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12 孤独の中で(3)
五亨庵では、すべての話が筒抜けなのだ。
涼景は皆の視線を集めてしまい、仕方なく話し出した。
「この前の、蓮章の噂がようやく落ち着いたかと思ったら…… まったく、宮中の噂は戦地の伝令より早く回る」
「どんな噂なんですか?」
怖がりなくせに怖いもの見たさの緑権は、顔をこわばらせて涼景を見つめている。
その姿勢に押されるように、涼景は少し体を引いた。
「何でも、今度は宮中に、黒髪に白玉の肌の月光のような儚い美少女の幽霊が出る、というもので……」
「ああっ! それ、私も見ました!」
緑権の叫びが、高い天井にまで轟いた。
「薄紅色の袍をまとって、ふわりと暗がりの中に消えたんです。私それで怖くて怖くて数日寝込んでしまいました」
長きにわたって、緑権が仕事を休んだのは、そういう理由だったらしい。
「ずいぶんと、次々に現れるものだな」
慈圓は、お前たちが犯人だろう、と言わんばかりの顔をしている。さすがに涼景も、それは否定した。
「今回の件は、蓮は関係ない」
「なぜそう言い切れる? 幽霊の正体を知っているからか?」
どこまでも慈圓は鋭い。涼景は思わず、ぐっと息を飲んだ。
「確かに蓮章様は綺麗ですけど」
突然、離れた場所から、東雨が口を挟んだ。口調は至って冷静で、まるで完全に他人事だ。
「蓮章様が化けられるのは、せいぜい美女までです。少女は無理があります」
「そういうことです」
と、涼景が、しめた、とばかりに便乗する。
「でも、綺麗でした」
緑権がなぜか頬を染めている。涼景は引きつった笑いを隠せなかった。
「きれいな幽霊、ですか」
玲陽が興味を持つ。
玲陽にとって、幽霊とはすなわち傀儡である。それはとてもではないが、美しいと言えるものではなかった。
犀星はふっと玲陽を見た。何を思っているのか、その感情の少ない顔から読み取れない。
緑権は嬉しそうに、
「とても綺麗で、可憐で、美しい少女でした」
口を開くたびに、だんだん美の評価が上がっていく気がする。涼景はやれやれと肩をすくめた。
「最近では、近衛もその話題でもちきりだ」
「そんなに?」
玲陽は真剣だ。涼景は続けた。
「金髪銀眼の美女の怪物と、黒髪白肌の美少女の幽霊、どちらが美しいかで議論どころか、賭けまで始まっている」
「私は、少女の方が」
と、緑権は幽霊の肩を持った。東雨は黙って箒を動かしつつ、緑権のそばを通り過ぎていく。
慈圓が呆れ返った。
「そんなことばかり言っているから、いつまでたってもこの国は良くならん。そもそも、最近の若い者たちには、国を預かるという責任感が……」
慈圓の嘆きはなおも収まらず、一人でぶつぶつと続けている。
「都って、出てくる幽霊まで綺麗なんですね」
玲陽は、うらやましい、というように呟いた。
そのとき、何を思ったか、犀星がふっと唇を緩めた。
「陽が一番、綺麗だ」
一同がそろって犀星を見た。その顔はどれも、本当に幽霊でも見たように引き攣っていた。
犀星は黙って、書類に目を戻した。
動くこともできない沈黙が、五亨庵を支配した。
「……俺、そろそろ行くな」
ついに耐えかねて、涼景が立ち上がった。
「そ、そうですよね、忙しいですよね!」
緑権がどこか必死に笑っている。
「これから蓮を、花街まで届けねばならなくてな」
「花街?」
東雨がいぶかしむ。
「こんな昼間から女郎買いですか?」
「なんだ、うらやましいなら、おまえも行くか」
涼景は冗談とも思えない調子で言った。
東雨はちらりと睨んで、
「俺はここにいる方がいいです。花街よりも綺麗な人がいますから」
「確かに、一理あるな」
涼景は犀星と玲陽に目を向けた。
それは相当に失礼な視線なのだが、残念ながらここでは咎めるどころか、誰もが納得してしまう。かろうじて、慈圓が咳払いをする程度である。
犀星は真顔で、
「まだ、掴めないか?」
「ああ。もう、最終手段だ。蓮を潜入させる」
「そうか。礼を伝えてくれ」
涼景がニヤリとした。
「体で払えと言われるぞ」
どこまで本気ともわからないことを言って、涼景はさっさと広間を出て行った。
玄関先で、湖馬をからかっている声がするが、それもやがて遠のいた。
東雨は、ふと、寂しさを感じた。思わず、懐に手をあてる。
その横顔を見ていた緑権は、何かを思い出したように口を開きかけたが、珍しく黙り込んだ。
昼過ぎ、犀星たちは、五亨庵を出て、家路に着いた。
冬場は日暮れが早い。
明るいうちに買い物を済ませ、家に帰って一通りのことを終えなければならない。
日が沈めば、油代を惜しんで寝てしまう生活は、相変わらずである。
東雨は、市場に寄る犀星と玲陽の馬を預かって、先に屋敷に戻った。
買い物に出る時は、馬より徒歩の方が小回りが効いて便利だ。
犀星は親王という立場上、一人で出歩く事は許されていない。必ず誰かが一緒に行く必要があった。
人嫌いで、暁隊や近衛では、犀星の相手はつとまらない。そのため、今まではどこに行くにも東雨が一緒だった。
玲陽が来てからは、東雨が一人の時間が増えた。逆に何をしていいのかわからないくらいだ。
東雨は、馬をひいて、厩舎の近くまで行くと、馬具を外してやった。
