んだ。
手から離れた大太刀が、崩れる破片と共に落ちていくのが見えた。
「くっ!」
涼景は声をあげて、手に力を込め、緑権をぶら下げたまま、どうにか持ち堪えた。矢倉は天井からばらばらと瓦が落ち、崩壊の一途をたどっている。
素早く視界を回して備拓を探す。少し先の板の間に、備拓の身体が挟まっていた。
「備拓様!」
気を失っているのか、動く気配はなかった。月明かりが備拓を照らし出す。と、その口から、勢いよく黒い風が吹き出した。
傀儡が抜けた?
涼景の目には、黒い風が矢倉の壁を突き抜けていように見えた。
掴んでいた床板が、涼景と緑権の重みに耐えかねて、音を立てて剥がれ始める。
まずい!
涼景の目が震えた。
そこにまた、容赦のない衝撃が走って、ついに、矢倉の支柱が砕けた。
乾いた柱がバリバリと裂けていく音と共に、支えの板が弾け、涼景は宙に浮いた。ありえない角度に世界が回転する。月が、足元に見えた。
死ぬ!
どうすることもできない浮遊感と、絶望で、涼景は目を閉じることもできず、矢倉の瓦礫と共に地面めがけて落下した。
「せーの!」
何人もの声と、枝が軋む音とが重なって、背中が大きな力に受け止められた。弾んで、今度は硬い地面に投げ出される。体が転がり、木の幹に衝突してようやく止まる。
「……っ!」
涼景は呻いた。何が起きたかわからなかった。
「よっし! うまくいった!」
陽気な声が響き、歓声までが聞こえてくる。暁隊の面々は手を打って笑った。
矢倉の周りの木々の枝に縄をかけ、それを引いて横倒しにして重ね、落ちてきた涼景を受け止めたのだ。
涼景と緑権の体は一度枝の上で跳ね、それから地面に転がった。
「う……っ!」
涼景はしびれる体でうめいた。
「生きてますかい?」
差し出された無骨な手を、涼景は握った。力は入らなかったが、相手の剛力に引き起こされ、どうにか座る。
周囲を見回し、涼景は愕然とした。
三十名ほどの暁隊の隊員が、笑顔で取り囲んでいた。
矢倉は柱が打ち壊され、見事に崩壊している。隊員の何人かが、大型の斧や解体用の大木槌などにもたれて、にやにやしながらこちらを見ていた。
背中の傷みに耐えて後ろを見ると、自分を受け止めた数本の木が、根っこからひっくり返っていた。
「隊長、こいつ、どうしましょう?」
二人の隊士が、気を失った備拓を両脇から抱えて引きずってくる。気を失っているだけで、息はあった。目立った外傷もない。
「……左衛房に返しとけ。丁重にな」
涼景は自分でも情けないほど、掠れた声で言った。
へい、と、軽く答えて、備拓を抱えた隊士たちが横を過ぎていく。涼景はそれを見送り、深く息を吐くと、改めて隊士たちを見上げた。
「おまえら、どうして……」
一際大柄な男が、涼景の前にしゃがみ込んで、無遠慮に顔を近づけた。
「あんたが危ないって、知らせてくれた人がいたんだ。あとは、まぁ、やれることをやっただけさ」
「……知らせた?」
「ああ」
隊士の顔にはみな、興味ありげな笑いが浮かんでいる。どうやら、作戦がうまくいったことを喜んでいるだけではなさそうだ。
「隊長、いつの間にあんなの、食ってたんですか?」
「……え?」
涼景は意味がわからず、首を傾げた。
「黒髪で、白い肌で、薄紅の袍を羽織った、若い女の子ですよ!」
身に覚えがない。
「その少女が、知らせたと?」
「ええ。『涼景様を助けて!』って、そりゃもう、必死で……可愛かったよなぁ!」
「ありゃ、間違いなく、ぞっこん惚れてますぜ」
大口を開けて笑い合う隊士を、涼景は呆然と見た。
「……いや、本当に知らない相手だと……」
「またまた!」
大柄な男が、にやっと笑う。
「誤魔化したってダメですぜ。なんせ、あんたの懐刀を持ってたんだから、間違いない」
……懐刀……だと?
涼景は目を見張った。
「ほら! 心当たりある顔だ!」
と、男が意地悪く笑った。
「刀を渡すほど惚れたか! あんたがそんな純情見せるとはなぁ」
と、大笑いする。
暁隊にとって、左近衛隊隊長と右近衛隊隊長の緊迫した場面を解決したことなど、どうでも良い。涼景の恋愛模様に首を突っ込めたことのほうが、意味がある。
なおも盛り上がる隊員たちの声を遠くに聞きながら、涼景は知らず知らずに手を握りしめていた。
そのやりとりを、東雨はこっそりと木の陰から見つめていた。
これで、よかったんだよな……
それは、涼景に対しての言葉だったのか、自分自身に対しての確認だったのか、東雨にもわからなかった。
その存在すら忘れられていた緑権がようやく目を覚まし、寝ぼけまなこできょろきょろとする。
一瞬、東雨と緑権の目が合った。
気づかれる!
東雨は身を翻した。
天輝殿へ。今宵、皇帝の元へ向かわなければならない。
やったことの始末はつけろ。
涼景は、暁隊に矢倉の解体と木材の運搬を指示すると、自分は急ぎ、天輝殿へ向かった。
いつもなら、隊長が仕事を押し付けて逃げた、と文句を言う隊士も、今はなぜか下卑た笑みを浮かべて、しっかりやれよ、と見送ってくれた。
涼景は言い訳をしても面倒だ、とそれを見逃し、夜の宮中を走った。
人目を気にせず、大通りを突っ切って、天輝殿へと先回りする。
近づくと、正面門から少し離れ、木柵の陰に身を潜めた。
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