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14 雪が降った日(3)

 赤く綺麗な絹の帯で包まれた竹簡と、古いが手触りのよい麻で縛られた竹簡の二巻を見比べる。  東雨の身分では、一度に借りられるのは一巻までだ。  若様なら、きっと麻の方を選ぶだろう。  と、東雨は思った。  でも、俺なら……  と、考え直す。  俺なら、どっちがいい?  東雨は素直に、綺麗なものが好きだ。自然と赤い絹のほうに目が行く。そして考える。  そうだ。きっと俺はこっちの方が好きだ。けれど……  と、さらに深く考えた  それはうわべだ。本当の俺は……  不意に、記憶が蘇ってきた。  子供の頃、犀星が自分の古い着物を仕立てなおして、襦袢を作ってくれたことがあった。幼かった東雨は、古着を嫌った。けれど、使い込まれた麻布は柔らかく肌に触れ、絹の冷たさよりも東雨を温めてくれた。  自然と、彼は赤い竹簡を棚に戻した。  俺は、こっちがいい。  犀星が選ぶからではない。自分が選びたいからだ。  貸出台に持ってゆき、帳簿に丁寧に記名する。  名前を書きながら、ふと、手が止まった。  書きかけの『東雨』の文字を見つめる。  これは、誰の名前だった?  突然に、そんな奇妙なことが頭に浮かんだ。  自分じゃない。  東雨は思った。  これは、皇帝の駒として歌仙親王にあてがわれた侍童の名前だ。  いや、名前ですらない……ただの記号だ。  犀星と玲陽が、字を交わし合ったという話が思い出された。  俺も、名前が、欲しかったな……  彼は、夢のようなことを考えた。  ぼんやりしていると、貸出台の役人に睨まれた。東雨は照れ笑いをして、続きを書いた。  大切に竹簡を抱いて、秘府を出る。  思ったより時間がかかってしまった。  雪道を急ぎ、五亨庵に向かう。気温が上がってきたせいで、雪を踏んでも音はしない。  軽く息を弾ませながら、東雨は駆けた。行きすぎる人や馬も、どこか遠い世界のように感じた。  走りながら、東雨は空を見た。青い空に白い太陽が柔らかく輝いている。明るくて見えなかったが、そのそばには、二日の細い月があるはずだ。  東雨はいく先に視線を戻した。その顔は少し、引き締まったように思われた。  次の満月までだ。  東雨は自分に言い聞かせた。  次の満月まで……  その日が来たら、自分は皇帝に殺される。  命令に逆らった罪で、体を裂かれる。  それでもいい。  東雨は、思い切り走った。  わずか、半月でもいい。自分として生きようと決めた。それでいい。それが、いい。  涙がこぼれたが、拭わなかった。  力一杯に東雨は駆け抜け、五亨庵の小道に入った。  息を整えながら、ゆっくりと歩く。  袖で顔をこすり、深呼吸をする。  門まで来て、東雨は不思議そうに辺りを見回した。詰所の中にいるはずの近衛がいなかった。犀星と一緒に出かけたのだろうか。  詰所を抜けて、内扉の前に立ち、  「戻りました」  礼儀正しく挨拶して、扉に手をかける。開けようとして、何かおかしいことに気づく。いつもよりも扉が重く感じられる。体重をかけてゆっくりと扉を開いた。  「今、戻りました……!」  東雨は何が起きているのか理解できず、数瞬、立ち尽くした。  扉の中の景色が歪んでいた。  ゆっくりと、後ろをふりかえる。外の景色は普通に見える。自分の目がおかしくなったわけではないようだ。  もう一度、五亨庵の広間を見る。そこはまるで、水の中で目を開けたときのようにぼやけて、わずかに揺れるようだった。  「なに、これ……?」  見たこともない景色に、東雨は愕然とした。  詩集をそっと榻に置き、それから意を決して腕を伸ばす。広間の内側の空気に手が触れる。  それはほんのりと暖かかった。他に変わったところはない。  ぎゅっと目を閉じ、息を止めて、思い切って顔を中に突っ込んだ。何も感じなかった。  そっと目を開く。景色はぼやけたままだ。  恐る恐る息を吸ってみる。かすかに抵抗があったが、息はできる。いつも通りに呼吸しようとすると、空気が胸につかえて苦しくなる。浅く、ゆっくりと息をする。  これならいける。  東雨は思い切って足を踏み出した。  慣れている五亨庵が、まるで別の世界に見える。すべてのものが輪郭を失い、色の滲みのようだ。  音もない。  欄間から入ってくる光で室内はしっかりと明るい。空気も暖かい。なのに、この景色は明らかに異常だ。  犀星が出かけていたとしても、玲陽と緑権はいるはずだった。  「光理様!」  東雨は思い切って声を出した。息が深く吸えないために、大きな声にはならない。自分が発した声は、わんわんと響いて、空間に反響する。  「謀児様!」  その声も同じように響いたが、やはり、返事はなかった。  東雨はさらに一歩、足を進めた。  ゆっくりと周りを見る。最初に目に入ったのは、炉の炎だ。動いている。  火が燃えているということは、誰かがいるはずだった。犀星は、無人にするときには必ず火を消すようにと言いつけている。  「光理様……」  もう一度呼ぶ。玲陽の席に人影はない。犀星の席にも緑権の席にも、座っているような影は見られなかった。炎だけが揺らめいている。  東雨は、水の中を歩くように、ゆっくりとした動きで進んだ。  