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あかつきに祈る
【本編との接続】
本編の十六年前の物語。
『第一部「星誕」』・外伝『つばくらめの夢』の後。
『第二部「紅陽」』前がおすすめです。
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慌ただしい涼景の一日が終わった。
作戦、布陣、地形、行軍路、宿営地の位置を最終決定し、退却路も見直した。副将、百人長らを集めて情報を伝達し、それぞれの役割を共通理解とする。兵員、兵器、防具、旗印の総数を確かめ、糧秣の積み込みを見届け、斥候からの連絡を受ける。戦勝祈願の祭祀や吉兆の占いにいたるまで、何もかも、目まぐるしく奔走した。
夕刻、士気高揚のために全軍の前に立った時には、幼さゆえの不安を隠し、将軍らしい態度を演じた。
初めて将軍を任される。
その緊張感よりも、ひたすらこなさなければならない業務に追い立てられる。本来ならば大将自ら動かなくても良いようなものまで、代わってくれる者はなかった。
汚職の村への制裁。
その作戦は同時に、若い才能への嫉妬による謀略に他ならない。
ようやく慈圓の屋敷の離れに戻った時、既に夜半を過ぎていた。
屋敷の外では不眠番が警護にあたっている。
涼景を守るというよりはむしろ、逃亡を防ぐためと思われた。
離れの部屋には、涼景の鎧甲冑、武具、旗が用意され、牀は寝る支度も整っている。
誰の心遣いだろうか、涼景が好きな焼き栗の小鉢も用意されていたが、とても口にする気持ちにはなれなかった。
回廊の隅に座り、裏庭の暗がりを見つめる。
季節は巡って秋。
風は寒々とし、虫の音も細かった。
代わり映えもなく、繰り返し過ごしていた毎日が、遥か遠くに感じられる。
わずか十二歳、そんな自分に一軍を率いることができるだろうか。
直接耳には入ってこないが、大人たちが自分の頭上で、あれこれと画策している気配があった。
信じられる仲間など誰もいない。敵陣の中に一人放り込まれ、どうしていいかもわからず、ただぽつんとそこにたたずむ自分が想像された。
風は穏やかだった。それでも肩が冷える。兵卒として盗賊退治に出向いたことはあったが、それとはわけが違う。あの時はただ、必死に大人たちについていくだけだった。
自分で判断する必要もなく、言われるがままに、ただ動いた。身の安全を第一に考え、いざとなれば逃げることも視野にあった。
怖くてたまらなかった。
初めての戦場での恐怖は、今でも心に消えない傷跡として残っている。目には見えないその胸の傷は、いつになったら忘れることができるのだろうか。その痛みがある限り、自分はいつだって臆病になるのだと、涼景は知らず知らずのうちに自らの体を抱いていた。
月はなく、星だけが静かに空に輝いていた。秋の夜空はどこか空虚で頼りなかった。
この震えは、寒さのせいだ。
涼景は自分に言い聞かせた。
秋の夜の、まだ季節に慣れない体が自然と震えるだけなのだ、と。
せめてそれが、今できる身の守り方だった。
ぼんやりとしていた涼景は、かすかな足音に気づかないふりをした。それが気のせいだった時の、失望に怯えたのかもしれない。振り返ることもなく、ただじっと右の耳でその音を探っていた。
この季節には珍しい分厚い肩掛けが、そっと背中を包んだ。一人分にしては大きく重たい。肩に乗せられた布に自然と手が伸び、引き寄せる。
隣に蓮章が近く座った。そうすることが当たり前だというように、一枚の布に二人でくるまる。ぬくもりも、匂いも、気配も、その仕草の全てが幼なじみであることはわかっていたが、なぜか顔は見られなかった。
遜家の嫡男であり、文官の道を歩む蓮章は、共に戦場に立つことができない。いつもこうして自分を見送るだけだ。それが唯一のことなのだと涼景も知っている。
共に来てほしい。
そう、心で何度も叫んだ。訴えるように見つめもした。
だが、言葉にだけはできなかった。それをしてしまえば大切な人を失ってしまう気がした。どんな答えが返ってきても、そこで終わる。
強気な自分が壊れてしまう。
涼景は、自分で思うほど強くはない。その胸がカタカタ震える音が、蓮章には聞こえていた。
今回の涼景の出陣は、ただの討伐ではない。
軍の大将として、三百の兵を率いる。その上、本当の目的は作戦の失敗と、それに乗じた涼景の暗殺。
罠である。
蓮章には、大人たちの下劣さが涼景以上に見えていた。
