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12 孤独の中で(2)

 逃れ難い呪いのように、宝順帝の言葉がどこまでも追ってくる。  あの薄暗く、嫌な匂いのする部屋の記憶…… 『犀星を取り戻せ』  宝順に言われた言葉は、東雨のひた隠しにしてきた渇望の代弁だった。  玲陽が現れる前、犀星の隣を歩いていたのは自分ではなかったか。  それなのに……  東雨は思考の迷路を彷徨う。  玲陽は優しい。  たとえ偽りであったとしても、しばらくの間そばにいて、話をして、心を通わせるふりをしてきた。  玲陽の優しさも、その心根のまっすぐなところも、賢さも、ぬくもりも、寂しさも、強さも、苦しんできたすべてのことも、それを乗り越えた勇気も。  何より、犀星を想う心が、東雨には痛いほど伝わっている。  それなのに、自分はこころから、素直に受け入れることができずにいる。  ……嫉妬している。  犀星は初めから自分のものではなかったというのに。初めからこの人のものだったのに。あの、毎日したためられた熱い手紙は、すべて玲陽に向けたものであったのに。  いつのまにか、俺は、若様に恋をしていた……?  気づきたくなかったことが、明らかになってゆく。  認めたくなかった思いに、気づかされてゆく。  それが苦しくて、東雨は目を背け続けてきた。しかし、皇帝の命令は、逃げることを許さなかった。東雨の歪んだ欲望を見透かし、その中に突き落とすように背中を押した。  ……死にたくない。  何度も決心する。  ……だけど……  同じ数だけ、迷う。  心が、焼かれていくようだ。燃え尽きて灰になり、雪のように降り積もる。それは決して溶けることはなく、ただただ重く重なり、その中で自分は息もできぬまま埋もれてしまうのだろう。  意識が遠くなって、東雨は体がぐらついた。  玲陽の鋭い声に、危うくあぶみを踏み締めて、どうにか体を支える。  犀星が馬を寄せた。 「具合が悪いなら無理をするな」 「……大丈夫です」  そうは答えたが、東雨の顔は真っ青だ。  犀星は玲陽と目くばせした。玲陽が犀星とは反対側に馬を寄せ、東雨を見守る。二人に挟まれる形になって、東雨はふらふらと、視線のやり場に困った。 「前だけを見ていろ」  犀星が小さく言う。精一杯顔をあげる。すでに山桜が見えていた。  小道に入る前に馬を降り、そこからは一人ずつが馬を引いて門まで進む。門の横にある厩舎に馬を繋ぎ、中に入る頃には、東雨は少し気持ちが落ち着いていた。 「おはようございます」  門前の詰所で、当番の湖馬が声をかけた。 「お勤めご苦労様です」  東雨が頭を下げる。東雨を見て、湖馬は首を傾げた。 「東雨、顔色が悪くないか?」 「少し寒いので」  東雨は誤魔化した。  内扉を開けると、待ちかねていたように緑権が自分の席から飛び降りてきた。ぱたぱたと足音をたてて駆け寄る。 「伯華様、長らくご無沙汰しました」  緑権は嬉しそうに礼をした。 「いや、留守をしていたのは俺の方だ」  犀星はしばらくぶりに会う緑権に、おだやかに微笑んだ。と、それを見て緑権はあからさまに狼狽え、後退った。 「あ、あの、私、また、何か失礼なことを?」 「ん?」  東雨がわずかに眉をよせた。緑権は大真面目で目を見開いて、 「伯華様がそんな顔をなさるなんて、普通じゃないです! 申し訳ありません!」  膝もつくか、という勢いで頭を下げる。 「本当に、本当に、申し訳ありません! あの、ちょっと、体調が悪くて、ええと、それで少しお休みをしてしまいまして!」  犀星は、俺が悪いのか、と笑顔をやめた。東雨はホッと息を吐いた。  なるほど、犀星の笑顔には、このような反応もあったのか。  