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13 道を探して(1)

 その日、珍しく犀星の屋敷は、慌しかった。  歌仙から、大量の玲陽の荷物が届いたのである。  荷物ははるばる馬車で運ばれ、市場近くの邸店に預けられた。知らせを受けて店まで行ったが、東雨は首を捻った。あまりに、多すぎる。ひとつひとつ運んでいては、一日では終わりそうもない。玲陽も、申し訳なさそうな顔で立ち尽くしている。  犀星が落ち着いて荷を確認し、店の中に声をかけた。 「すまないが、荷車を貸してもらえませんか?」 「若様、親王自ら、荷車を引くつもりですか?」 「だめか?」 「だめです!」  いくら犀星が良くても、東雨には考えられない。 「それなら、おまえが引け。俺が押すから」 「同じことです!」  泣き出しそうな東雨に、犀星は驚いた顔をしながら、それでも、小さく笑った。 「では、どうしたらいい?」 「え?」  東雨は一瞬黙った。それから、これしかないでしょう、と、 「俺が引きますから、ついてきてください」  汗をかきながら東雨が引く荷車をこっそりと押しながら、犀星と玲陽は笑顔を見合わせた。  こうして三人で過ごすことが、あまりに心地よかった。  玲陽を迎えた二ヶ月前からは、信じられないほどに、全てが肌に馴染んでいた。  雪の轍に苦労しながら、荷車はどうにか進んだ。  はずむ白い息も、滑りそうになる足元の氷も、何もかもが輝くようなひと時だった。  こうして、昼過ぎには、木箱や布袋がいくつも、玄関に近い応接室に積み上げられた。  箱を開け、袋の紐を解く。荷物のいくつかには、犀家を表す刀の家紋と、玲家を表す炎の家紋とが刻まれていた。  まるで、犀家の家人達と玲家の玲芳とが競い合って贈り物を届けさせたようだ。  荷物の中には、どう考えても過保護すぎると思われるものが数多くあった。  何着もの着物から始まり、履物、帯、手作りの綿入りの足袋、数種類の香り袋、刺繍が入った寝具が一式、携帯型の銅製の鏡と櫛、髪紐、暖を取るための温石。  それに加え、干し柿や栗などの保存食、玲芳が自ら書いた養生をすすめる注意書きの書もある。さらに、玲家で使われていたと思われる古文書や護符までが、ぎっしりと詰められていた。  玲陽が事前に頼んでいた治水に関わる書物は、隅の方に小さく肩身が狭そうに添えられていた。  玲凛からは、二本の簪が同封されていた。月と星をかたどったもので、それぞれ、玲陽と犀星に宛てられていた。 「これは……」  東雨は部屋を埋め尽くす荷物に、呆然とした。  運び入れただけで、どっと疲れた。  どうします? と、玲陽を見上げる。  玲陽も、どうしましょう、という顔で東雨を見る。  犀星は黙って荷物に近づくと、食料品だけを寄り分けた。 「厨房に持っていく」  と、早足に部屋を出て行った。  逃げましたね。  玲陽と東雨はため息をついた。  仕方がなく、二人は仕分けを始めた。  母親とは、これほどに世話をやくものなのか。  ひとつひとつの品に、玲陽への思いが込められている。東雨は滲むような羨ましさを感じた。  自分は誰かに、こんなに大切にされたことなどない。  優しい色合いに縫い上げられた着物を畳む、東雨の指先が震えていた。  片付けなければならない荷物の多さよりも、別の何かが辛かった。  あらかた片付け、今日はこれまで、と見切りをつけた午後。  東雨はしっかりと綿入りの袍を着込み、回廊に座った。そして、脇に布を広げ、その上に、刀を整えるための道具を並べた。  懐から短刀を取り出す。  布で表面をしっかりと拭き、それからそっと、鞘を外す。  口金の鳴る音は、東雨に不思議な安心感を与えてくれる。  冬の日差しに刀身をかざすと、波紋が美しく浮かぶ。それを眺めているだけで、心は静かに安らいでゆく。  傷みがないことを確かめ、麻布で刀身を拭う。優しく、少しずつ重ねるように、丁寧な手つきである。  刃は薄く鋭く、刃こぼれの様子はない。  羽毛刷を使って、荏胡麻油をほんの少し取り、刃に伸ばす。光にかざし、薄く均等に広がるように、慎重に、刃の表を撫でる。背や峰にも抜かりなく油を塗る。刀をそっと布の上に置き、次に鞘を手に取る。  木の芯に布を貼った棒で、鞘の中を丁寧に掃除する。冬場は乾燥するため、鞘のひび割れを防ぐよう、少しだけ油を添える。  このやり方は、小さい頃に犀星から教わったものだ。  侍童として、東雨には武芸を身につける必要はなかった。だが、犀星がすることに何でも興味を持った東雨は、自分からせがんで、剣術も道具の手入れも学んだ。  残念ながら、剣の腕前は上達しなかった。だが、こうして刀を美しく整える腕前は、相当なものである。  もともと、気性が優しい東雨には、こちらの方が向いていたのだろう。  だが、運命は皮肉を好んだ。  この刀で、東雨は人を一人、殺している。  彼が刀を整えるのは、その罪を心に刻むためだ。  どうか、二度とこの刃が血に染まることがないように。  ……白々しい  と、自嘲する。  一度染めてしまった手は二度と元には戻らない。それでも自分はまだ、何かにすがろうとしている。  自分が犯した罪は、決して忘れられない。