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つばくらめの夢(5)

「…………」  これほど、哀れに震える涼景を、部下たちは初めて見た。  どのような戦況下でも勇猛果敢に戦う彼が、敵を恐れたことは一度もない。暁隊の隊士たちにとって、涼景は命を預けられる信頼に足る人物だった。  だからこそ、彼がよからぬことに巻き込まれることが無いよう、心からの敬意を持って仕えてきたのだ。  自分達が守り、自分達を守ってくれた涼景への、あまりに非道な仕打ちに、部下の何人かは堪えきれず、泣きながら頭を垂れた。  すすり泣きや、悔しげなうめきを上げる同胞の中で、蓮章は静かに成り行きを見守っていた。  体の奥で震える魂は、涼景の身体の震えと共鳴する。必死に殺した感情が、一筋、涙となって、灰色の左の目から溢れた。ぽたり、ぽたり、と石の床に落ちる。それはとめどなく、時を数えるように続く。  声も立てず、表情も変えず、ただ、涙を流すだけの蓮章を、涼景が振り返ることはなかった。  涼景自身、生まれて初めて、どうして良いかわからない状況に立たされ、困惑したまま、見開かれた孟念の首を見つめた。  孟念の罪が真実なら、宝順が斬首としたことも納得がいく。だが、それ以上の仕打ちは、必要ない。  ……これは、俺に対する圧だ。 ​ 帝をないがしろにするとどうなるか、将来、自分が自分の意思で、孟念と同じことをせぬよう、思い知らせるための……  ここまでするのか!  涼景の胸に、宝順への怒りと憎悪が湧き上がる。  だが、それは同時に、自分自身にも向いた。  今まで、涼景は宝順の隣で、泣いて命乞いし、助けを求めながら傷ついていった者たちを、どれほど、見殺してきただろう。  彼らの嘆きを聞き、体の躍動を眺め、己を慰めてきただろう。  俺はっ……!  自分には、善人の顔をして宝順を責める資格などない。  せめて、できることがあるならば……  涼景は、背後の気配を伺った。  文字通り、自分の背には、大切な者たちの命がかかっている。  背中越しに聞こえる押し殺した声が、涼景の覚悟を促した。  これは、償いだ。  涼景は自分に言い聞かせた。  宝順を止めようとしなかった、弱い自分が果たすべき償い。  そして、自分のためにここに集められた友たちへの、せめてもの……  震えながら、帯に指をかける。思うように動かず、何度も手間取りながら、直裾を緩めると、襦袢の下に手を差し入れる。  どうにか、自分のものに触れたが、とても、帝が望むようなことができる状態ではない。むしろ、全身が萎縮してしまっている。恩人の生首で自慰に及ぶなど、正気の沙汰ではなかった。  どうしたらいい?  許しを乞うか?  いや、そんなことで、宝順帝がみなを放免することはない。それは、近くで見てきた自分が、一番よく知っているではないか。宝順は人命に関して恐ろしく冷徹であり、言ったことは決して曲げはしない。 「どうした?」  微笑のままに、宝順は涼景を見つめている。  できない……  それが、涼景の答えだった。  羞恥心のためではない。孟念への恩義のためでもない。  もっと根本的な拒絶。  人として、してはならない。 「手伝ってやれ」  完全に動けなくなってしまった涼景の前に、禁軍の兵が一人、進み出た。兵は、孟念の首を手に取ると、硬直していた口を無理やりに開かせた。  半分裏返った孟念の目は、何も語らず、ただ、そこにある。  小刻みに震えるだけで、涼景は動けないままだった。 「やれぬというなら」  宝順が、わずかに手を上げて指示を出す。別の兵が、蓮章に目をつけた。引き立たせ、涼景の前に連れ出す。  涼景は反射的に蓮章を見た。一瞬、黒と灰色の目が、涼景と繋がった。  俺に構うな!  蓮章の目は、どこまでも、涼景を案じていた。  目が合えば、心が動く。心が動けば、苦しみが増す。  床に投げ出され、蓮章はうめきひとつ上げずに、涼景から顔をそむけた。 「()れ」  禁軍兵が剣を抜く音が、耳の底に響く。  躊躇なく、剣先が蓮章の着物を裂き、色の薄い肌を曝け出した。  宝順は、愉悦に笑った。 「やめっ……」  涼景は胸がつかえた。そして、目を見開いた。  体の震えが、その質を変えた。  あられもなく、柔肌を石の床に横たえている、蓮章の姿。  息づき、上下する肩。すらりと伸びた脚と、斜めに捩れた背中。  ただそれを見ただけで、涼景のものが熱を帯び、芯を持った。自分自身の体の変化に、涼景は愕然として声を失った。  長く、宝順に仕込まれてきた無意識が、恥辱と性的興奮とを、いとも簡単に結びつけ、焚き付けた。  体は舞い上がり、理性は奈落に落ちた。  