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つばくらめの夢(4)
その鮮烈な光景は、涼景の繊細な感性を、徐々にむしばんでいった。そしてそれこそ、宝順が涼景に感じた悦楽の一つであった。
宝順はよく、嬌声と悲鳴の中で、涼景に話しかけた。
それは兵士の訓練のことであったり、遠方の地域の情勢であったりと、目の前の濡れ場とは全く関係のない話だ。
涼景は静かに、その問いかけに答えた。
年齢を重ねるにつれ、涼景も無心ではいられない。
あからさまな声と情景に、体の反応を抑えられなくなっていく。
それでもなお、動くことはできなかった。それどころか、いついかなる問いを宝順が発するかわからない。答えられるだけの冷静さが、涼景には求められた。
繰り返されるその時間は、緩やかな調教であった。
涼景の若い体に、嫌が応にも生理的に湧き起こるもの。その欲望をねじ伏せる冷たい意志。
心と体が分離する異常な状態に、涼景は慣らされていった。
次第と、艶姿を前にしても涼景の表情は凍りついた。体はたぎり、容 を変えたが、眉ひとつ動かすことはなかった。宝順はそれを、満足そうに眺めた。
宝順帝は、支配欲においては、明らかに狂っていた。あらゆる手段を用い、人の尊厳を粉砕して、自分の手の中に置く。
そうして、そこから逃れようとする者がいれば、容赦なく斬る。
執着があるようで、意にそぐわぬとなれば、どこまでも冷酷だった。
優れたものであればあるほど、宝順から逃れることはできなかった。
宝順は、涼景の妹を人質にとった。
逆らえば、歌仙の屋敷で静かに暮らす、病弱な妹は、身に耐えられぬ責苦を受けることになる。
妹を守るため、また、慈圓や蓮章、自分を慕ってくれる暁隊の者たちを守るために、涼景は理不尽を感じながらも、宝順に仕える以外にはなかった。
やがて自分もまた、いつか、彼の前で嬌声をあげることになるのかもしれない。
その日を恐れながら、しかし、心の奥底には奇妙な期待と好奇心が、蠢くのを感じた。
涼景は、目を背けたい肉欲のうずきを振り払うように、剣術に没頭し、正気を保つように自分から目を背けた。
かたわらの蓮章には、日々、命を削るように生きる涼景の姿が痛々しく、狂おしかった。誰かのために、全てを投げ打つ涼景は、死にたがっているようにさえ見えた。
蓮章は何度も涼景と衝突し、一歩も引かずに救い上げようと手を伸ばしたが、涼景がその手を掴むことはなかった。
自分につながる人々を守りたいという涼景の純情とは裏腹に、涼景の周りには、彼を使って欲を満たそうとする者も多くいた。
中でも、里親となっていた燕孟念 の暗躍は、涼景の運命を狂わせた。
涼景が十六歳を迎えた頃。
すでに、剣術の腕も周囲に敵う者なく、将来は近衛隊長に、との話が持ち上がりはじめた時期。
孟念は、あわよくば涼景をきっかけに、自らもその後見として権力を握ろうと企てた。
この企みは、涼景本人の知らないところで密かに進められ、宮中には不穏な動きが見え始めていた。
まず、涼景と並ぶ可能性のある者、出自の高い者、左相の縁者たちの不祥事が、次々と捏造されては、処分の対象となった。孟念に協力し、自分もその一派に加わろうとした者たちは、裏工作に明け暮れた。
没落し、消えてゆく運命であった燕家が手に入れた、千載一遇の好機である。逃すわけにはいかなかった。
何も知らない涼景は、ただ、最近頻発する帝への不義に閉口し、宮中で何かが起きている気配を察しながら、まさか、その黒幕が自分の育ての親とは、露とも思ってはいなかった。
ある夜。
いつもと変わらず、帝の命令で天輝殿を訪れた涼景は、普段より警備の目が多いことに気づいた。
今日の『客』が特別なのか、それとも、宝順をおびやかす情報でもあるのか。考えを巡らせながら、涼景は天輝殿の広い階段を上がった。
警備に立っている近衛兵が、ちらっと涼景を見ては、かすかに笑う。その雰囲気に、涼景は胸騒ぎを覚えた。
何かある。
三〇〇年の間、改築と増築、修繕を重ねて維持されてきた、広大な皇帝の御所、天輝殿。
その歴史は、多くの血と欲望に支えられた暗さも内包している。
静かなはずの廊下の奥から、ささやくように声が聞こえる気がした。
涼景は違和感を抱きつつ、謁見室のさらに奥へ向かった。
静かに佇む、石の間。
宝順が、嗜好を目的として拷問するとき、この、閉ざされた空間が舞台となった。名を聞くだけで、誰もが眉をひそめる場所だ。容易に開かない、分銅の下がった重たい木の扉の他は、全てが四角く切り出した巨石で組み上げられていた。
壁には篝火を設置する窪みがいくつもあり、天井付近の換気の窓は最小限にくり抜かれていた。油灯の皿と、香炉台が石の隙間から等間隔に突き出ている。壁沿いに大きな瓶がいくつも置かれ、部屋を使用する際には新しい水が満たされた。
