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12 孤独の中で(1)
葱を刻む軽やかな音が、日毎に寒さを増す朝の厨房に響いている。
かまどから白く立ち上っているのは、粟を炊く土鍋の湯気だ。気温が下がるにつれ、湯気は濃く、高く広がってゆく。
時折、かまどの火を突つき、ついでに手を温めているのは東雨である。炊き上がる粟の甘い香りと、薪の燃える匂いに包まれると、嫌なことは全て忘れられる気がした。
これだから、朝の炊事は楽しい。
今朝は、とりわけ手際が良い。
鍋に少し油を注ぐ。そこに刻んだ葱と白菜を入れ、さっと炒める。干物の鯖は先に一度焼いてある。丁寧に骨を取り、ほぐしてから鍋に加える。木べらで手早く混ぜ、味噌と塩で味を整える。味噌が焼ける香ばしい匂いを、思い切り吸い込む。
最後に少しすりおろした生姜を加える。玲陽から学んだ隠し味だ。冷めないように木の鉢に盛り付ける。時を数えるように、薪が音を立てる。
ネギの青い部分を刻み、盛り付けた粥にそっと添えると、彩りが増えて暖かさが増すような気がした。
見た目もよく、しっかりとできたと、東雨は満足そうに笑った。
今日の粥には刻んだじゃがいもを入れた。その一工夫に、あの二人は気づいてくれるだろうか。
居間では、玲陽が茶と火鉢の用意をしてくれている。その間に玄関先の雪かきは犀星の仕事だ。手分けして朝の時間を大切に過ごす。少しでも居心地が良くなるようにと、皆がそれぞれに役割を果たすのが楽しかった。
東雨は食事を盆に乗せ、少しずつ居間に運ぶ。机の上に並べ、いつものように箸を添え、整える。
玲陽が玄関先の犀星を呼びに行く。その間に東雨は、水を入れた鍋を火鉢に乗せた。
三人が揃って食事をとる。
玲陽はすっかり冬の生活に慣れ、穏やかに過ごしている。
食事が済むと、火鉢の上で温めていた湯を使い、玲陽が食器を洗う。その間に東雨は馬の準備をする。犀星が昨夜まとめた仕事の書類を運び出し、馬につける。
最後に皆、揃って冬用の長袍をまとい、屋敷を出て鞍上に座る。馬の白い息が、日ごとに濃くなる。
東雨は犀星と玲陽の前に立って、案内するように先を行く。姿は見えなくても、馬の足音が確実についてくる。雪を踏むその音を、東雨は聞きとることができる。
市場の活気を横目に見ながら、大通りを朱雀門へと向かう。すれ違う人たちが、時折、犀星や玲陽に声をかけた。馬上から優しく答える玲陽の声が心地よい。犀星は静かだが、きっと、あの澄んだ笑みを浮かべているに違いなかった。
こうして五亨庵に通うのは何日目だろう。あの忘れられない満月の夜から……
これが日常の風景だ。
東雨は、そっと思った。
……俺が、壊そうとしているものだ。
ふっと暗い顔になる。背中が少し小さくなった。
あの夜、天輝殿の中殿にある石の小部屋で、東雨は、自分がどれほど、目の前の皇帝に逆らうことができないのか、思い知った。
この一ヶ月あまりの間に、東雨はすっかり、玲陽と打ち解けた。二人で過ごすことも自然と増え、犀星もそれを許してくれた。ほとんどが家事に関わる時間だったが、間違いなく、距離は近づいた。
玲陽の仕草、考え方、知識、経験、趣向、その他、さまざまな事柄を東雨は集め、記憶した。
だが、宝順には何も話さないと、決めていた。
