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13 道を探して(2)
「ごめんなさい……」
「いいえ、平気です」
玲陽は首を振って、なおも東雨のことを心配そうに見守る。
東雨は耐えられなかった。
この人を傷つけ、犀星を傷つけ、何が得られるというのか。
皇帝が言ったことなど、まやかしだ。
そう、思いたかった。
これ以上は、心が持たなくなりそうで、東雨は思いを振り払うように立ち上がった。
「ありがとうございました。無理を言ってごめんなさい」
部屋を出ようとした東雨に、玲陽が呼びかける。
東雨は立ち止まっただけで、振り向くことができなかった。
玲陽の切ない声が、背中から聞こえた。
「春になって暖かくなったら……痛みも和らぎます。そうしたら……その時、また、聞いてもらえますか?」
東雨は両手で袖を握った。
春。
そのころ、自分は役目を果たせずに殺されているか。
それとも、果たしてしまって、玲陽がこの世にいないか。
どちらにしても、ふたりが並んで春を迎えることはない。
……そんな時は、来ない。
「約束、します」
心で叫び、東雨は口元に笑みを浮かべていた。
それから、少し声を低めた。
「光理様は、約束を破ったことありますか」
自分でも、どうしてそんなことを尋ねたのかわからなかったが、自然と、言葉が口をついた。
「ありますよ」
清らかに響く声が答えた。
東雨は少し意外そうに目元を動かした。
「私は、大切な人との約束を、破ったことがあります」
その声には、まっすぐに向き合った者だけが語ることのできる、強さがあった。
「でも」
と、玲陽は続けた。
「兄様が約束を破ったことは、一度もありません」
その声は誇らしかった。
「もし、どうしても守りたい約束があるのなら、その約束の守り方、兄様に聞いてみてください」
東雨は声を出したら崩れてしまいそうで、ひとつ頷いて、そのまま部屋を後にした。
玲陽の気配が遠のいても、心は少し暖かかった。
回廊に、荷物を出しっぱなしにしていたことを思い出して、東雨は遠回りをして元いた場所に戻った。
そこには今、犀星が座っていた。
先程の自分と同じように陽の光に刀を掲げ、丁寧に整えている。東雨に気づいて、犀星はわずかに笑った。
「すまない。並んでいたから、そのまま使わせてもらった」
東雨の表情が、かすかに揺れた。
「構いません」
と、犀星の隣に座る。じんわりとぬくもりが伝わる、わずかな距離。こんな近くに座ったのは、いつ以来だろう。
犀星はじっと刀を見て、どこか覚悟のある眼差しを向けている。
どこまでも深い蒼色の目は、昔と変わることなく澄んでいた。
「人を、斬ったことがある」
突然、犀星が言った。
どきりとして、東雨はその横顔を見た。変わらずに美しかった。どこか儚げで寂しく、けれど、その目元には、いつも強い意志がある。
「大切な人を傷つけられた。だから斬った。後悔はない」
犀星の声は、東雨の心の深いところを震わせた。
同じ、罪。
東雨は奥歯を噛んだ。
犀星が語ったのは、彼の罪か、自分の罪か。
「それでも……重いものだな」
そう言って、犀星は静かに、東雨を見た。
若様、知っている?
そんなはずはない。死体は見つかったが、犯人はわからないままに処理されたはずだ。
けれど……
東雨は、そっと、自分の手を見た。
あなたのために、俺は……
「……はい。後悔はしていません」
思わずそんな言葉が出た。
「でも、重たいです」
それきり二人は黙った。
東雨は自分の罪をはっきりとは言わない。けれど、犀星には見透かされているのかもしれない。いや、むしろ、そうであって欲しかった。せめて、犀星にだけは、自分がしたことを、その想いを、知っていて欲しい。
犀星が刀を鞘に収める音がした。手際よく道具を片付け、立ち上がる。
「これから、時間はあるか?」
「え?」
「市場に行かないか?」
東雨は驚いて、犀星を見上げる。
「どうした?」
「買い物なら光理様と行けばいいじゃないですか……」
東雨は、思わず犀星を試すような、意地の悪いことを言ってしまった。
「陽は、荷物の片付けがある」
気にしていない、と言うように犀星が首を振った。
「それとも、俺と出かけるのは嫌になったか?」
「え?」
「そうだな。俺はケチだから」
と、笑う。
「そんなこと言ってないです」
東雨は少し拗ねた。
「でも……」
「うん?」
「今までずっと三十文で頑張ってきたのに、光理様が来てからすぐに五百文なんて……今までの俺の努力が何だったのかなって……」
するすると、東雨の口から本音が出てくる。
犀星が少しだけ腰をかがめて、東雨の顔を見た。まるで小さな時のように。
東雨の頬が赤くなる。
犀星は、ただ微笑んでいる。
「行こう。暗くなる前に」
「……はい!」
意地など、張る必要はなかった。
犀星が自分を見て、自分を選んでくれたのだ。
心のどこかに、玲陽の手が空かないから仕方がなくなのか、と、卑屈になる自分がいる。それでも、断る理由にはならない。
東雨は急いで犀星の部屋から外出用の長袍を持ってくると、そっとつま先立ちして肩にかけた。
