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11 月下(4)
胸が、鳴っていた。明らかに何かを期待し、同時に、どうすべきか迷った。
涼景は月を見た。
東雨が、満月の夜に宝順と密会していることは、とっくに掴んでいた。
すでに、東雨は天輝殿に入っただろうか。それとも、向かっている最中か……
どちらにせよ、ふたりきりで話をするには、今夜しかない。
急いだ方がいい。
東雨の侍童という立場は、彼の年齢では不釣り合いである。
しかも、東雨が犀星に傾きつつあることに、宝順が気付いていないわけがない。
このままでは、切り捨てられる。
そうなる前に、どうしても東雨を救いたかった。
どんな関係性であれ、その成長を見守ってきたのだ。涼景にも情が湧く。
東雨の正体について、犀星に話そうとしたこともあったが、取り合ってはもらえなかった。犀星は、東雨の密使としての行動を知りながら、それを決して認めない姿勢を崩さない。涼景に、説得は難しかった。
東雨の正体を明らかにしてしまえば、それで、彼の任務は失敗となる。宝順は全ての始末として、東雨を殺すだろう。
自分の身辺を宝順に握られたとしても、犀星は東雨を手元に置いておくつもりだ。
言い出したら、頑固な奴だから。
犀星の気質は理解していた。
ならば、涼景にできることは、東雨をこちらに引き込むことだけだ。
勝算はある、と涼景は踏んでいる。
東雨はもともと、素直な性格である。心根は優しく、争いを好まない。幼い頃から知っている涼景には、それがよくわかっている。
そんな東雨は、犀星に懐いた。
それは、初めは演技だったかもしれない。だが、犀星の人を惹きつける魅力と、東雨の性格を合わせれば、自然と惹かれ合うことは予測できた。
そして、確かにそれは現実になった。
ただ、涼景が思うよりも、宝順による東雨の支配は強く、その呪縛から受け出すことは容易ではなかった。
影絵のような景色の中で、小さく素早く、人影が動いた。
涼景はとっさに駆け出した。足音を潜めたが、冷えた雪が音を立てた。人影がこちらに気付いて、振り返った。
月光の下で、東雨の姿がはっきりと見えた。
涼景は、思わず目を奪われた。
いつも高く結っている髪を下ろし、目深に袍を羽織った姿は、純粋に美しかった。
こりゃ、あいつらが誤解してもおかしくないな。
涼景は、隊士たちの顔を思い出した。
東雨も、涼景だと気付いて、じっと見つめたままだ。
前にも、こうして睨み合ったことがあった。
あの時、涼景の心には余裕がなく、思わず手を出してしまったが、あれ以来、ずっと後悔している。
つとめて、心を落ち着かせた。
東雨は無表情で、ただ、こちらを見るだけだ。
沈黙が苦しかった。
矢倉での礼を言うべきか、それとも、こんな時間にうろついていることを、とがめるべきか。
いつもなら、即断できる涼景だが、なぜか、東雨を前にすると、調子が狂う。長く沈黙を引きずってしまう。
そのうちに、東雨が小さく顎を引き、天輝殿へ向き直った。
「待て!」
小さく鋭く、涼景は発した。
そのあとに続ける言葉はなかった。
東雨はかすかに振り返った。
「何? また、乱暴する気?」
ぞくっと、涼景は鳥肌が立った。
普段の東雨と別人の、空々しく冷たい声だ。
「俺に構うな」
侍童としてではなく、密使としての言葉だった。
涼景は心を決めた。
「もう、やめろ、東雨」
はっきりと言う。
「おまえは、自由になれ」
その一言に、東雨は袍の裾をなびかせ、しっかりと涼景に向き直った。
「自由?」
東雨の声が笑っていた。
「そんなもの、どこにもない」
「だったら、これから見つければいい」
涼景は食い下がった。
「俺が力になるから……」
「ふざけるな」
歴戦の経験を持つ涼景さえ、思わず口をつぐむ迫力が、東雨にはあった。
「余計な手出しはごめんだ」
涼景は耳を疑う。東雨の口調は、聞き慣れたものとは程遠い。
「俺はもう誰の指図もけない。これ以上、好きにされてたまるか」
もう十分に苦しい。
そんな本音が感じられた。
「おまえ、俺と同じだな」
涼景は、知らず知らずのうちに、そんなことを言った。
「何でもかんでもひとりで背負いやがって。自惚れるのもいい加減にしろ」
「そういうあんたも自惚れているだろ。人の人生、どうにかできるなんて思い上がりだ」
涼景が眉間に深く皺を刻んだ。
「ここで俺を斬るか?」
それは、挑発と言うにはあまりに曖昧な問いかけだった。
東雨は、歪んだ笑みを浮かべた。
「できない。あんたには何もできない。ただ、見ていることしか」
東雨の言葉は涼景ではなく、自分自身を追い詰めているかのようだ。
涼景は声を高くした。
「なぜわからない? おまえは利用されているだけだ」
「だから?」
「東雨」
「だったらどうだっていうんだ? 俺にはこうして生きる他に道はない。あんただって似たようなものだろ」
吐き捨てた東雨の言葉に、涼景は動じなかった。ただ、互いに視線を外すことはない。
「東雨、俺はおまえをずっと見てきた。このままでは、遅かれ早かれ、もたなくなる」
「知るか。俺は、ずっと俺のままだ」
「強がるな。何もかも台無しにする前に、考え直せ」
東雨はそれを、笑い飛ばした。
「東雨……気付いているのだろう?」
涼景が低く言った。
「これ以上、抱え続けることはやめろ。壊れるぞ」
「…………」
「おまえから、星に話せ」
東雨の目に映る月の光が、ゆらゆらと光った。
「おまえの言葉なら、あいつだって……」
「……よかった」
東雨のつぶやきに、涼景は口を閉じた。
睨みつけるように、東雨は上目で涼景を見た。
「助けなきゃ、よかった」
ああ、違う!
