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14 雪が降った日(2)

 と、玲陽はなだめるのがうまい。緑権は少しだけ肩を落ち着けて、 「……そうですよね!」  と、切り替えて笑った。緑権は、落ち込む時も忘れる時も、早かった。  気持ちを鎮めようと、玲陽は炉の前にかがんで、薪をつついた。少し継ぎ足し、そこに炭も加える。長く、ゆっくりと燃やし、五亨庵を温める。  駆け出していった犀星のことが、気がかりでならない。  犀星は、よほどのことがない限り、自分を置いていくことはしない。それは、ここにいるべき、という指示だ。そして、来てはならない、という意味でもある。  遠慮でもなければ拒絶でもない。  それがわかっているからこそ、玲陽は黙ってこの場にとどまる。どれほど、心が揺れようとも。  やっぱり、あの薪が原因だろうか。  玲陽は、すでに焦げてしまった薪の模様を思い出した。文字のように見えたが、よくわからなかった。  もしかして、他にも……  玲陽は、脇に積まれていた薪の荒縄を解き、一本ずつ丁寧に調べた。だが、先ほどのような模様は見つけられなかった。  几帳面に薪を積み直し、玲陽はまた、火を眺めた。  犀星があれほど取り乱す理由は、ひとつしか考えられない。  それは、玲陽自身に関わること。  何を、隠しているんですか……?  玲陽は目を細めた。  犀星は知られたくないことがあると、簡単には口を割らない。その意思は頑なで、玲陽でさえ、崩すことは難しかった。  時が来たら、きっと、話してくれますよね。  心を落ち着けると、玲陽は静かに立ち上がった。  一番、炉に近い位置に、玲陽の席が用意されている。ちょうど慈圓の向かい側で、右の斜め先に犀星の机がある。もともとは、犀星が目的に合わせて使用する補助席だと聞いていた。  嘘だ……  玲陽は気づいていた。ここが初めから、自分を迎えるための場所であったことに。  それは、先日、落とした筆を探して、几案の下に身をかがめた時だった。  天板の裏の隅に、小さな布が、護符のように貼ってあった。布は古く掠れていたが、小さな文字で、『星藍』の名があった。  人が見ても、意味はわからなかっただろう。  それがわかるのは、犀星と玲陽の二人だけだ。  『星藍』は、字とともに、犀星が玲陽に送った『真名(まな)』であった。  自分の本当の名を知られると、それを悪用され、呪いをかけられるという思想がある。  玲家に属する犀星と玲陽にとって、それは決して縁の遠い話ではなかった。言霊を大切にする玲家では、明らかにする名前の他に『真名』を持つのは通例だった。  本来、その名を人に知らせることはない。だが、やはり、というべきか、犀星と玲陽の間には秘密がない。  犀星は、玲陽がここに座る日を祈り、その名を隠したに違いなかった。その想いに気づいた時、玲陽は思わず唇を噛んで涙を堪えた。  ……そうだ!  ふと、ひらめきが降りてくる。いたずらな笑みを、唇に浮かべる。  玲陽は、席を離れると、犀星の几案の裏を覗いた。そこには、何もない。  周りを見渡し、それから、自分の着物を見る。緑権の視線を避けて、襦袢の裾を引き出す。小刀で端を少し切り取る。そこに、丁寧に『犀星の真名』を書く。炉のそばで、火鉢の湯でにかわを溶かし、布に塗って、天板の裏にこっそりと貼り付けた。 「何をしてるんです?」  犀星の几案の下から顔を出した玲陽を見て、緑権が首を傾げた。 「あ、ちょっと、探し物を……」 「探し物……? ああ、王印ならここですよ」  緑権が、足元の毛氈の下から犀星の印を取り出した。前にも同じことがあった気がする。 「どうして、そこにあるんですか?」  玲陽はあきれた。 「返すの忘れてて……」  緑権が、平気です、というように笑った。  五亨庵の物品管理体制には、問題があるようだ。  玲陽は、自分の席に戻ると、先日から読み進めている、宮中の記録を開いた。  そこには、軍隊の仕組みや、今までの成立の経緯、歴代の官職についた者たちの名前や功績など、実に細かく記載されている。  玲陽は丁寧に、それらを記憶していった。  だが、さすがに量が多い。しかも、十年間、まともに書に触れることがなかった玲陽にとっては、久しぶりに見る情報の洪水である。  クラクラする……  休み休み、ゆっくりと指でたどる。 「あの、謀児様?」  玲陽は少し疲れた顔を上げた。緑権は、寒さをしのぐために、肩掛けと褥にくるまり、押しつぶされるようにして座っている。 「宮中の人たちは、このようなこと、全部覚えているのですか?」  玲陽は竹簡を軽く持ち上げて尋ねた。 「私、もう、頭の中がいっぱいです」 「ああ、私はほとんど、入ってません」  あっけらかん、と緑権が笑った。 「全部覚えてる、なんて人は、玄草様くらいじゃないですか? あの人、それが趣味みたいなものですから」 「覚えなくても、どうにかなりますかね?」  玲陽には、少し諦めが見える。 「必要な時に調べればいいんですよ」  緑権は、胸を張った。 「それに、普段は伯華様と玄草様がどうにかしてくれるので!」  緑権のいさぎよい態度が、玲陽には羨ましかった。  昔から、何事にも完璧を目指してしまう玲陽の性格は、こういうとき自分を追い詰める。わかっているはずなのに、なかなか直らなかった。 「知っていて悪いことはないのでしょうけれど……」  と、再び竹簡に目を落とす。  