無能だと言われても構わない。
玲陽について語ることは、そのまま、犀星の弱点として利用されることがわかっていた。
何も言わないと決めて、東雨は宝順と相対したはずであった。
だが、その決意はまったくの無意味に終わった。
いざ、宝順に問われると、東雨の口は勝手に全てを語り始めた。
まるで、頭の中のことがらが、するすると紐で引き出されていくように、何もかも、洗いざらいを話してしまった。
そして、全ての告白が終わった時、東雨は自分の中身が空っぽになっていることに気づいた。
自我が、ない。
言われるがまま、命じられるがままに。
自分の記憶はあまりにあっさりと、宝順に渡った。
ずっと、そうだったのだと、東雨はようやく、気がついた。
これまで、自分から報告しているのだと信じていたことが、誤りだったのだ。
自分はただ、操られていただけだ。おそらく、最初から、何もかも。
ひとつでも多くのことを語るのが、東雨の誇りだった。自分がどれだけ役に立つか、訴えるように何もかもを話してきた。
初めて、話したくないと思った時には、もう、手遅れだった。
東雨の心は、拒絶することを忘れていた。
「よくやった」
宝順の褒め言葉も、今の東雨には空々しい。
「これだけ早く、玲陽を落とすとは」
何を言われても、東雨は微塵も嬉しくはない。むしろ、自分が犯してしまった罪を、突きつけられている気分だった。
「玲親王と玲陽を引き離せ」
集中力が切れていた東雨は、一瞬、ためらった。
理解が追いつかず、すぐに返事ができなかった。
……二人を、引き離す?
それは、事実上、命を断つも同じこと。
どこまでも、宝順は犀星を追い詰める。そして、どこまでも東雨は、そのために暗躍する。
犀星の苦しみが、宝順の喜びであり、支配の実感である。
足元から、震えが這い上がってきた。
「そなたを使い、玲陽を誘き出すこともできような」
自分を使う?
東雨の背中が、さっと冷えた。
「優しい玲陽は、そなたを助けるために、何をしてくれるのか、実に楽しみである」
宝順は決して、脅しているわけではない。すべてが、本気なのだ。
「仮に玲陽がそなたを見捨てたとて、それは玲親王との間に、別の亀裂を生じさせるだけのこと。朕の見たいものは叶えられような」
ああ、そういうことなのか!
東雨はようやく、宝順の命令の真の意味を理解した。同時に、自分の愚かさにおののいた。
玲陽と東雨を近づけたのは、単に玲陽を殺させるためではなかった。玲陽の、東雨に対する情すら、利用するつもりなのだ。
狂ってる。
そして、あまりに、巨大すぎる。
東雨は、固く目を閉じた。耳のあたりで、ざわざわと嫌な音がする気がした。それに混じって衣擦れが聞こえた。宝順の気配が、ぐっと近づく。
「これは、そなたにとっても、望ましいことぞ」
宝順の声は、心の隅にまで入り込んでくる。
「このままでは、そなたの居場所はなくなる」
「…………」
「すべて、玲陽に取って代わられるだろう。それでも良いならば、止めはせぬが?」
どこまで、宝順は見透かしているのか!
東雨は戦慄を覚えた。
東雨が、犀星を裏切り続けながら、それでも惹かれていることまで、宝順は計算に入れていた。
「玲陽がいなくなれば、玲親王は苦しむだろう。そうなれば、そなたを必要とせざるを得まい」
……犀星が、自分を選ぶ?