若くして最高の才を持つ涼景。その年にそぐわぬ優秀さゆえに、敵を多く作る。本人はただ懸命に生きているだけだ。だが、周囲にはそれが目障りなのだ。
どうにかしたかった。
とはいえ、蓮章とて、まだ十三の少年である。何の力も持たない。
ただ師匠である慈圓にだけは、どうにかならないのかと泣きついた。気性が強く、決して他者に弱みを見せない蓮章が、初めて慈圓に泣いて訴えた。そのことを涼景は知らない。蓮章もまた話すつもりはない。
結果として何もできない。その事実に変わりは無いのだから。
今までも、涼景を戦場に送る時はいつも、蓮章はこうして寄り添っていた。だが、今回は明らかにその重みが違う。
ただ生きて帰ってほしい。
その願いは一つではあるが、小さな涼景が両肩に負うのは、他の兵たちの命だ。
もし作戦が失敗に終われば、たとえ自分の命を拾ったところで、その後に何が待っているか明白だった。敗軍の将がどのような扱いを受けるか、それは嫌になるほど見せつけられてきている。
一人である。
頼れる者もいない涼景に、何一つ、救いはなかった。
敗北は、涼景の一生を奪うことと同義だった。
こんな形で、壊されてたまるか。
涼景以上に、蓮章の心は荒れていた。
涼景の有能さを、蓮章はよく知っている。
共に育ち、互いにその性格の激しさから衝突を繰り返してきた。どんなにぶつかっても、それは信じればこその衝突だった。そして二人の間には、他者とは決して結び得ることのない固い友情があった。
追い詰められた境遇の中で培われ、育まれた絆。ぎりぎりの崖を互いに背を寄せ合って渡る、その信頼。それは涼景にとっても蓮章にとっても、他に代えがたい唯一のものだ。
失うかもしれないという恐怖より、ただそこにいてほしいという願いが上回る。
蓮章の想いは、そばに座る涼景にもひしひしと伝わってゆく。そしてそれは自然と二人の距離を縮めた。布に巻かれて寄り添い、そこからさらに互いに体を預ける。何も語らず、ただそのぬくもりと、体の確かさを交換するように。
小さく声を漏らしたのはどちらだったか。
それは押し殺した嗚咽か、それともたまらずにあげた甘えだったのか。
静かに虫の声が時を告げてゆく。あちらで鳴いていた虫が黙り、反対の藪から別の音色で別の虫が鳴く。
鼓動が怖いほどに早く打っていた。
時が経つことが、これほどに恐ろしいかと、二人は自然と互いの手を取った。
いつまでも、星空のままであれば良い。
永遠に、夜が明けねばそれで良い。
このたった一つの夜が、この先ずっと二人を隠してくれたなら。
夜に守られて、星の隙間に逃げ込んで、二人で遠くまで行けたなら。誰も見つけることのできない場所へ。
蓮章の白い指が訓練で傷ついた涼景に手を静かに撫でた。歳も違わぬのに、なぜ彼だけがここまでも粗末に扱われなければならないのか。それは生まれついたためだけではない。
あまりに、涼景はまっすぐで、そして不器用なのだ。
期待に応えようと努力を重ねれば重ねるほどに、さらなる期待が涼景にかけられる。その中から抜け出そうともがけばもがくほどに、より一層沼は深くなる。次々と注がれる水に溺れるように、どこまで浮き上がっても水面は遠ざかる。涼景の震えを、蓮章に全身で感じていた。
蓮章もまた、涼景の顔を見ることができなかった。こんなにも近くに、確かにお互いの命を感じているというのに、日が昇れば容赦のない現実が二人を引き裂くのだ。それはもしかすると永遠の別れかもしれない。
少しずつ二人の呼吸が乱れていく。言葉にもせず、目にも見えない、互いの怯えが共鳴して、お互いをより一層追い詰めていく。
安心を求めてそばにいるのに、それが余計に不安を深くする。強い光が影を濃くするように。
こらえきれず、どちらからともなく、そっと腕を回して抱き合った。
そうしていても、震えは一向に収まらない。いつも堂々と顔をあげている涼景が目を伏せ、蓮章の肩に額を押し付ける。いつも強気な言葉で周りを驚かせる蓮章も、一言も発することができなかった。
こんなにも心は重なり、同じことを願っているはずなのに、短いつぶやきすら出ない。ただ時折、確かめるように、腕に力を込めて抱き直す。涙を流すことさえ無意味だと、心が知っていた。
蓮章の視界にひときわ明るい星が、軒の角から空の高みへと、移りゆくのが見えた。星空は確実に巡り、時は確実に過ぎ、朝は確実に近づく。
刹那、蓮章の思考に一つのひらめきがあった。
逃げることができないのなら!
