38 / 63

11 月下(4)

 胸が、鳴っていた。明らかに何かを期待し、同時に、どうすべきか迷った。  涼景は月を見た。  東雨が、満月の夜に宝順と密会していることは、とっくに掴んでいた。  すでに、東雨は天輝殿に入っただろうか。それとも、向かっている最中か……  どちらにせよ、ふたりきりで話をするには、今夜しかない。  急いだ方がいい。  東雨の侍童という立場は、彼の年齢では不釣り合いである。  しかも、東雨が犀星に傾きつつあることに、宝順が気付いていないわけがない。  このままでは、切り捨てられる。  そうなる前に、どうしても東雨を救いたかった。  どんな関係性であれ、その成長を見守ってきたのだ。涼景にも情が湧く。  東雨の正体について、犀星に話そうとしたこともあったが、取り合ってはもらえなかった。犀星は、東雨の密使としての行動を知りながら、それを決して認めない姿勢を崩さない。涼景に、説得は難しかった。  東雨の正体を明らかにしてしまえば、それで、彼の任務は失敗となる。宝順は全ての始末として、東雨を殺すだろう。  自分の身辺を宝順に握られたとしても、犀星は東雨を手元に置いておくつもりだ。  言い出したら、頑固な奴だから。  犀星の気質は理解していた。  ならば、涼景にできることは、東雨をこちらに引き込むことだけだ。  勝算はある、と涼景は踏んでいる。  東雨はもともと、素直な性格である。心根は優しく、争いを好まない。幼い頃から知っている涼景には、それがよくわかっている。  そんな東雨は、犀星に懐いた。  それは、初めは演技だったかもしれない。だが、犀星の人を惹きつける魅力と、東雨の性格を合わせれば、自然と惹かれ合うことは予測できた。  そして、確かにそれは現実になった。  ただ、涼景が思うよりも、宝順による東雨の支配は強く、その呪縛から受け出すことは容易ではなかった。  影絵のような景色の中で、小さく素早く、人影が動いた。  涼景はとっさに駆け出した。足音を潜めたが、冷えた雪が音を立てた。人影がこちらに気付いて、振り返った。  月光の下で、東雨の姿がはっきりと見えた。  涼景は、思わず目を奪われた。  いつも高く結っている髪を下ろし、目深に袍を羽織った姿は、純粋に美しかった。  こりゃ、あいつらが誤解してもおかしくないな。  涼景は、隊士たちの顔を思い出した。  東雨も、涼景だと気付いて、じっと見つめたままだ。  前にも、こうして睨み合ったことがあった。  あの時、涼景の心には余裕がなく、思わず手を出してしまったが、あれ以来、ずっと後悔している。  つとめて、心を落ち着かせた。  東雨は無表情で、ただ、こちらを見るだけだ。  沈黙が苦しかった。  矢倉での礼を言うべきか、それとも、こんな時間にうろついていることを、とがめるべきか。  いつもなら、即断できる涼景だが、なぜか、東雨を前にすると、調子が狂う。長く沈黙を引きずってしまう。  そのうちに、東雨が小さく顎を引き、天輝殿へ向き直った。 「待て!」  小さく鋭く、涼景は発した。  そのあとに続ける言葉はなかった。  東雨はかすかに振り返った。 「何? また、乱暴する気?」  ぞくっと、涼景は鳥肌が立った。  普段の東雨と別人の、空々しく冷たい声だ。 「俺に構うな」  侍童としてではなく、密使としての言葉だった。  涼景は心を決めた。 「もう、やめろ、東雨」  はっきりと言う。 「おまえは、自由になれ」  その一言に、東雨は袍の裾をなびかせ、しっかりと涼景に向き直った。 「自由?」  東雨の声が笑っていた。 「そんなもの、どこにもない」 「だったら、これから見つければいい」  涼景は食い下がった。 「俺が力になるから……」 「ふざけるな」  歴戦の経験を持つ涼景さえ、思わず口をつぐむ迫力が、東雨にはあった。 「余計な手出しはごめんだ」  涼景は耳を疑う。東雨の口調は、聞き慣れたものとは程遠い。 「俺はもう誰の指図もけない。これ以上、好きにされてたまるか」  もう十分に苦しい。  そんな本音が感じられた。 「おまえ、俺と同じだな」  涼景は、知らず知らずのうちに、そんなことを言った。 「何でもかんでもひとりで背負いやがって。自惚れるのもいい加減にしろ」 「そういうあんたも自惚れているだろ。人の人生、どうにかできるなんて思い上がりだ」  涼景が眉間に深く皺を刻んだ。 「ここで俺を斬るか?」  それは、挑発と言うにはあまりに曖昧な問いかけだった。  東雨は、歪んだ笑みを浮かべた。 「できない。あんたには何もできない。