三年前の記述に、犀星の名があった。途端に興味が湧く。 「皇帝の命を受けて、北方民族との和平調停に貢献……? 兄様、こんなこともしていたんですか?」 「ああ、千義の侵略のときですね」  緑権が思い出しながら、 「あの時は大変だったんですよ」  緑権は、その時に自分がどれだけ苦労したか、ということも交えながら、状況を説明してくれた。  二人が会話に夢中になっている間に、人知れず、五亨庵には異変が起きていた。  ゆらゆらと炎をあげる炉の中から、細い黒い糸のような線が伸び、宙を漂い始めた。それはいつまでも消えることはなく、見えない手に紡がれるように、空中に集まりゆく。数本の黒い糸はより合い、太く、はっきりと形を現す。やがて、まるでとぐろを巻く蛇のように、空中に静止する。人の頭ほどの大きさがある。左右に大きく鎌首を揺らし、緑権と玲陽を見比べる動きを見せる。  ふたりは気づかず、話し続けていた。 「……まぁ、悪い条件が重なったんですよ」  緑権が言った。 「亡くなられたのは事故だって聞きましたけど、本当はどうだったのかなぁ……」 「出世のために、人を殺せるものなのでしょうか……私には、十分な動機とは思えません」 「光理様なら、そんなことは考えられないですよね。でも、宮中って怖いところなんです」  まるで、自分が命を狙われている、と言わんばかりに、緑権は身震いする。 「正直、同情しますよ……」  玲陽は無言で息をついた。この類の話は、本当に気持ちが暗くなる。  その時だった。玲陽の視界を一瞬、黒いものがすっと横切った。  ……気のせい?  体の左側にざわっと嫌な気配が走る。それは、しばらく遠ざかっていた感覚だ。  玲陽は緑権から炉の方へ、視線を動かした。 「え?」  空中に、本来あるはずのないものを見て、視線が戻る。  玲陽の目に、明らかな恐怖が走った。  蛇の形をした黒いものが、宙に浮かんでいる。  そして、それはするすると空中を滑って、瞬く間に緑権の元に這い寄っていく。  傀儡だ!  玲陽は狼狽した。  どうしてここに……?  五亨庵の中は結界になっており、外から何かが入り込むことは、考えられないのだ。  まさか、内部で……? いや、それより……!  玲陽の様子が変わったことに気づいて、緑権も蛇を振り返った。その顔から、一瞬で血の気が引く。黒い蛇を指差し、ぱくぱくと口を開けるが、声はでない。 「口を閉じて!」  玲陽が叫んだ。一瞬遅れて、緑権は手で塞いだ。  だが、黒い蛇は容赦なく、その指をこじ開け、口の中に体を捩じ込んだ。波打ちながら、喉へと潜り込んでゆく。  玲陽は全身に汗が吹き出した。  緑権のもとに走り、黒い塊に手をかざしたが、すり抜けるだけだ。取り憑いた傀儡を体に移し、浄化することはできても、取り憑く前にはなす術がない。  声をかけながら、緑権を両腕でかかえ、倒れて怪我をしないように床に下ろした。  緑権には何が起きているかわからない。ただ、息ができない。目を見開き、喉を引っ掻く。玲陽はその手を首から外して押さえつけた。床に組み敷き、緑権に馬乗りになる。黒い蛇が緑権の体の中にすっぽりと入り、腹のあたりでゆっくりと動くのが伝わってきた。  すでに緑権は白目を向いていて、意識がない。  玲陽は一瞬、周囲を見回した。  誰もいない……見られずに済む!  迷いはなかった。  緑権の口に、しっかりと自分の唇を当て、舌を差し入れる。舌先に、かすかに傀儡の気配がある。  ……喰らう!  玲陽は、数ヶ月ぶりに傀儡をその体に取り込んだ。  緑権の体に馴染んでいなかったのか、それはあっさりと咽喉を遡って、自分の中に入ってくる。  それと同時に、早くも体は痛み始めていた。何年もの間、彼が味わってきた浄化の痛みだ。  あと一息というところで、唇を離した。そして、天井を仰ぐ。緑権から玲陽へ。黒い塊が弧を描き、空中で一瞬もがくように波打って、口の中へと吸い込まれていく。  玲陽は口を閉じ、両手で押さえた。気を失ったままの緑権を残し、必死に這いずって、広間の中央に向かう。中央部分は、最も結界の力が強い。  長榻にしがみつき、中から突き破ろうとする傀儡を押さえ込む。  いくつもの刃で内臓を切り裂かれていくような感覚がある。さらに、その傷口を引き千切る力が、全身をさいなむ。  腹から始まった痛みは、胸、手足、背中へと広がり、最後は脳髄にまで、鈍く突き刺さる。  手足を縮め、自分を奮い立たせる。じっと堪える。呻きが何度も指の間からこぼれる。見開いた目に涙が浮かぶ。  ……まさか、また、こんな思いをすることになるなんて……  のたうちながら、必死に耐え続ける。  時間だけが玲陽の味方だ。  やりすごしてみせる……!  傀儡を浄化するには、膨大な精神力と魂の力を消費する。  それは彼の体力を奪い、気力を奪う。  呼吸が苦しくなり、脱力する。思考が鈍り、何も感じなくなる。  少しずつ痛みがひき、それに伴って意識は混濁し、最後は闇に沈んだ。  五亨庵の空気は、壮絶な玲陽の記憶の余韻を含んで、しばらくの間、かすかに震えていた。  東雨は秘府でいくつもの詩集を見た。  内容を読んでも、よくわからない。どれを選ぶべきかの基準もない。  仕方なく、中身ではなく装丁で決めることにした。

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