新発見をした東雨の顔は、自然と明るくなっていく。 「謀児様、しっかりなさってください」  腰に手をあて、胸をそらせる。 「若様は、心を取り戻したんです」 「……え?」  緑権は東雨を見て、きょとん、としている。その子供じみた仕草は、犀星より十以上年上とは思えない。 「心を?」 「はい!」  東雨は目を輝かせて、玲陽を緑権の前に押し出した。 「こちらが、若様の心です!」 「え?」  予想外の紹介のされ方に、玲陽はどうしてよいかわからない。  玲陽を見て、緑権の目をまんまるになった。 「もしかして、いや、間違いないく、あなたが光理どの、ですね!」 「え? あ、はい」  玲陽は慌てて姿勢を正し、頭を下げた。 「よろしくお願いいたします、謀児様」 「こちらこそ、よろしくお願いいたします」  そのやりとりに、思わず東雨は吹き出した。  真顔を作っていた犀星までが、唇を緩める。自分もいるぞ、と言わんばかりに、慈圓が奥の席から叫んだ。 「どうでもいいですが、扉を閉めてください。寒いんですから」 「はい!」  東雨と玲陽、そして緑権の三人が、同時に内扉に飛びついた。  それを見て、とうとう、犀星が笑い声を立てた。  東雨と玲陽は顔を見合わせてにっこりとし、緑権はひたすらに怯えていた。  午前中、玲陽は緑権から、具体的な仕事について委細を伝えられた。  承親悌として、五亨庵につとめても、玲陽の仕事は特に決まっていたわけではない。そのため、休んでいた緑権に代わって、慈圓の補佐にあたっていた。書物の点検や文書の清書、資料集めが主だった。  元来、あらゆることに熱心で、勉強家の玲陽は、それでは物足りなかった。治水工事に関わる計画に携わりたいが、それまでには、まだまだ身につけなければならないことが多い。  玲陽は緑権について、その仕事を手伝いながら、少しずつ学ぶことにした。  そんなやりとりをするうちに、二人はすっかり仲良くなった。もともと玲陽は人に気に入られる性格である。外見の特殊性から、第一印象では恐れられても、話をしてみると怖いという事はない。  東雨は、光理様の笑顔は最強だ、と思っている。ほろりと花が開くような笑顔一つで、犀星までが言いなりになる。犀星が堕ちるという事は、すなわち、この国が動くということだ。つまり、この国を動かしているのは光理様の笑顔だ。  これが現在の東雨の評価である。  東雨は自分が出したこの結論が気に入っている。そして同時に、不安にも襲われる。玲陽の笑顔は自分を救い、同時に自分を孤独に追い詰める。  きっかけを見つけて、玲陽と犀星の間を裂かねばならない。  どんな策略を用いたら……  考えなければならないことを、東雨は無理に先延ばしにしていた。  いつものように、五亨庵の掃除から、厨房の片付け、資料の整理、薪割り、炉や火鉢の火加減、お茶出し、馬の世話、あらゆることをこなしながら、東雨はできるだけ忙しくした。そして、普段と変わらずに繰り返した。少しでも違うことをすると、思い出したくないことが頭をよぎる。  昼近くになって、涼景が五亨庵の内扉を開いた。 「星、いるか?」  その声が、清々しいほどに響く。  全員が一斉に入り口を振り返る。東雨は条件反射で涼景を睨んだ。 「また、厄介事を持ってきたんですか?」  涼景は唇の端で笑うと、 「厄介ごとじゃない、今日は、薪だ」  と後ろを示した。  何人かの近衛が、薪の束を抱えて立っている。 「荷車いっぱい持ってきたぞ。どこへ運ぶ?」 「……では、いつもの所へ」  東雨がしぶしぶ案内する。  入り口からすぐ右手の部屋が備品庫になっている。備品庫の隣には炉があり、薪はすぐにここで使える。  東雨は近衛を手伝いながら、備品庫の中に丁寧に薪を積み上げた。  その間に、涼景は一服しよう、と中央の長榻に降りてきて、手足を投げて座る。  