傷つけられる親友の姿に興奮を覚える。それは絶望だった。  涼景は、心の砕け散る音を聞いた。 「……もう、いい」  聞き取れないほど、かすかに、涼景はつぶやいた。  自分に突きつけられた現実を、ただ、すべてを手放して受け入れた。  血を抜かれ、青黒く変色し、冷え切った首。  無機質なそれに、涼景は一片の感情もないまま、手を添えた。  その先端が、暗い口腔の奥へと差し入れられる。  皮膚の渇き、欠けた歯の硬質な感触。  やがて、彼は静かに腰を動かした。  残酷な肉体の高まり。心からは、あらゆる感情が失せていた。  力を込めると、顎の関節がかすかに鳴った。短く途切れる涼景の息が、そこに重なる。狂った行為の音が、静かすぎる石の間に、ささやきのように広がっていく。うっすらと焚かれた香炉の煙が、空中を漂う。 「恩人の具合はどうだ?」  満足そうに、宝順は問うた。 「冷とうございます」  それだけ言うのが精一杯で、涼景はその場に崩れた。先端から残滓が垂れ、体が無慈悲に喘いだ。  目を開いたまま、涼景は気を失っていた。  宝順は、ゆっくりと立ち上がった。その手には、いつしか匕首(あいくち)が握られている。 「忘れるな」  宝順は涼景の頭を膝の上に抱え上げた。  これ以上、何をする気だ?  蓮章の視線が床を這って、涼景に注がれる。刹那、蓮章は絶叫した。  ためらいもなく、宝順は匕首の切っ先を涼景の右頬に深々と突き刺した。突然の激痛に、涼景の体が激しく跳ねた。 「お前は、朕のものだ」  吹き出した返り血が、宝順の衣を染めていく。 「涼ッ!」  喉を破る蓮章の声が、石の間に響き渡り、暁隊の皆が呼応するように叫び声を上げる。兵士が、蓮章を押さえつけた。狂ったようにもがいて、蓮章は叫び続けた。それはいつしか慟哭へと変わり果て、絶望の淵に沈む。それでも、蓮章の目は、涼景を求め続けた。  一瞬で修羅場と化した中、宝順だけは静かに、穏やかであった。  宝順が動くたびに、血飛沫が辺りに飛び散った。  涼景の部下たちの幾人かが、耐えきれずに気を失い、また、幾人かは半狂乱に陥った。禁軍兵士は、暴れる者を次々に殴りつけ、黙らせた。  ただ一人、涼景だけが、魂が抜けたように声も上げず、されるがままに任せていた。半分閉じた目から、冷たい涙がとめどなく流れ、頬の血を流していった。   ・  ​ 「あれ、寝ちゃったんですか?」  東雨が、新しく酒を持ってきた時、既に涼景は犀星の寝台で悠々と眠っていた。犀星はそれを見ながら、部屋の真ん中に突っ立ったままだ。 「それ、涼景様の?」  東雨は、犀星が手にしていた剣を見て、少しどきりとした。  眠る涼景と、剣を手に立つ犀星。  まさか、殺したりしないよね……?  東雨の怯えた目に気づいた犀星は、安心させるように首をふった。そっと、眠る涼景の手元に剣を預ける。  東雨は、詰めていた息を吐き出した。 「まったく、毎日毎日、呑気なものですね」  いつものこと、と、涼景に褥をかけてやる。ふと、穏やかな寝顔の中に浮き立つ、頬の傷が目に止まる。それは、あまりに生々しい。  東雨は声をひそめて、犀星を振り返った。 「……涼景様の頬の傷、どうしたんでしょうか? 少し、普通じゃない、っていうか……」  犀星はそっと、涼景のそばに腰掛けた。  ただの刀傷にしては、確かに不自然だった。鋭利な傷の両端は、力任せに引き裂かれている。  涼景が、それについて話したことはなかった。本人が言わないなら、こちらが聞くことではないだろう、と、犀星は黙っている。  唐突に、犀星は顔を上げた。 「東雨、涼景が嫌うものを、知っているか?」 「え? 何でもよく召し上がりますけど」 「そうじゃない……鏡だ」 「あ、そういえば……」  ​東雨は思い出したように、布の掛けられた鏡台を見た。  初めてこの部屋に来た時、涼景は何も言わずに、鏡を隠したのだ。 「思い出したくないのだろう。だから、何も言うな」  涼景の横に寝転んで、犀星は親友に顔を近づけた。  その様子に、東雨はわずかに焦った。 「どうして一緒に寝るんですか?」  顔を赤らめ、文句のように言う。  犀星は目を閉じた。 「ここは俺の部屋だ。問題ない」  そのまま、あっさりと眠り込んでしまった主人に、東雨はもう、何も言えなかった。  天下の暁将軍と、民衆の信頼を集める歌仙親王が、一つの牀で酔い潰れて寝ている。  人に話せば面白がるだろうが、これは、自分の胸だけにしまっておこう。  ​まるで、子供のように無防備な寝顔の二人をみて、東雨はどこか羨ましく思うのだった。 <完>

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