と、涼景は思った。
こんなふうに、東雨を追い詰めたかったわけではなかった。
ああ、違う!
と、東雨は思った。
自分の心が捻じ曲がってしまう。
ふたりの想いは空回り、白々しい月の光が嘲笑うようにあたりを煌々と照らし出す。
東雨は逃げるように、涼景に背を向けた。
どこかでまだ、何かを期待している自分を感じながら。
月が傾く。そして、少しずつ、夜空が朝を迎える色を見せるころ、蓮章は丸太のひとつに腰掛けて、一晩の成果を眺めた。明け方までの短時間、近衛に休息を与え、蓮章はひとり、激戦の跡に残っていた。
演武場にうず高く積まれた薪の山は、どこか誇らしげに太陽を待っていた。
「結局、あいつ、戻ってこなかった」
白い息とともに、呟く。
左近衛と何があった?
不安が蓮章の心をかき乱す。
こういう時こそ、そばにいるのが俺の役目だろうに!
涼景のことも手足の凍えも忘れるように、がむしゃらに作業に没頭したが、今になって虚無感が押し寄せてくる。
「なんで……おまえはいつもそうやって……ひとりで全部……」
色褪せた蓮章の唇から、声が漏れる。それはまるで涙のように、乾いた土にこぼれ落ちた。
夜明け前の空気は、あまりに冷たい。
「涼……」
「なんだ?」
ビクッとして、蓮章は振り返った。
疲れ切った顔をした涼景が立っていた。見開いた蓮章の目元に、ちらりと涙の気配があって、それから怒りとも苛立ちともしれない感情が溢れてくる。
「なにしてやがった!」
「幽霊退治」
「バカ言え!」
「本当だ」
「ふざけ……」
と、蓮章は立ち上がりかけて、足に力が入らず、崩れる。
「おい、大丈夫か?」
涼景がやれやれ、と背中を支えてやる。蓮章は上目遣いに涼景を睨んだ。その仕草には色気すらある。
「悪かった」
涼景は並んで丸太に腰かけると、
「ああ、そうだ」
と、思い出したように、
「三年前に英仁が死んだ矢倉、覚えてるか? あれも薪にしてくれって左近衛からの依頼だ」
矢倉の解体? その用件で呼ばれたのか?
蓮章の気持ちが、幾分か落ち着きを取り戻す。
「……そうか。じゃあ、午前中にでも解体班を……」
「いや、もう、暁がバラした」
「はぁ?」
「腐ってるから、質は良くないが……ちょうどいい。五亨庵に回す分にしておけ」
「そりゃ、いいな」
散々振り回されたお返しだ、と言わんばかりに、二人は笑っていた。
「……なぁ、蓮」
「うん?」
涼景は青白い顔をして、凍えた指先を擦り合わせている親友を見た。
「おまえ、俺が殺されたら、仇打ち、してくれるか?」
「……断る」
蓮章は息を止めて、かすかに目を開いた。
「そんなこと……絶対」
「そうか」
「……死なさない」
蓮章の目は真剣だ。
涼景が、息を呑む番だった。
蓮章にも、暁隊にも、そして、東雨にも。
生かされている。
涼景は肩から力が抜けていくのを感じた。
自分に、何ができる?
守りたいものはあるというのに、なすべきことが不明瞭なままだ。
焦燥が胸を焼く。
ふと、蓮章の指の震えに目が止まる。
せめて、今、できることがあるのなら。
あいつなら、きっと、こうするよな……
涼景はそっと、手を伸ばし、蓮章の指に触れた。暖かかった。
「余計に、冷たい」
ぼそり、と蓮章はつぶやいたが、振り払うことはない。
太陽の光が空を白く開いていくまで、ふたりは黙って薪を眺めて座っていた。
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