思うと同時に、蓮章は涼景の手を強く引いて立ち上がらせた。
呆然として、涼景はその夜、初めて蓮章と向き合った。
幼い、今にも泣き出しそうな涼景の顔に、蓮章は笑って見せた。
安心して良いのだ。
瞬時に、涼景はそれを悟った。
蓮章は決意を込めてうなずくと、そのまま涼景の手をとって駆け出した。
裏庭を抜け、古い井戸をまわり、二人で登った栗の木を過ぎた。離れの角にしゃがみ込み、回廊の下の石をどかす。古い抜け道が二人の前に黒い口を開けた。一つの明かりもない中、蓮章は先に立った。
片手はしっかりと涼景を握り、もう一方の手を前に差し出して先を探る。涼景は、蓮章の手にすがり、まるで目を閉じたまま歩くようにその後に続いた。
いつもなら逆だ。
二人は同じことを思っていた。
涼景が自信を浮かべた顔で、蓮章の前に立ち、斜め後ろから蓮章が色々と文句をつける。そうして振り返った涼景と喧嘩になる。そんな二人は今は完全に反対だ。
蓮章は力強く涼景を導き、穴から這い上がった。屋敷の東側の壁沿いに出る。
蓮章は行き先を決めていた。
宮中の東、青龍門。そのそばには見張り矢倉が建っている。
そこは、一番早く朝をみつけられる場所だった。
蓮章の意図に気づいて、涼景は足を踏ん張った。引き戻された衝撃で蓮章もまた体が揺らぐ。だが、振り返らない。振り返らずに力を込めて、再び涼景の手を引いた。その力は涼景が思っていたよりも、はるかに強く、半ば引きずられるように駆け出す。
やがて二人の鼓動が重なった。軽く息を上げ、櫓を取り巻く階段を駆け上がる。かすかに、笑い声が聞こえた気がした。
板張りの屋根が星空を切り取る頂上まで一気に登り詰める。
見張り台の手すりから、東の方角に身を乗り出す。風がさっと抜けて、二人の汗ばんだ肌と髪を撫でていった。
東の地平線は静かに闇の中にあり、木立の上はまだ星空だった。
二人は息を整えながら、じっと、朝を待っていた。つないだ手は一つだった。
少しずつ木立の間の星が薄れ、空の境が白く溶けて、木々の枝の一本一本が黒く浮き立ってくる。地平線のその下に潜む太陽の光が、ゆっくりと星空に染み渡り、真東の日の出のその一点を中心に、刻一刻と朝を形作っていく。
暁の空。
蓮章はぐっと込み上げたものを飲み込んだ。白い光は次第と朱に染まり、気づかないほどうっすらと横にたなびいた雲に映ってさらに強さを増した。星が消えた天空は薄く青く抜けて、どこまでも遠い。
蓮章はまっすぐにその光景を見つめ、瞬きすらしない。わずかに唇が動いた。
「暁」
かすれた声が、朝の冴え渡る空気を裂いた。
「おまえは、暁だ」
涼景を見つめ、蓮章の声は、この世で最も美しい響きに変わる。涼景は答える代わりに強く、手を握った。
たとえ、どんなに夜が暗くても。
「必ず帰ってこい」
心の奥底の深いところから、紡ぎ出された想い。
「戦場で死んだら、おまえの負けだ」
涼景はこれほど近く、蓮章を見つめたことはなかった。
左の灰色の目が、自分だけを見ていることが、恐ろしいほどに愛おしかった。
この目に、再び見つめてもらえるのなら、どんな死地とて生き抜いて戻る。
「俺は、戦場では死なない」
涼景の胸に、ただ、想いだけが溢れた。
柔らかい唇に、柔らかい唇で触れる。
あなたを、傷つけない。
それは、約束だった。
想いだけで輝く、たった一つの約束。生きるために必要なよすがであった。
戦場で生き残るために。
信じて待ち続けるために。
ただ一つのすがるべきもの。まるで心臓を動かすためのたった一つの力のように。
数年後、涼景は自らの戦号を『暁』と定めた。
<完>
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