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13 道を探して(3)

「いいえ!」  激しく首を振って 
「……考えたことがなくて…自分の好きな色なんて……」  と戸惑う。 「では、試してみろ」  そう言って、犀星はその紐を買い求め、その場で東雨の髪に結んでくれた。  東雨は、顔が真っ赤に上気しているのを感じた。眉間のあたりが熱い。  礼を言うこともできず、ただ犀星の顔を見つめる。  犀星は普通の微笑みよりも、少し大きく笑ってくれた。それにつられて、東雨もにっこりと笑ってしまった。  なんだかそのまま、飛び跳ねたい気分だ。  買い物に出たといっても、何か目的があったわけではない。  こうして街の空気を直に感じるのは、犀星にとっては当たり前のことだった。  昔から、東雨と二人で、よくこうやって市場を歩いた。あちらこちらで人に呼び止められ、世間話をし、政治の文句を聞いた日が、遠く懐かしかった。  寂しさを感じて、東雨は半歩先をゆく犀星を目で追う。背は近づいても、心が遠のいたようで不安だった。  勇気を出したら、触れてしまえるのに!  東雨は、揺れる犀星の袖を見た。  もし、光理様なら、迷わない……  そう思って、手を伸ばす。  指先が袖をかすめたとき、道の向こうから、鋭い叫び声が聞こえた。  それは人の声ではなかった。  犀星がちらりと東雨を見た。東雨はうなずいて声のした方に駆け出した。  このようなとき、犀星は必ずその場を確かめる。暁隊や三番隊よりも頼りになると東雨は思う。  声の主はすぐにわかった。  魚の干物がぶら下げられている店の前で、竹で組まれた籠の中に、一匹の汚れた猫が閉じ込められていた。当然、売り物ではない。その場にあった鶏の籠を使い、捕まえたらしい。  周りの人だかりから声が聞こえてくる。 「また店を荒らしたんだね」 「昨日もだ」 「どうするんだ、あの猫?」  東雨はそんな声を聞きながら、じっと猫の様子を見た。ずいぶんと痩せている。ネズミも捕れていないのだろう。それで店の魚を狙ったに違いない。  ネズミを取れなくなった猫は、まるで役に立たなくなった自分と同じ……  東雨は猫から、目が離せなかった。  猫は気が立っていて、必死に檻の中で暴れ、盛んに声を上げている。それは東雨が知っている猫の声ではなく、赤ん坊の鳴き声のような、長く粘りついて、胸に残る音だった。  猫は逃げようとして、何度も籠に体をぶつける。籠は古く、竹がささくれ立っている。棘が刺さって体が傷つき、毛皮に血が滲んでいた。 「そんなに暴れないで……」  思わず、東雨はつぶやいていた。犀星がちら、と東雨を見たが、猫に夢中で気づかない。  猫は牙を剥き出し、籠を揺らして転げ回る。  何人かがそっと近づいた。 「よければ私、引き取りましょうか?」  と、年配の女性が一歩前に出る。だが、猫は威嚇の声を上げてなおも暴れる。籠ががたがたと揺れる。 「俺も……」  また一人、男性が近づいた。それでも猫は怒ったままだ。  助けようと伸ばされる手に噛み付こうとする猫は、どこか、自分に似ている気がした。  猫は決して強くはない。  けれど、怖れるばかりで、周りが見えていない。  暖かい手は差し伸べられているのに、自らそれを傷つけようとする。  自由を求めて足掻いてもがくほどに、自分で自分を痛めつける……  東雨はいつしか、体が震えていた。  その時、 「うるせえなぁっ!」  怒鳴り声とともに、一人の大柄な男が籠に近づき、乱暴に足で蹴飛ばした。  籠ごと転がって、猫は少し先で、ふん、と唸ってうずくまる。 「何するんだよ!」  東雨は、飛び出した。  男は酔っ払っている。しかも体格が良く、東雨がどうにかできる相手ではない。  あっという間に襟首をつかまれ、吊るし上げられる。足をばたつかせたが、浮かされて抵抗のしようがなかった。それでも東雨は精一杯、男を睨みつけた。 「怖がってるだけじゃないか!」  精一杯、東雨は叫んだ。喉にわずかに、血の味を感じた。  男は酒臭い息を東雨に吐きかけた。  殴られるか、投げられるか。  東雨が覚悟したその時……  東雨を掴み上げる男の手首に、すっと犀星が指をかけた。反対の腕が、東雨の体を抱えるようにして後ろから支える。  東雨の目の前で、犀星の手が男の手首を硬く締め上げる音がした。 「うちの東雨が、何か?」  静かな犀星の声は、ただそれだけで男の肝を冷やした。 「いや……」  怖気付いて、男が手を離す。東雨は犀星の片腕に支えられて、静かに下に降ろされた。  犀星はただじっと男を見るだけだ。それだけで、男は二、三歩後ずさり、そのままふっと息を吐いて、通りの向こうへと逃げ去っていく。見守っていた人々から、ワッと歓声があがった。  さすがは歌仙さまだ、と声がかかる。だが、それは、東雨にはどこか遠かった。 「大丈夫か」  犀星はそっと東雨の体を探った。 「はい…」  上ずった声で、東雨は答えた。まだ、体が震えている。  思わず犀星の二の腕を掴む。食い込むほどに、東雨は強く握った。そうすると少しだけ怖さが遠のく。じんわりと手のひらに伝わってくる犀星の熱が、胸の鼓動を鎮めてくれる。  