何歩か歩いて、さらに奇妙なことに気づいた。東雨の髪が、ゆっくりと前の方に流れていた。それは、肌で感じることのできない風に、流されているようだ。  こちらへおいで、と呼ばれている気がした。東雨はその流れを追いかけた。流れは五亨庵の中心へと向かっている。  足元もぼやけていて、石畳に降りるのが怖かった。少しずつ、靴底をこすりつけながら段を降りる。  石畳の先には、平らで柔らかな毛氈が敷かれ、長榻が二つに、長い几案が一つあるはずだ。  記憶を頼りに景色を探る。色の滲みが広がっているだけだが、なんとなく、正しいように思えた。  そのとき、想像していなかったものが目に入った。  やはりぼんやりと歪んでいるが、長榻に寄りかかるようにして、人が倒れている。細かいところまでは見えない。黒っぽい着物を着て、頭のあたりに金色の滲みがあった。 「光理様……!」  東雨は急いで玲陽のもとへ進んだ。体を早く動かすと息が上がる。たくさんの空気を一度には吸い込めない。  苦しい胸を抱えて、玲陽のそばにゆっくりと膝をつく。四つん這いで、這うようにしながら、さらに近づく。  ぼやけたままで、玲陽の顔はわからない。  手を伸ばして、肩のあたりに触れる。確かに布の感触があった。  乱れた髪の間に、白い首が見えた。  耳の奥で、シュシュッと何かが擦れる音がした。それはささやきのようでもあった。何を言っているのかわからないが、確かに東雨に話しかけているようだ。  その音がするたびに、東雨の心から、ひとつずつ、何かが消えていった。  東雨の額に汗が浮いた。  大切なものが、次々と奪われていくのがわかった。  嫌だ……  恐怖を感じた。  なくしたくない!  抜き取られるのは、記憶か、思い出か、感情か。  掠れた音が繰り返し響く。  少しずつ、だが、確実に東雨の瞳が光を失っていく。  やがて、心はからっぽになった。  無表情のまま、右手を玲陽の喉にかける。柔らかく、暖かい。外の寒さで凍えた指先が、そのぬくもりに溶かされていく。手のひらに、喉に走る血管の脈打つ感触が伝わってくる。  東雨はさらに左手を伸ばした。両手で包み込むように玲陽の首を掴む。それは細く、東雨の手でもすっぽりと覆うことができる。親指の腹が、喉の中心に当たる。そっと撫でる。軽く押す。血管がピクッと跳ねて、脈が乱れる。  両手の指に、少しずつ力を加えて、ゆっくりと締め付けていく。伝わる脈動が少しずつ弱まり、筋肉が小刻みに震えるのがわかった。  それにともなって、少しずつ視界がはっきりとしてくる。徐々に輪郭が戻り、にじみが消え、いつもの景色が帰ってくる。  玲陽の命が弱るにつれて、何かが戻ってくるのを感じた。  心の中に、ひとつ、また、ひとつ。  犀星との思い出。懐かしい日の記憶。見つめた時の愛しさ、見つめられた時の喜び。並んで立てることの誇らしい気持ち。  俺を、取り戻すことができる!  このまま、自分を、取り戻すことが……このまま、このまま……  遠くから、鐘の音一つ、高く響いた。  東雨ははっとして我に返って、手を離した。  同時に玲陽が激しく咳き込んだ。体をよじったが、まだ動けないようだった。  東雨はぐっしょりと汗をかいていた。心臓が胸から飛び出しそうなほど、速く打った。全身がしびれて、ひどく頭がぼんやりとしていた。  玲陽が苦しい息をして、少しずつ体を起こした。長い髪が顔にかかり、表情が読めない。その横顔がこちらを向くのを、東雨は怯えながら待っていた。自分がしてしまったことを許せず、叫び出したくなる。座り込み、震えながら、玲陽の姿をひたすらに見つめていた。  玲陽は肩でゆっくりと息をしながら、顔を上げた。乱れた金色の髪が、頬にかかっている。歪んだ目元に一束、細い髪の筋が垂れていた。  「東雨……どの……」  かすれた声が、そう、呼んだ。  「生きてた……!」  思わず、東雨は叫んだ。 「光理様!」  何が起きたかわからない、という顔で、玲陽は飛びついてきた東雨を抱き止めた。 「あの……」 「よかった! よかったぁ!」  襟を乱すほどに玲陽にすがって、東雨は顔を擦り付けた。玲陽はすっかり困惑している。それでも、東雨が今、素顔でいるということだけは、疑う余地はなかった。 「東雨どの」  思い切り、玲陽は東雨を抱きしめた。東雨の腕が玲陽の身体を抱き返す。 「ごめんなさい、ごめんなさい!」  東雨は泣きながら、しゃくりあげた。 「俺、光理様のこと……」  玲陽は自然と、東雨の頭を肩に押さえつけた。 「何も、言わなくていいですから」  薄れた意識の中で、玲陽は自分に起きていたことを、察したのだろう。そして、今、泣きじゃくる東雨が、そこに確信を与えた。 「もう、何も言わないで……」  玲陽の腕は、その繊細な印象を裏切って、力強かった。  絶対に、なくさない。  東雨は、玲陽の温もりと匂いに包まれて、そう誓った。  たとえ、体を失ったとしても、心だけは……  ガタン! と、激しい音に続き、何かがばたばたと床に落ちた。  二人は同時に体を離し、音を振り返った。ビシッと空気に緊張が走る。 「寝坊した!」  几案をひっくり返して飛び起きた緑権が、焦った顔で、そこに突っ立っていた。

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