床は、あえて磨かず、ざらついた岩肌がそのままにされていた。床全体が、入り口に向けてゆるやかなみ傾いている。いく筋かの溝が掘られ、扉の下から、室外に水が流れ出す仕掛けである。
涼景は今まで、幾度となく、この床に水を撒き、穢れを洗い流した。
今夜もまた、惨劇が繰り返されるのか。
醒めた心と、引き締まった表情のまま、涼景は石の間の前に立った。
細く開いた扉の向こうに、多くの人間の息遣いが感じられた。
石の間に招かれるのは、大抵、十名に満たない。だが、今夜は様子がおかしい。
涼景の表情がピクリと動いた。
目を伏せ、涼景は一歩、踏み込んだ。
いつもの上座に、すでに宝順が座っていた。その左右には、武装した禁軍の兵士数名が、じっと涼景を見据えていた。
だが、涼景を驚かせたのは、彼らではなかった。
部屋の中には、手足を縛り上げられた男たちが二十余名、うなだれたり、気を失った状態で放置されていた。端にいた一人が、涼景を振り返った。
「涼、逃げろ!」
蓮章だった。集められていたのは涼景の私兵、暁隊の者たちだ。
「構うな、逃げろ!」
蓮章の声に涼景が狼狽えたとき、背中を誰かに蹴り飛ばされた。勢いで前に転がる。扉が無情な轟きを立てて閉ざされた。
「陛下、これは!」
涼景は足早に宝順に歩み寄った。
上座にゆったりと座った宝順は、微笑を浮かべた。
「そう、急ぐな」
宝順の声には、すでに勝者の余裕と、これから繰り広げられる惨劇への期待がありありと滲んでいた。
涼景は状況が理解できないまま、蓮章を見た。殴られたのだろうか、目元に真新しいアザがあった。ゾクっと、涼景の体に力が入った。
「これは、何事ですか」
感情を殺しつつ、涼景は宝順に背を向けたまま、声を発した。
「この者たちが、何をしたというのです。縄をお解き下さい」
「そう、声をあげずとも良い」
宝順はいつものゆっくりとした口調で、涼景の背中を丁寧に見た。
「彼らは、何もしてはおらぬ。罪人ではないゆえ、すぐに自由にしてやる」
「一体、どういうことです?」
涼景は冷静になろうと努めた。ここで自分が騒いだところで、状況は改善されまい。
呼吸をととのえ、宝順に向き直る。
「その様子では、本当にそなたは何も知らぬようだな」
宝順が手を上げて合図すると、部屋の奥の小部屋から、禁軍の兵が一人、姿を見せた。その手には、ひとつの首が下げられていた。
恐怖に目を見開いた、孟念の首だった。
兵士はそれを無造作に、動けずにいる涼景の前に置いた。
「刀をお預かり致します」
兵士は、呆然と立ち尽くす涼景の腰から、刀を鞘ごと取り去ると、部屋の奥へ下がった。
宝順のそばに並ぶ禁軍の兵たちが、一歩近づき、涼景を包囲する。
「お前の里親に、間違いないな」
変わり果てた孟念の姿を見つめたまま、涼景は乾いた宝順の声を聞いた。
「はい……たし……かに……」
世話になった男の首を前に、涼景は悪夢の中を彷徨っていた。逃げ場はどこにもない。
「そやつが、そなたを使って、私腹を肥やそうとしていたのでな」
「そんな……」
「朕が目をかけていた者たちも、何かと煩わされた。それゆえ、こうして首だけになってもらった」
呆然と膝をついた涼景に、宝順は、微笑みかけた。
「そなたに罪はない。むしろ、そなたを利用しようとしたそやつに、そなた自身が罰を与えるべきところ」
涼景の思考が、スッと冷える。
動揺し、冷静さを欠くことは命取りだ。
孟念を殺した宝順が、自分や、蓮章たちに何をするか、想像もつかなかった。
あくまで、逆らわず。
涼景は頷いた。
「……縁ある者が、陛下のご意志に背いたこと、嘆かわしく存じます。しかし、かような者なれども、恩を受けたこともまた事実でございます。この手で罰することなど、人の道にはずれるというもの」
涼景は、儒学者の息子である。人と人の礼節には、ことに敏感だった。当然、宝順はそれを知った上で、涼景の心に最も刺さる策を用意していた。
「いや、罰せねばならぬ。これは儒の道にあらず。朕の命令である」
逆らうことのできない、その一言が、涼景の首を絞めた。
緩やかに、宝順の唇が弧を描いた。
「その首の、口を使え」
瞬間、その場にいた全員が息を飲んだ。
「なんと……おっしゃられたのか……」
涼景が声を震わせた。宝順はあくまで穏やかだった。
「その首を犯せ」
「!」
「さすれば、ここにいる全員、すぐにでも解放しようぞ」
「なっ……」
涼景の顔から血の気が引いた。
宝順が、やれと言ったからには、それはいかなることでもすべて、現実になった。
この石の間は、悪夢が形を持つ異界だ。
逆らうことはできる。ただし、それは命と引き換えの一度きりに抵抗だ。
「できぬ、か、涼景?」
名を呼ばれて、涼景の身体が硬直する。宝順は本気だ。冗談や脅しで言っているわけではない。
「そなたも男であろう? それとも、朕が知らぬうちに宦官になったか?」
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