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14 雪が降った日(1)
本格的な冬がやってきた。
東雨は、綿の入った袍を着込み、その上から肩掛けを羽織った。足袋には裏に毛皮を張ったものを選び、しっかりと寒さに備えて外に出た
都には昨夜、雪が降り続いていた。
明け方、雲は遠のき、日の光が満ちる冬空は、一段と澄んでいる。あたりは一面真っ白になり、反射した朝日が世界を照らしている。こういう日は、どこもかしこも眩しい。
ツンと鼻に冷たく刺さる、心地よい空気を、胸いっぱいに吸い込む。
「寒い……」
細く、玲陽がつぶやくのが聞こえた。
「冬は、寒いものです」
東雨は、髪をなびかせて振り返った。
「一年中暖かい歌仙が、どうかしてるんですよ」
思わず犀星は微笑し、玲陽は身震いする。
東雨の高く結えた黒い髪には、緑の紐が光っている。にっこりと幸せそうに微笑む。
今まで、こんな笑顔をしただろうか?
犀星は少し不思議に思った。そして、ふと、見とれてしまった。
その横顔を玲陽がそっと覗いている。
今は何も言わないでおこう。
そんな、優しい笑みを浮かべながら。
東雨は雪に一歩ずつ、しっかりと足跡を残していく。キュキュッと音が鳴る。格別に冷え込む日にだけ、雪はこんな音を立てる。東雨は、この音が好きだ。
「今日は、歩いて行きませんか?」
犀星は頷いて、門の外にいた暁隊の兵に馬を任せた。
そっと東雨の隣に立つ。二人が並ぶ姿に、玲陽の顔が自然とほころぶ。
素敵な朝ですね……寒すぎますけど……
玲陽は手を擦り合わせた。
朱雀門は、新しい雪を頂いて、鮮やかな赤色を冬の空に際立たせていた。色の薄い青空は、氷でできているかのように透明だった。
「そういえば」
玲陽が思い出したように尋ねた。
「兄様って確か|蒼氷《あお》の親王、と呼ばれていませんでした?」
犀星が黙って振り返る。東雨は頷いた。
「それ、時々言われますね」
玲陽は何かに思いをはせながら、
「不思議な呼び方ですよね。とても綺麗です」
「そうなんです。実は、俺も気に入っているんですよ」
東雨は少しウキウキしながら、
「若様の表情が硬くって、氷みたいに冷たいって誰かが言い出したんです。でも、普通の氷じゃなくて、すごく澄んで美しい宝石みたいだから、蒼氷、って」
「さすが、宮中は優雅ですね。まるで詩の言葉みたいです」
と、玲陽は感心した。
「詩がお好きですか?」
「はい、とても」
東雨は、思いついたように、
「それなら、今日、秘府に行って、何か詩集を探してきましょうか?」
「いいんですか?」
玲陽が目を輝かせる。
「はい。俺も、ちょっと興味があって……」
東雨は少し照れて自分の髪を触った。犀星は何も言わず、東雨の仕草を観察している。
「俺、綺麗なものは好きですが、詩は、難しくてよくわからないんです」
東雨は、残念だ、という顔をする。今日はよく表情が変わるな、と犀星は思った
「でも、光理様が説明してくれたら、きっと、綺麗さがわかると思うんです。光理様、俺に教えるのが上手ですから」
東雨は少しいたずらっぽく、
「若様は、情緒とか、まるでダメなので、参考にならないんです」
玲陽は、ふっと笑った。
「わかりました。詩は、兄様より得意です」
と、東雨の期待に応えてやる気を見せる。
犀星は特に反論はせず、その間ずっと、表情を緩ませていた。
東雨は五亨庵につくと、犀星と玲陽を門まで送り、そのまま中央区の秘府へ向かった。
五亨庵の勤務体制は至って緩い。今日は慈圓が休みを願い出ており、緑権一人である。
ここでは、仕事が滞らない限り、何をしていても自由である。犀星は実利主義で、結果が出ればそれでいいと思っている。官吏は慈圓と緑権の二人しかいない。完全に気心が知れた仲であるのも、のんびりとした雰囲気を助長していた。
犀星と玲陽が着いた時、緑権は炉の前にしゃがみ込んで、必死に薪と格闘していた。
「どうした?」
犀星が声をかけた。緑権は、驚いた顔で振り返った。
緑権が、犀星の言動に毎回動揺するのには理由がある。玲陽が来る前、犀星は自分から誰かに話しかけるということが、ほとんどなかった。十年勤めている緑権ですら、数えるほどだ。それなのに、最近は日に何度も呼ばれる。
「|火口《ほぐち》にうまく、つけられなくて」
緑権は手にしていた火打石と打ち金を見せた。床にはばらばらに解けた火口の破片が散らばり、苦戦の様子がうかがえた。
犀星が手を伸ばすと、緑権は体をかがめて石を差し出した。緑権の手には、真新しい擦り傷がいくつもついている。
「謀児様、手当てをしましょう」
傷を見て、玲陽は緑権を中央の長榻へと連れて行く。五亨庵に常備している薬箱から軟膏を取り出し、自らそっと塗ってやる。その間、緑権はそわそわと落ち着かず、耳まで真っ赤にして目を潤ませていた。
「今日は、朝から良い日です!」
緑権が緊張した顔で笑った。玲陽は静かに傷に布をあてながら、
「怪我をしたのに、良い日ってことはないでしょう」
「いいえ、素晴らしいです!」
緑権の『素晴らしい』理由が、玲陽にはわかっていない。
犀星は無表情で、その様子を横目に見た。
それから、炉に目を戻す。
玲陽は誰に対しても優しい。それはわかっていたことなのだが、玲陽と緑権が、こうして互いに手をとって、傷の手当てをしている姿を見るとは。
