41 / 63

12 孤独の中で(3)

 五亨庵では、すべての話が筒抜けなのだ。  涼景は皆の視線を集めてしまい、仕方なく話し出した。 「この前の、蓮章の噂がようやく落ち着いたかと思ったら…… まったく、宮中の噂は戦地の伝令より早く回る」 「どんな噂なんですか?」  怖がりなくせに怖いもの見たさの緑権は、顔をこわばらせて涼景を見つめている。  その姿勢に押されるように、涼景は少し体を引いた。 「何でも、今度は宮中に、黒髪に白玉の肌の月光のような儚い美少女の幽霊が出る、というもので……」 「ああっ! それ、私も見ました!」  緑権の叫びが、高い天井にまで轟いた。 「薄紅色の袍をまとって、ふわりと暗がりの中に消えたんです。私それで怖くて怖くて数日寝込んでしまいました」  長きにわたって、緑権が仕事を休んだのは、そういう理由だったらしい。 「ずいぶんと、次々に現れるものだな」  慈圓は、お前たちが犯人だろう、と言わんばかりの顔をしている。さすがに涼景も、それは否定した。 「今回の件は、蓮は関係ない」 「なぜそう言い切れる? 幽霊の正体を知っているからか?」  どこまでも慈圓は鋭い。涼景は思わず、ぐっと息を飲んだ。 「確かに蓮章様は綺麗ですけど」  突然、離れた場所から、東雨が口を挟んだ。口調は至って冷静で、まるで完全に他人事だ。 「蓮章様が化けられるのは、せいぜい美女までです。少女は無理があります」 「そういうことです」  と、涼景が、しめた、とばかりに便乗する。 「でも、綺麗でした」  緑権がなぜか頬を染めている。涼景は引きつった笑いを隠せなかった。 「きれいな幽霊、ですか」  玲陽が興味を持つ。  玲陽にとって、幽霊とはすなわち傀儡である。それはとてもではないが、美しいと言えるものではなかった。  犀星はふっと玲陽を見た。何を思っているのか、その感情の少ない顔から読み取れない。  緑権は嬉しそうに、 「とても綺麗で、可憐で、美しい少女でした」  口を開くたびに、だんだん美の評価が上がっていく気がする。涼景はやれやれと肩をすくめた。 「最近では、近衛もその話題でもちきりだ」 「そんなに?」  玲陽は真剣だ。涼景は続けた。 「金髪銀眼の美女の怪物と、黒髪白肌の美少女の幽霊、どちらが美しいかで議論どころか、賭けまで始まっている」 「私は、少女の方が」  と、緑権は幽霊の肩を持った。東雨は黙って箒を動かしつつ、緑権のそばを通り過ぎていく。  慈圓が呆れ返った。 「そんなことばかり言っているから、いつまでたってもこの国は良くならん。そもそも、最近の若い者たちには、国を預かるという責任感が……」  慈圓の嘆きはなおも収まらず、一人でぶつぶつと続けている。 「都って、出てくる幽霊まで綺麗なんですね」  玲陽は、うらやましい、というように呟いた。  そのとき、何を思ったか、犀星がふっと唇を緩めた。 「陽が一番、綺麗だ」
  一同がそろって犀星を見た。その顔はどれも、本当に幽霊でも見たように引き攣っていた。  犀星は黙って、書類に目を戻した。  動くこともできない沈黙が、五亨庵を支配した。 「……俺、そろそろ行くな」  ついに耐えかねて、涼景が立ち上がった。 「そ、そうですよね、忙しいですよね!」  緑権がどこか必死に笑っている。 「これから蓮を、花街まで届けねばならなくてな」 「花街?」  東雨がいぶかしむ。 「こんな昼間から女郎買いですか?」 「なんだ、うらやましいなら、おまえも行くか」  涼景は冗談とも思えない調子で言った。  東雨はちらりと睨んで、 「俺はここにいる方がいいです。花街よりも綺麗な人がいますから」 「確かに、一理あるな」  涼景は犀星と玲陽に目を向けた。  それは相当に失礼な視線なのだが、残念ながらここでは咎めるどころか、誰もが納得してしまう。かろうじて、慈圓が咳払いをする程度である。  犀星は真顔で、 「まだ、掴めないか?」 「ああ。もう、最終手段だ。蓮を潜入させる」 「そうか。礼を伝えてくれ」  涼景がニヤリとした。 「体で払えと言われるぞ」  どこまで本気ともわからないことを言って、涼景はさっさと広間を出て行った。  玄関先で、湖馬をからかっている声がするが、それもやがて遠のいた。  東雨は、ふと、寂しさを感じた。思わず、懐に手をあてる。  その横顔を見ていた緑権は、何かを思い出したように口を開きかけたが、珍しく黙り込んだ。  昼過ぎ、犀星たちは、五亨庵を出て、家路に着いた。  冬場は日暮れが早い。  明るいうちに買い物を済ませ、家に帰って一通りのことを終えなければならない。  日が沈めば、油代を惜しんで寝てしまう生活は、相変わらずである。  東雨は、市場に寄る犀星と玲陽の馬を預かって、先に屋敷に戻った。  買い物に出る時は、馬より徒歩の方が小回りが効いて便利だ。  犀星は親王という立場上、一人で出歩く事は許されていない。必ず誰かが一緒に行く必要があった。  人嫌いで、暁隊や近衛では、犀星の相手はつとまらない。そのため、今まではどこに行くにも東雨が一緒だった。  玲陽が来てからは、東雨が一人の時間が増えた。逆に何をしていいのかわからないくらいだ。  東雨は、馬をひいて、厩舎の近くまで行くと、馬具を外してやった。  