緑権が茶器を盆にのせ、嬉しそうに涼景に寄ってきた。  あの満月の夜以来、緑権は、すっかり涼景を信頼している。 「謀児どののおかげで、仕事は順調です」  涼景は世辞を言った。 「もうすぐ作業も終わります。そうすればまた警備に集中できる」  と、ちらっと犀星を見る。 「また特別任務が出なければ、だが」  と、付け加えた。  自分の席に座ったまま、犀星は、ふと、宙を見つめた。 「そうだな。次は……」 「言わなくていい」  涼景がそれを止めた。 「全く、お前が何か発案すると、いつも俺たちに回ってくるんだ」 「大丈夫です。次も私、役に立ちますから」  緑権が堂々と胸を張っている。その潔いことは見ていて気持ちが良いほどだ。  これほど自己肯定感が高いと生きていくのが楽だろうと、東雨はうらやましさ半分でため息をついた。  玲陽は犀星の斜め向かいに用意された席に座っていた。宮中の人員名簿から目を上げ、緑権を見る。 「謀児様は、現場で解体工事の指揮に当たっていらっしゃったんでしょう?」 「はい」  と、緑権が気持ちよく答えた。 「あちこち走り回って、もう、大変でした」 「現場からも、大変だった、と苦情の声が上がってるぞ。手伝うといって、場を混乱させたそうだな」  と、慈圓がわざわざ水を刺す。 「それは……やる気が暴走したんです」 「暴走するなら、引っ込めておけ」  慈圓には遠慮というものがない。  緑権は、それでも楽しげだ。ふざけているわけではなく、これは素である。そして東雨にまで下に見られる理由である。  玲陽は、そんな飾らない緑権のことを気に入っていた。  心配性ではあるが、どこか能天気で穏やかな男は、五亨庵にとって緊張を和らげるための大切な緩衝材だ。慈圓が、どうして緑権を登用したのか、玲陽にはその心がわかる気がした。  緑権の方でも、すっかり玲陽を気に入っている。犀星も慈圓も突拍子のないことを言い出し、その考えは、時として誰かを怒らせはしないかと、ハラハラさせられる。  東雨も文句を言いながら、結局二人には従ってしまう。  涼景に至っては時として火に油を注ぐ。  そんな中で、玲陽は良くない事は良くないと言い、犀星まで黙らせる力を持っていた。  さきほども、文の返事を後回しにしようとした犀星に、『それは最も先にやるべきことです』と苦言を呈していた。文とはいっても、恋文なのだが。  玲陽は常識人だ。  その一事が、緑権にとっては何よりありがたい。この五亨庵に欠けていた常識という心が、ようやく備わったのだ。  今日、緑権の機嫌がいつもより余計に良いのは、そのためもあるのかもしれない。  薪を全て運び入れると、東雨は近衛に、用意していた小さな包みを差し出した。  一晩かけて作った、大根の蜜漬けだ。 「お茶受けにでもどうぞ」  東雨は笑顔で近衛を見送った。  その様子を、茶を片手に眺めていた涼景が、ふっと笑う。その微笑みは、寂しげで、しかし優しかった。玲陽はそれを見逃さない。こちらをじっと見ている視線に気づいて、涼景は玲陽と目が合った。  玲陽は優しい笑みを返した。どことなく、詫びを入れるような気配もあった。受け取るように、涼景が頷く。 「そういえば、仙水。この前、妙な話を聞いたぞ」  慈圓が、自分の几案で書物で調べ物をしながら、涼景に声をかけた。びくっとして、涼景は肩越しに振り返った。 「また、怪物が出たそうじゃないか」  慈圓の声は抑揚がない。 「何の話ですか?」  緑権が既に青ざめている。東雨は炉に薪をくべながら、聞き耳を立てた。犀星と玲陽はそれぞれの仕事をしていたが、しっかりと意識は会話に向いている。

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