複雑だな……
嫉妬してどうする、と、自戒がよぎる。
玲陽のこととなると、冷静ではいられない自分の性格は、いつまでも変わらない。
犀星は気を取り直して、散らばっていた藁を集め、より直し、石の上に置いた。打ち金で火花を散らす。二度目で火が移り、藁に小さく火が灯る。その火を細い棒に移し取り、炉の中の薪に火をつける。
犀星の手際はいい。火の扱いは、誤れば大惨事に繋がる。自然と注意深くなり、上達する。
火の勢いが安定し、薪が音を立てて、燃え始めた。
犀星は備品庫から新しい薪の束を取り出して、炉の隣に置いた。
宮中に打ち捨てられていた古い家が、こうして役に立っている。
今回の家屋の解体によって犀星が得たものは、大きく二つだ。
一つは屋内や屋外で利用できる大量の薪である。物価の高騰が懸念される中、少しでも燃料代を抑えることができれば、それは生活の安定に直結する。薪は主に宮中で使用される予定だが、一部は民間にも流れる。だが、闇雲に配れば良いということではない。民間の流通量が増えすぎると、本来の薪業者の売り上げは落ちる。彼らの生活のことも考え、その量はある程度調整しなくてはならない。そこが難しいところだ。
そして、もう一つ。宮中における名声である。
犀星にとっては副産物に過ぎないのだが、今後の政治的な動きの中で、その果たす効果は大きい。誰も手をつけなかった古い建築物の撤去と更地化、宮中の外観の整備は、燃料確保のついでとはいえ、大きな成果だった。
犀星の今まで政策は、すべてこのようなものである。実を取り、結果として名声がついてくる。
目の前で揺れる炎は、自分が成したことの結果である。だが、その裏には、慈圓や緑権、涼景や右近衛、暁隊の存在がある。
皆の思いが、炎になった。
このぬくもりは皆の心だ、と犀星は思った。
近づきすぎれば、焼ける。遠すぎれば、凍える。炎との距離は、人との距離に似ている。
犀星は今朝の東雨と玲陽のやりとりを思い出した。
『逼近すれば灼け、遠避すれば寒し。炎の距離は、人の間に似たり』
俺にだって、詩的な感覚くらいはある……
真顔で考え、内心、こっそりと満足していた。
「兄様」
斜め上から、玲陽の声が降ってきた。
「ぼうっとしてないでください。裾、焼けますよ」
犀星は詩作に没頭するあまり、長袍の裾が、炉のぎりぎりまで迫っていたことに気づかなかった。
玲陽はそっと手を伸ばして、その熱を帯びた裾をよけた。犀星は決まりが悪く、顔をそらした。
玲陽は犀星の傍にしゃがみ、火に手をかざす。そのとき、揺れる炎の間に何か見えた。
「あれ、なんでしょう」
玲陽は炉の中を指差した。
犀星は振り返った。犀星の位置からはよく見えなかったため、少し体をずらすように見せて、玲陽を抱える。玲陽はその腕に逆らわなかった。
絶対にわざとですよね……
慈圓がいなくてよかった、と玲陽は思った。
炎の下に、まだ火がついていない薪がある。犀星は覗き込んだ。
木材の表面に、黒い焦げ跡がついているのが見えた。
玲陽がそっと耳打ちする。
「薪に何か書かれてるみたいですね。燃やしちゃってもよかったんでしょうか」
「廃材だから、元の家の壁かなにかの……」
と言いかけて、犀星は目を見張った。
今まさに火が燃え移ろうとしているその薪には、忘れもしない、あの焼印と同じ模様が、黒々と浮かび上がっていた。
思わず、犀星は炎に手を伸ばした。
「あぶない!」
玲陽は犀星の腰を引いて、後ろに倒れた。
その瞬間、ガタンと薪が崩れて、犀星が目指していたその薪が炎に呑まれた。
「なにごとですか!」
後ろから、緑権が駆け寄ってきた。
犀星は青ざめた顔で振り返った。動揺がありありと浮かんでいる。
その顔に、緑権がたじろぎ、
「私、何か、しでかしましたか?」
泣きそうな声を上げた。
犀星は動揺を抑えられぬまま、火に目を戻した。
「この薪は?」
「それは、この前、仙水様が持ってきてくれたものですけど……もしかして、使ったらだめでしたか?」
緑権は心配でたまらないという顔で、立ち尽くしている。
犀星は黙って、必死に考えを巡らせた。
薪は、宮中の家屋を解体したものだ。つまり、焼印はもともと、家屋の建材に押されていたことになる。その家屋の持ち主は、焼印の一件と無関係ではないはずだ。
玲陽を巻き込みたくない。少なくとも、状況がはっきりするまでは……
犀星から押し殺した殺気を感じ、玲陽は震えた。
「兄様?」
勢いよく犀星は立ち上がり、内扉に向かう。
「待ってください!」
「涼景に会いに行く。陽、おまえはここにいるんだ」
「でも……」
「いいな!」
珍しく、鋭い感情を見せた犀星に、玲陽は何も言えなかった。
犀星は急いで五亨庵を出た。控えていた近衛が犀星を追いかけていく声が聞こえた。
嵐が去ったように、その場にしばらく、火の燃える音が響いた。
「あの……」
耐えかねたように、緑権は玲陽を見た。その顔は、すでに土気色にまで色褪せていた。
「大丈夫でしょうか……私、何か悪いこと……」
「謀児様は、悪くないですよ」
玲陽は、自分も動揺しているのを感じたが、こらえて笑った。
「謀児様は、ただ火を焚こうとしただけですし。それに、実際に火をつけたのは兄様ですし。何かあったのなら、悪いのは兄様です」
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