いつだってこの人は、俺のこと……  東雨は俯くようにして、犀星に倒れ込んだ。昔は胸に顔を埋めた。今では肩に額があたる。その変化が、東雨を驚かせた。  しばらく犀星はじっとして、東雨のするに任せてくれた。  ややあって、東雨はそっと手の力を抜き、下ろした。  冷たいものがさらりと頬に触れる。東雨は空を見た。  世界の音が吸い込まれていくように、しんしんと雪が降り始める。  犀星は黙って、東雨の乱れた襟を指先で直した。一瞬、胸元に直接指が触れて、東雨はその感触に体を強ばらせた。 「すまない」  小さく犀星が言い、 「いいえ」  短く東雨が答える。そんな他愛のないやりとり。  東雨は、犀星の後ろに転がっていた猫を見た。籠の中で、猫はうずくまったままだ。犀星も東雨の視線を追うように振り返った。そして何を思ったか、そっと東雨の背中に手を当てた。 「心配ない。あの猫は強いから」  その声、その言葉。  東雨は途端に泣き出してしまった。  歌仙様が東雨を泣かせた、と、市場の人々がなぜか楽しそうに囃し立てた。犀星は気まずさで顔を歪め、そっと、東雨の頭を撫でた。だが、東雨の涙は余計に止まらなくなった。  屋敷に戻り、その日が暮れる。  東雨は泣き止んでもなお興奮が残り、気持ちが浮ついていた。  どうにも落ち着かない。  犀星と過ごした市場での一部始終が、鮮やかに東雨のまわりを巡っていた。  その光景の中に、答えがありそうな気がした。  この半月、ずっと自分が苦しみながら、探し求めていた真実が、隠されているはずだった。  もう少しで見えそうなのに、その『少し』が足りない。  そんなことを思いながら、夜着に着替えようとして、東雨は手を止めた。  襟を、緩めることができなかった。  小さな油灯の明かりの中で、襟元に目を落とす。きちんと合わさったそれは、犀星が整えてくれたものだ。  髪に手をやれば、滑らかな髪紐が優しく触れた。  どうしよう……  真剣に、東雨は困ってしまい、しばらくぼんやり立っていた。そして、やがて心を決めて部屋を出た。  まっすぐ、犀星のもとへ。  もう、休んでいるだろうか。  玲陽と寄り添う姿を見たくはなかったが、直接、話がしたかった。 「若様?」  遠慮がちに、部屋の外から声をかけた。 「どうした?」  あっけないほど簡単に、犀星の声が返ってきた。そして、犀星の方から、東雨のそばへ、歩み寄ってくる。東雨は不思議な気持ちで待っていた。  犀星は手にしていた灯籠を足元に置いた。 「あの」  東雨は、無意識に玲陽の姿を探した。 「陽なら、いない」 「え?」 「今日は、新月だから」  ああ、と、東雨は思い出した。  新月には、玲陽はその特殊な力のため、身体がぼんやりと光るのだという。その姿を見られるのを嫌って、ひとりで部屋に閉じこもるのだ。 「あの、若様」  東雨は視線を彷徨わせながら、 「ちょっと、困ってしまって」  と、ためらいがちに、 「あの、ですね」 「うん」 「……これ、ほどいてもらえませんか?」  と、頭を垂れる。  犀星の肩が少し下がった。 「……気に入らなかったか?」 「違うんです」  東雨は首を振った。 「自分で、ほどけないんです」 「え?」 「もったいなくて……」 「……そうか」  犀星の反応が、やや、遅れた。声が、かすかに笑っていた。東雨はホッとした。  犀星の手が髪を撫でるように、動いて、紐が擦れる優しい音がした。丁寧に紐を束ね、東雨に差し出す。そっと、東雨は受け取る形で手を出した。犀星はしっかりとその手に紐を預け、指を添えて握らせてくれた。 「あの……」  と、東雨がまた、何かを言おうとした。 「いつでも、結えてやるから」  ぴくっと東雨は震え、見開いた目で犀星を見た。 「どうして……」 「わかる、それくらいは」  と、やんわりと笑う。  東雨はまた泣きそうになりながら、それでも、どうにか堪えた。 「それじゃ、ついでに……」  東雨は真顔で、 「襟も、緩めてください」 「……東雨!」  犀星の戸惑った声に、東雨はにっこりと笑った。  東雨は、髪紐を両手で胸に抱いた。 「若様」  と、静かに呼ぶ。 「ひとつ、教えて欲しいんです」 「ああ」  犀星は、声を落ち着けてうなずいた。 「約束を破りたくないときは、どうしたらいいですか?」 「……はじめから、しないことだ」 「もう、しちゃったんです」  と、東雨は言った。 「難しい約束なんです。でも、守りたいんです」  犀星は息をついて、少し考えた。それから、東雨の前に膝をついた。灯籠のあかりで、犀星の顔がはっきりと見える。 「それなら……」  と、犀星は優しく笑みを浮かべた。東雨の頬が、赤く染まった。 「決して、忘れないことだ」 「……忘れないこと?」 「ああ」  東雨は、吸い込まれるような犀星の瞳を見つめた。  たったひとつの約束を、十年の間、心に秘めて、守り通した犀星の言葉は、信じるに値する。 「わかりました」  東雨は目を細めてうなずいた。  月のないその夜に、東雨は自分の道標となる|星《ほし》を、その胸に深く刻んだ。

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