それは、東雨が封じ込めてきた、願いに違いなかった。決して手をだしてはいけない、禁じられた想いだ。
「玲親王が傷付けば傷つくほど、そなたがつけ込む隙もできるというもの。悪くはあるまい?」
石の小部屋は冷えていた。
しかし、東雨の額には汗が浮かび、頬に流れた。
命令は絶対なのだ。言われたからにはやらねばならない。断る事は、自分の死を意味する。それだけははっきりとしていた。
玲陽を切り捨てて犀星を得るか、または、命を失うか。
東雨の道は二つにひとつだ。
……命令に、従うだけだ。
東雨は、震えながら、自分に言い聞かせた。
……死ぬのは、怖い。
東雨はその後、どうやって屋敷まで戻ったのか、覚えていない。ただ、月がやたらと眩しかったことだけは、確かだった。
あの日以来、東雨はあまり眠れなくなった。
何をしていても、上の空だった。
何も、考えたくなかった。
……俺は、何を、しているんだろう。
物思いに沈んでいた東雨の耳に、後ろから、犀星と玲陽の声が、途切れ途切れ、風に乗って聞こえてきた。
……ああ、そうだ、五亨庵に行くんだ。
東雨は、ぼんやりとそう、思った。
犀星たちの話題は自由で豊富だった。仕事の話もあれば、景色の話もある。その日見た夢のことなど、何気ないことも出てくる。帰りに市場で何を買っていきたいか、次の休みにはどこに出かけようか、新しく試してみたい香があるのだが……
本当に何事もないかのような会話だ。
「東雨どのはどう思いますか?」
後ろから玲陽の透き通ったきれいな声が聞こえてきた。
東雨は直前の会話を聞いていなかった。
「え? なんですか?」
わずかに姿勢が崩れて、思わず鞍に手を置いて支えた。
「すみません。急に声をかけて……」
玲陽が優しく言う。
「今日は、謀児様と初めてお会いするので……」
玲陽が会話を繰り返してくれた。
「謀児様とお呼びするか、謀児どのとお呼びするか、どちらが良いかと」
東雨は思わず笑った。
「謀児、でいいんじゃないですか。光理様は承親悌の位なんですから、玄草様のことだって呼び捨てていいくらいです」
「そういうわけには…… 年上なのですし」
玲陽はあくまでも控えめだ。
「一応、俺は謀児様って呼びますよ。一応、ですけど」
と繰り返す。犀星は何も言わないが、ただ静かに笑っている。
玲陽と過ごすようになって、犀星の無表情が微笑に変わった。
大きく表情が動くことは相変わらず少ないが、その穏やかな犀星を見ると、周りもほっとするのだ。
……そして、自分はそれを壊す。
また、東雨の思考が、天輝殿の薄暗い部屋の中へ引き込まれていく。
頭の芯がぼーっと痺れて、何を考えていたのかわからなくなる。
「東雨殿?」
玲陽の声は、いつも東雨を優しく現実に連れ戻してくれた。
「すみません。ちょっとぼんやりして」
東雨は謝ったが、その声はどこか虚ろだ。
「具合が悪いですか」
玲陽が心細げな様子である。
「いえ、大丈夫です。少し食べすぎたみたいで」
東雨は笑ってはぐらかした。どこまで信じたかわからないが、玲陽はそれ以上は聞かず、優しく微笑んだ。
「今日のお粥、おいしかったです。じゃがいも、あんなふうにすると、とても甘いんですね」
「はい」
……気づいてくれた!
東雨は嬉しい反面、何かすっきりとしないものを感じた。気持ちを悟られないように、
「たくさんいただいたので、凍らないうちに食べないといけまsねんから」
玲陽は素直に受け止めて、
「では、今夜は私が、じゃがいもで何か作りますね。当番制なんですから、ちゃんと働きます。最近は東雨どのばかり作っているじゃないですか。申し訳ないです」
「気にしないでください」
東雨は無理にニコッとしたが、
「何か考え事があると、つい厨房に立ちたくなるんです……あ!」
墓穴を掘った。
「考え事?」
何かある、と、玲陽が眉を寄せるのがわかった。
「光理様、そんな心配そうな顔しないでください。俺、平気ですから」
東雨のぎこちない笑顔を、玲陽が信じるはずはない。だが、そっと目を伏せ、それからまた、優しく笑ってくれた。
「何かあったら必ず話してくださいね」
必ず助けますから。
そう言われた気がして、東雨は心臓がどくりとなった。
優しくされると、心が揺らぐ。
東雨には玲陽の手をしっかりと掴むだけの勇気がない。いや、ないのは勇気ではなく、資格なのではないかと思う。
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