今までは、自分と犀星の二頭だった。今は玲陽の馬もそこに加わっている。  犀星が玲陽のために選んだのは、たてがみも尾も真っ白い、瞳の大きな一頭だった。  初めて見たとき、玲陽によく似合うと東雨は思った。気性も穏やかで、玲陽本人にも似ていた。  白馬は東雨にすぐに懐れ、顔を擦り寄せて甘えてくる。  東雨は、馬が好きだ。  何も言わなくてもそばにいてくれる。嘘をつく必要も、無理に笑うこともしなくて良い。  暖かい馬の体を撫でて、東雨は顔を寄せた。白馬はそんな東雨の気持ちがわかるのか、首を下げて、こつん、と額を合わせてきた。今の自分と同じように、互いに額を寄せ合う犀星と玲陽の姿を、東雨は思い出した。  ……俺は、羨ましかったのかな。  過去に通り過ぎた様々な感情の一つ一つに、東雨は向き合い始めていた。  いつまでも目をそらしているから怖いのだ。それが何であるかわかってしまえば、恐れる必要は無い。  いつだったか、犀星が言ったその言葉が、優しく蘇ってくる。  犀星の言葉は、時々、自分にだけ向けられた秘密の伝言に思われた。目の前のことを言いながら、実はそっと、自分にだけ話しかけているのではないか。  自分の思い過ごしなのだろうか、と、東雨は自問する。期待してしまう自分が、本当に嫌いだ。  どこまで犀星に甘えたがっているのだろう。彼はこの国の親王であり、その心の中に唯一入っていけるのは玲陽なのだ。自分はあくまでも、傍に立つ一人の侍童に過ぎない。  もし、宝順が言うように、玲陽を遠ざけることができたならば……  それは甘い誘惑に違いない。  馬が、鼻を鳴らした。 「お腹、すいたよね」  東雨の顔は優しかった。それこそ、本来の彼だった。  犀星の笑顔を見た者は少ないが、東雨の素顔を知る者は、誰もいないかもしれない。  丁寧に馬たちの世話をし、東雨は屋敷に戻った。火鉢に火を入れ、部屋を温める。二人が帰ってきたらすぐに夕食の支度だろう。その前に湯を沸かそう。  今日はいつもより冷えるから、温まってから眠った方が良い。外の釜に薪を組み、いつでも湯殿を使える用意を整える。  準備が終わった頃、犀星と玲陽が話をしながら屋敷に戻ってきた。  二人の姿をちらりと見て、東雨は自分の心が、すっと裏返ったのを感じた。こうやって、心の裏表を使い分けて、自分はどうにか自分自身を保っている。東雨という人間を壊してしまわないように。そこまでして守るだけのものが残されているのだろうか。  東雨は、考え始めると何も手につかなくなる。急いで仕事を見つけなければならない。  厨房で玲陽が料理をする間、東雨は屋敷の一部屋にこもった。  そこは、犀星のために作られた衣装部屋である。  東雨のほかに、そこに出入りする者はいない。  そっと、棚の一番下に置いてある箱を見た。小さな、薄い茶色の木箱だ。東雨は、そっと箱の縁を撫でた。  蓋を開けると、懐かしい匂いが香った。箱の中には、整頓された木簡がおさまっていた。犀星が都に来てから毎日のように書いた、玲陽への文だった。  東雨は、大切そうに、一番上の一枚を手に取った。 『陽へ』  書き出しはいつもこの名から始まる。そして、日々の何気ない事柄が淡々とつづられ、最後には日付とそして一言、『星』の文字がある。  犀星はいつもこれを東雨に託した。自分はそれを投函するふりをして、ここにため込んでいた。  犀星が故郷とかわす内容を、知るためだった。また、犀星の筆跡を真似て、偽書も作れるようになるためでもあった。  気になる内容のもの、珍しい文字が使われたものだけを残し、あとはこっそり、燃やしてしまった。  しかし、いつしか、東雨はそれらを、手放せなくなっていた。  見つかれば致命的な証拠となってしまう。だというのに、今でもこうして数枚、隠し持っている。  東雨は初めから、犀星を裏切り続けていた。いや、裏切るという言葉は的確ではないかもしれない。騙していたと言う方が正しい。東雨にはその道しかなかった。  犀星はもう、自分に気づいているかもしれない。それでも何も言わず、変わらずにそばに置いてくれる。  ……いや、その保証はもうないんだ。  自分の代わりは玲陽が務める。  一緒に買い物に行くのも、料理を作るのも、部屋の支度を整えるのも、五亨庵での仕事も、その何もかもを、玲陽は自分よりもうまくやれる。そして自分のできないことまで、彼はできる。  東雨の価値は、玲陽によって完全に失われた。  宝順帝は言った。  お前の居場所がなくなると。  あれは嘘でも脅しでもない。本当のことだ。自身がこんなにもそれを思い知っているではないか。  引き下がるべきなのか。何もせずに、このままいなくなったほうが良いのか。  だが、ここを去るには、東雨は、あまりに犀星を思い過ぎた。  ならば、本当に、玲陽と犀星を壊すのか。  そんなことをして、本当に自分は望むものを手に入れられるのか。  一度、手を染めたら、二度とは戻れない。  懐深くに抱き続ける短刀が、東雨にその現実を突きつけていた。  苦しくて、息ができない。  文を胸に抱きしめて、東雨は目を閉じた。  ……さよならを、言わなければいけないのだろうか……  不安と混乱ばかりが心を支配し、涙さえ、流れることはなかった。

ともだちにシェアしよう!