それは、本人に知られることもなく、犀星のために振るった刃だった。  たとえ、犀星が許したとしても、自分には許せない相手がいた。  生かしておけば、いずれまた、犀星を苦しめることになる。誰かが斬らねばならないのなら、それは自分をおいて他にはいなかった。  ……いいんだ、これで。  そう割り切ろうとしても、どこかに寂しさが残った。  東雨は刀を鞘に収めると懐に戻した。  部屋の奥で、聞き慣れない音がしたのはその時だった。  冬の冴えた空気が、ピンと張った音を伝えてくる。玲陽の部屋からだ。  東雨は回廊を渡って部屋の前に立つと、そっと声をかけた。 「光理様」  音が途切れ、 「どうぞ」  玲陽の声が招き入れる。  東雨は細く板戸を開け、中に体を滑り込ませた。室内の暖かさが逃げないうちに、すぐに閉める。  明かり取りから差し込む柔らかい光が、部屋を満たしている。  玲陽は部屋の真ん中に座り、膝の前に七弦の琴を置いていた。玲家から届けられたものの一つだ。 「懐かしくて、つい鳴らしていました」 「琴なんて、この屋敷で聞いたのは初めてです」  東雨は、玲陽の正面に座った。 「若様は全然こういうこと、してくれないから……」 と、犀星の思い出を口にする。玲陽は小首をかしげる。 「兄様は、琴が弾けるはずなのですが」 「習っていたんですか?」 「はい。犀家に上手な方がいらして」 「そうでしたか」  心の中に寂しい風が吹く。  自分の知らない犀星を、玲陽が語る度に、胸がざわついた。  東雨は、琴の盤面を覗き込んだ。  琴は、昔、実際に玲陽が使用していたものだ。  胴体は、全体的に赤みを帯びた木でできている。年月が経っているせいか、艶が増して、光に当たると部分的に琥珀がかった色味に見える。それは玲陽の瞳のようだった。  表面の板は、なめらかな漆仕上げで、かすかに繊細な刷毛の目が残されている。よく練習をしたらしく、一部摩耗した部分もあったが、そこは漆が重ねられて補修が施されていた。  左右の側面には、細い黄色の線で流れるような唐草紋がある。  胴に張られた糸は絹だろうか。乳白色の優しい色合いだ。金具にはうっすらと「陽」の一文字が彫られている。  琴を包んでいた紅花染めの布が、玲陽の隣に丁寧に畳まれて置かれていた。 「懐かしいです。すっかり忘れていました」  玲陽は糸を撫でた。その糸よりも白い玲陽の指が、わずかに音を鳴らす。 「何か弾いてみてください」  東雨は明るく言った。  玲陽は困ったように、 「もう十年も弾いてないんですよ」 「構いません。途中まででもいいですから」  東雨の目はまっすぐだ。玲陽はこのキラキラとする黒い目に弱い。 「わかりました。間違えても笑わないでくださいね」 「平気です。間違えたかどうかも、わからないので」  東雨はいつもの調子で、玲陽を励ました。この笑顔に、玲陽はどれだけ救われて来ただろうか。 「では」  と、玲陽は両手を糸の上に添えた。その仕草さえ綺麗だと、東雨は思った。真剣な瞳に長いまつげが震える。  玲陽の指が、そっと糸をはじき始めた。  目の前で玲陽が生み出す一音一音が、東雨の心を静かに叩く。  抑えていた感情が少しずつほぐされて、音と一緒にぽろぽろと冬の明かりの中に散っていく気がした。  玲陽は目を伏せたまま、丁寧に琴を弾く。指の動きがなめらかで、優しく撫でているようだ。  目を閉じ、東雨はその音にすべてを預けた。こうしていると、自分がここにいて自然な気がしてくる。自分も、音になりたい。そうしたら、この場所にずっといても、きっと誰にも咎められることはないだろう。  東雨はまぶたの裏に、熱いものが滲んでくるのを感じた。目を開けたらこぼれてしまう。そう思ってより強く目を閉じる。  音とともに時が過ぎ、優しいぬくもりが魂を包んでいく。  こんなにも自分を癒す人を、傷つけなければ、居場所を守れないというのか。  そこまでして、生きていたいか……  突然、短く音が切れた。  東雨は目を開けた。玲陽が左手を見つめていた。  東雨はとっさに、玲陽の左手を両手で包んだ。それはあまりにもわずかな間の出来事で、東雨も玲陽も一瞬、理解が遅れた。 「ごめんなさい……左手、痛いですよね」  そう言って、そっと手のひらで温める。  玲陽の手は、東雨よりも少し冷えていて、柔らかかった。 「急に使ったから、手がびっくりしたみたいです」  玲陽は、安心させるように微笑んだ。 「冷えると古傷が痛みますよね。俺も右足が痛むのでわかります」 「東雨どの、怪我を?」  心配そうに、玲陽が形の良い眉を寄せた。 「昔々のお話です。ちょっと転んで」  小さな、嘘をついた。  東雨の怪我は事故ではない。  教育という名目で、何人もの男に強姦された。そのとき、乱暴に扱われて足を痛めた。それは、誰にも話せない記憶だった。 「大丈夫ですか」  玲陽が、心配そうに覗き込んでくる。  二人の手は重なっている。顔も近づく。東雨は目が離せず、息を止めた。玲陽の目が、ためらうように揺れる。  思わず、東雨は握る手に力を込めた。痛みを感じ、玲陽の顔がわずかに歪んだ。  東雨は、はっとして手を離した。

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