違和感がある。
「背が伸びたな」
犀星が言った。
「背伸びをしなくても届くだろ」
「あ……」
いつの間に、こんなに近くなったんだろう。
改めて、その目線の近さに驚いてしまう。心を覗かれているようで、少し照れくさかった。
「行こう」
サッと翻った犀星の背中を追って、東雨は踏み出した。
揃って屋敷を出て、大通りまでゆっくりと歩く。
二人きりで出かけるなんて、本当にしばらくなかったな。
東雨は記憶を辿った。
歌仙に行く前、犀星が体調を崩したころからこちら、覚えがなかった。
それまで当たり前だと思っていた時間は、今、東雨にとって本当に大切で手放しがたいものになっていた。
犀星と並んで歩く。肩が近く、目線も揃う。
いつの間に、近づいたのだろう。
何度も、東雨は犀星の横顔を見てしまう。見上げていた顔が、すぐそばにある。それがくすぐったく、だが、たまらなく嬉しかった。
冬空は鉛色に澱み、いつ雪が降り出してもおかしくない雰囲気だった。それでも東雨の心は浮き立っていた。
石畳の中央通りに一歩出ると、途端に賑わいが強くなる。ちょうど午後の買い物時の時刻で、大勢が出歩いている。通りに沿って、店々の棚には色とりどりの商品が並んでいた。
商人たちの呼び声が、あちらこちらから、少し枯れて聞こえてきた。
東雨はわざと息をはぁっと吐く。白く煙るのが楽しい。犀星を見ると、やはり柔らかな白い霧が口元に漂う。息遣いが目に見える季節は、少し特別な気がする。
荷車を引いた行商人たちが、小さな炉で手を温めながら、道行く人に声をかけている。車の荷台には、掘り出してきたばかりの野菜が山積みになっていた。今年最後の収穫だろう。
「大根はもうしばらくいらないです」
と、東雨が言う。
「そうだな」
と、犀星が応じる。
たったそれだけのやりとり。
だが、ふたりだけのやりとりだ。
寒空に、東雨の頬はほんのりと赤くなり、手をこすりながら、それでも笑顔である。
周囲は賑やかでも、二人の間にはほのかに暖かい空気が流れている。
どこからともなく漂ってくる、煮物や揚げ物の匂い。近づくと、ふわりと香る甘い菓子の匂い。東雨の目が、つい、そちらに引き寄せられる。
小さい頃に一度だけ買ってもらった、杏の蜜漬けに目がいく。
あれは確か、腹を下して安珠のところに泊まりがけで世話になった時だった。
犀星が、寂しがる自分のために、差し入れてくれたのだ。
腹を壊しているのに、食べ物を持ってくるとは、と安珠は呆れていた。しかし、その時に犀星が言った言葉を、東雨は今でも覚えていた。
『これを食べたくて、治すはずだから、最良の薬だ』
あの頃から、犀星は、人とは少し違っていた。そんな主人が頼もしく、ひそかに憧れていた。
「欲しいのか?」
すっかり蜜漬けに釘付けになっている東雨に、犀星が短く聞いた。
東雨は一瞬、黙ってから、
「……いいえ」
と首を横に振った。
本当は欲しい。
けれど、わがままを言えば、この素晴らしい時間が終わりになってしまうようで、黙っていた。
ふたりは、何を買うということもなく、市場をうろついた。
気になるものを見つけては、短く言葉を交わす。
犀星とのやりとりは相変わらずそっけない。それでも、自分にだけ向けられる言葉は特別で、とても重たく嬉しい。
目の先に、色鮮やかな紐を扱う店が見えてきた。
東雨は、ちらっと犀星の髪を見た。その不思議な色合いの髪に、白い紐がしっかりと結ばれている。犀星が淡い色を好きだということを東雨はよく知っている。
店の前で、東雨は少し足を緩める。気づいて、犀星が立ち止まってくれた。色鮮やかな紐の間を、東雨の目線が行ったり来たりする。
東雨は、ふっとつぶやいた。
「光理様なら、きっとこんな色が似合います」
そう言って落ち着いたえんじ色を指さす。
「陽のことはいい」
犀星が予想外の反応を見せた。東雨は思わず振り返った。じっと犀星の目が自分を見ている。
「お前は、どれがいい?」
東雨は声が出なかった。
……いいの?
思わず、顔が緩んだ。
犀星が、自分に何かを買い与えるなど、それこそ、杏の一件以来ではないだろうか。
犀星は、わずかに照れた、優しい笑みをしている。東雨は完全に崩れた笑顔で、美しく吊り下げられている紐を見た。
犀星にすぐ隣で見守られていると思うだけで、心臓が高鳴った。
だが、東雨の顔は、徐々に、こわばっていった。
自分が、どんな色の髪紐が好きかなど、考えたこともなかった……
いつも、犀星なら何が好きか、そんなことばかりで、自分を見つめることをしなくなっていた。いつからそうなってしまったのか、覚えてはいない。綺麗な色はいくつもあるが、どれを選んで良いのか、わからなかった。
途方にくれた東雨の顔を見て、犀星は一本の紐を手に取った。深い緑色で、幅広く織られた艶のある品である。両端が房になっており、柔らかい手触りだ。
「お前の髪に映えると思う」
犀星はそっと、東雨の束ねた髪に紐をかざした。
東雨は目をきょろきょろと動かして、どう答えていいか困っている。
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