今までは、自分と犀星の二頭だった。今は玲陽の馬もそこに加わっている。
犀星が玲陽のために選んだのは、たてがみも尾も真っ白い、瞳の大きな一頭だった。
初めて見たとき、玲陽によく似合うと東雨は思った。気性も穏やかで、玲陽本人にも似ていた。
白馬は東雨にすぐに懐れ、顔を擦り寄せて甘えてくる。
東雨は、馬が好きだ。
何も言わなくてもそばにいてくれる。嘘をつく必要も、無理に笑うこともしなくて良い。
暖かい馬の体を撫でて、東雨は顔を寄せた。白馬はそんな東雨の気持ちがわかるのか、首を下げて、こつん、と額を合わせてきた。今の自分と同じように、互いに額を寄せ合う犀星と玲陽の姿を、東雨は思い出した。
……俺は、羨ましかったのかな。
過去に通り過ぎた様々な感情の一つ一つに、東雨は向き合い始めていた。
いつまでも目をそらしているから怖いのだ。それが何であるかわかってしまえば、恐れる必要は無い。
いつだったか、犀星が言ったその言葉が、優しく蘇ってくる。
犀星の言葉は、時々、自分にだけ向けられた秘密の伝言に思われた。目の前のことを言いながら、実はそっと、自分にだけ話しかけているのではないか。
自分の思い過ごしなのだろうか、と、東雨は自問する。期待してしまう自分が、本当に嫌いだ。
どこまで犀星に甘えたがっているのだろう。彼はこの国の親王であり、その心の中に唯一入っていけるのは玲陽なのだ。自分はあくまでも、傍に立つ一人の侍童に過ぎない。
もし、宝順が言うように、玲陽を遠ざけることができたならば……
それは甘い誘惑に違いない。
馬が、鼻を鳴らした。
「お腹、すいたよね」
東雨の顔は優しかった。それこそ、本来の彼だった。
犀星の笑顔を見た者は少ないが、東雨の素顔を知る者は、誰もいないかもしれない。
丁寧に馬たちの世話をし、東雨は屋敷に戻った。火鉢に火を入れ、部屋を温める。二人が帰ってきたらすぐに夕食の支度だろう。その前に湯を沸かそう。
今日はいつもより冷えるから、温まってから眠った方が良い。外の釜に薪を組み、いつでも湯殿を使える用意を整える。
準備が終わった頃、犀星と玲陽が話をしながら屋敷に戻ってきた。
二人の姿をちらりと見て、東雨は自分の心が、すっと裏返ったのを感じた。こうやって、心の裏表を使い分けて、自分はどうにか自分自身を保っている。東雨という人間を壊してしまわないように。そこまでして守るだけのものが残されているのだろうか。
東雨は、考え始めると何も手につかなくなる。急いで仕事を見つけなければならない。
厨房で玲陽が料理をする間、東雨は屋敷の一部屋にこもった。
そこは、犀星のために作られた衣装部屋である。
東雨のほかに、そこに出入りする者はいない。
そっと、棚の一番下に置いてある箱を見た。小さな、薄い茶色の木箱だ。東雨は、そっと箱の縁を撫でた。
蓋を開けると、懐かしい匂いが香った。箱の中には、整頓された木簡がおさまっていた。犀星が都に来てから毎日のように書いた、玲陽への文だった。
東雨は、大切そうに、一番上の一枚を手に取った。
『陽へ』
書き出しはいつもこの名から始まる。そして、日々の何気ない事柄が淡々とつづられ、最後には日付とそして一言、『星』の文字がある。
犀星はいつもこれを東雨に託した。自分はそれを投函するふりをして、ここにため込んでいた。
犀星が故郷とかわす内容を、知るためだった。また、犀星の筆跡を真似て、偽書も作れるようになるためでもあった。
気になる内容のもの、珍しい文字が使われたものだけを残し、あとはこっそり、燃やしてしまった。
しかし、いつしか、東雨はそれらを、手放せなくなっていた。
見つかれば致命的な証拠となってしまう。だというのに、今でもこうして数枚、隠し持っている。
東雨は初めから、犀星を裏切り続けていた。いや、裏切るという言葉は的確ではないかもしれない。騙していたと言う方が正しい。東雨にはその道しかなかった。
犀星はもう、自分に気づいているかもしれない。それでも何も言わず、変わらずにそばに置いてくれる。
……いや、その保証はもうないんだ。
自分の代わりは玲陽が務める。
一緒に買い物に行くのも、料理を作るのも、部屋の支度を整えるのも、五亨庵での仕事も、その何もかもを、玲陽は自分よりもうまくやれる。そして自分のできないことまで、彼はできる。
東雨の価値は、玲陽によって完全に失われた。
宝順帝は言った。
お前の居場所がなくなると。
あれは嘘でも脅しでもない。本当のことだ。自身がこんなにもそれを思い知っているではないか。
引き下がるべきなのか。何もせずに、このままいなくなったほうが良いのか。
だが、ここを去るには、東雨は、あまりに犀星を思い過ぎた。
ならば、本当に、玲陽と犀星を壊すのか。
そんなことをして、本当に自分は望むものを手に入れられるのか。
一度、手を染めたら、二度とは戻れない。
懐深くに抱き続ける短刀が、東雨にその現実を突きつけていた。
苦しくて、息ができない。
文を胸に抱きしめて、東雨は目を閉じた。
……さよならを、言わなければいけないのだろうか……
不安と混乱ばかりが心を支配し、涙さえ、流れることはなかった。
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