ただ、見ていることしか」  東雨の言葉は涼景ではなく、自分自身を追い詰めているかのようだ。  涼景は声を高くした。 「なぜわからない? おまえは利用されているだけだ」 「だから?」 「東雨」 「だったらどうだっていうんだ? 俺にはこうして生きる他に道はない。あんただって似たようなものだろ」  吐き捨てた東雨の言葉に、涼景は動じなかった。ただ、互いに視線を外すことはない。 「東雨、俺はおまえをずっと見てきた。このままでは、遅かれ早かれ、もたなくなる」 「知るか。俺は、ずっと俺のままだ」 「強がるな。何もかも台無しにする前に、考え直せ」  東雨はそれを、笑い飛ばした。 「東雨……気付いているのだろう?」  涼景が低く言った。 「これ以上、抱え続けることはやめろ。壊れるぞ」 「…………」 「おまえから、星に話せ」  東雨の目に映る月の光が、ゆらゆらと光った。 「おまえの言葉なら、あいつだって……」 「……よかった」  東雨のつぶやきに、涼景は口を閉じた。  睨みつけるように、東雨は上目で涼景を見た。 「助けなきゃ、よかった」  ああ、違う!  と、涼景は思った。  こんなふうに、東雨を追い詰めたかったわけではなかった。  ああ、違う!  と、東雨は思った。  自分の心が捻じ曲がってしまう。  ふたりの想いは空回り、白々しい月の光が嘲笑うようにあたりを煌々と照らし出す。  東雨は逃げるように、涼景に背を向けた。  どこかでまだ、何かを期待している自分を感じながら。  月が傾く。そして、少しずつ、夜空が朝を迎える色を見せるころ、蓮章は丸太のひとつに腰掛けて、一晩の成果を眺めた。明け方までの短時間、近衛に休息を与え、蓮章はひとり、激戦の跡に残っていた。  演武場にうず高く積まれた薪の山は、どこか誇らしげに太陽を待っていた。 「結局、あいつ、戻ってこなかった」  白い息とともに、呟く。  左近衛と何があった?  不安が蓮章の心をかき乱す。  こういう時こそ、そばにいるのが俺の役目だろうに!  涼景のことも手足の凍えも忘れるように、がむしゃらに作業に没頭したが、今になって虚無感が押し寄せてくる。 「なんで……おまえはいつもそうやって……ひとりで全部……」  色褪せた蓮章の唇から、声が漏れる。それはまるで涙のように、乾いた土にこぼれ落ちた。  夜明け前の空気は、あまりに冷たい。 「涼……」 「なんだ?」  ビクッとして、蓮章は振り返った。  疲れ切った顔をした涼景が立っていた。見開いた蓮章の目元に、ちらりと涙の気配があって、それから怒りとも苛立ちともしれない感情が溢れてくる。 「なにしてやがった!」 「幽霊退治」 「バカ言え!」 「本当だ」 「ふざけ……」  と、蓮章は立ち上がりかけて、足に力が入らず、崩れる。 「おい、大丈夫か?」  涼景がやれやれ、と背中を支えてやる。蓮章は上目遣いに涼景を睨んだ。その仕草には色気すらある。 「悪かった」  涼景は並んで丸太に腰かけると、 「ああ、そうだ」  と、思い出したように、 「三年前に英仁が死んだ矢倉、覚えてるか? あれも薪にしてくれって左近衛からの依頼だ」  矢倉の解体? その用件で呼ばれたのか?  蓮章の気持ちが、幾分か落ち着きを取り戻す。 「……そうか。じゃあ、午前中にでも解体班を……」 「いや、もう、暁がバラした」 「はぁ?」 「腐ってるから、質は良くないが……ちょうどいい。五亨庵に回す分にしておけ」 「そりゃ、いいな」  散々振り回されたお返しだ、と言わんばかりに、二人は笑っていた。 「……なぁ、蓮」 「うん?」  涼景は青白い顔をして、凍えた指先を擦り合わせている親友を見た。 「おまえ、俺が殺されたら、仇打ち、してくれるか?」 「……断る」  蓮章は息を止めて、かすかに目を開いた。 「そんなこと……絶対」 「そうか」 「……死なさない」  蓮章の目は真剣だ。  涼景が、息を呑む番だった。  蓮章にも、暁隊にも、そして、東雨にも。   生かされている。  涼景は肩から力が抜けていくのを感じた。  自分に、何ができる?  守りたいものはあるというのに、なすべきことが不明瞭なままだ。  焦燥が胸を焼く。  ふと、蓮章の指の震えに目が止まる。  せめて、今、できることがあるのなら。  あいつなら、きっと、こうするよな……  涼景はそっと、手を伸ばし、蓮章の指に触れた。暖かかった。 「余計に、冷たい」  ぼそり、と蓮章はつぶやいたが、振り払うことはない。  太陽の光が空を白く開いていくまで、ふたりは黙って薪を眺めて座っていた。

ともだちにシェアしよう!