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その蓮は水底に咲く(1)

 涼景が石の間で傷ついた夜。蓮章の生涯もまた、一変した。  誰のものともわからぬ叫びと、許しを請う嘆き、殴音と嗚咽の惨劇のただ中、蓮章はたったひとり、声もなく、最後まで涼景を見つめていた。  引き裂かれてまとわりつく着物も、気にはならなかった。乱された髪、汚された肌、蓮章自身の体に受けたあらゆる屈辱よりも、涼景の頬に流れた一粒の涙のほうが、蓮章にはあまりにも痛く辛かった。  多くの者たちの運命を飲み込み、血生臭い夜が更けていく。  太陽がゆっくりと地平線を越える頃、ようやく石の間の扉が開かれた。  暁隊は半数が卒倒し、残りは自力でその場を這い出した。  どうにか力を振り絞り、数名の暁隊士が涼景と蓮章を、慈圓のもとに担ぎ込んだ。  安珠が呼び出されたとき、気を失ったまま牀に横たわる涼景のそばで、蓮章もまた、裸同然の姿で全身に浅い傷を負って座り込んでいた。ふたりが受けた性的虐待の痕は、目をそむけずにはいられないありさまだった。なりふり構わず、とにかく連れ出すだけで精一杯であったことがうかがえた。それが石の間の床でついたものだと、慣れた安珠には一目でわかった。  涼景の頬の傷からのおびただしい出血は、彼の命を限界へと追いやった。慈圓は、私財を惜しまず治療に当たらせた。  涼景と、蓮章と。  一部始終を見せつけられていた隊士たちの心情も、察するにあまりあった。屈強な男たちが、無言でひたすら涙を流し、互いに体を支え合って安珠の前に手をつき、涼景を助けてくれるように嘆願する姿は、赦しをこう罪人にも似ていた。  安珠は彼らをなだめ、涼景と蓮章を引き取って一部屋に隔離した。  万全と言える治療ではなかった。  それは安珠の腕のせいではない。涼景の傷はあまりにも深すぎた。  涼景の乾いた唇から漏れる虫の息だけが、蓮章の全てだった。  屋敷の一室には、ひたすらに重苦しい空気が立ち込めていた。  慈圓は取り乱すことなく、安珠もまた冷静だった。  ただ、蓮章だけが、壊れた心を抱え、一言も口がきけなかった。  多少のことならば逆上し、報復に出る蓮章が、沈黙した。  それが、ことの重さの全てを表していた。  三日三晩、涼景は生死の境界を彷徨い、命が消えたかと思われるほどに冷えた体を、蓮章は黙って撫で続けた。  頬を貫通した傷は、生きた人間のものとも思われず、常軌を逸したその仕業に、怒りも憎悪も吹き飛んだ。  命を削るように皇帝に尽くしてきた涼景である。その彼に対するあまりの仕打ちに、誰の感情も追いつかなかった。  気を失ったまま、涼景は二度と目を覚まさないのではないか。  慈圓は愛弟子の身に起きた悲劇に、自身の心が空っぽになっていくのを感じていた。強すぎる衝撃は、凪となって慈圓を包んだ。  目の前の現実が、受け入れられない。  蓮章は全てを見てきた目で、涼景に狂気を帯びた眼差しを向け、自らの呼吸すら忘れたように静かだった。  四日目の夜。  涼景の生命力が、かろうじて命を繋ぎとめ、息が頼りなく、小刻みに音を立てた。  安珠は血に染まった手を拭きながら、どっとコウイに体を預けた。 「命は、とりとめた」  安珠は一言だけ、短く言った。  詳しい事情もわからぬまま、できる限りの手は尽くした。安珠自身もぐったりと疲労が重かった。 「梨花、どういうことか、そろそろ話してはくれないか?」  慈圓は斜めに、蓮章に視線を向けた。  石の間で起きたことは、外には漏れない。その場にいた者たちの記憶にのみ刻まれ、消えることもまた、ない。  唇を引き結んだまま、表情を凍り付かせている蓮章を、安珠も目で促した。 「傷の状態は異常だ。完全に口内に到達している。刃物の切り口は発端にすぎない。どうしたらこんな怪我になる? まるで拷問の痕だ」  安珠の言葉に、蓮章は眉ひとつ動かさない。  感情が死に絶えて、ただ、そこにいるだけの人形のようである。  安珠はため息をついた。 「想像はつく。喉奥まで、ひどい有様だった。よく窒息せずに済んだものよ」  宮廷医として、さまざまな場面に立ち会い、宝順の気性も知る安珠には、おおよその予測はついた。だが、皇帝みずから、涼景に与えるにはあまりに過ぎた暴力だ。 「とにかく、絶対安静だ。玄草、血を戻す食材を用意してくれ。咀嚼はできないから、すりつぶして飲ませる」 「わかった」 「くれぐれも、慎重にな。気管が塞がれば終わりだ」  蓮章は膝の上で拳を握りしめた。喉が潰れて何も言えない。  安珠は、蓮章から言葉を引き出すことはあきらめた。  むしろ、今は全てを忘れさせてやりたかった。  慈圓が、深く、息をはいた。  安珠と交互に涼景の世話をし、数日を過ごした慈圓の胸には、少しずつ安堵と、それを上回る怒りの火が、遅れて育ち始めていた。  たとえ命が救われても、涼景が負った傷は深すぎる。  端正な右半面を切り裂いた傷は、生涯消える事は無い。そして、体の傷よりも心の傷、それこそが何よりも深刻だった。  涼景はもともと、外見を気にする男ではないと、慈圓も心得ている。これが戦闘における刀傷であれば、まだまだ未熟だったと笑って、受け入れることもできただろう。  だが、違う。  自らの努力も、人としての最低限の尊厳も矜持も、何もかも踏みにじられて、宝順に対する絶対的な忠誠を顔面に刻まれ、多くの者がその傷の成因を知っている。  これから先、涼景に会う者は皆、あの傷が宝順の凌辱によってつけられたものだと、その時、彼がどんなに無様であったかと語り継がれるのだ。  傷の痛みより顔の形より、その未来はあまりに残酷だ。  慈圓はひたすら、涼景の身の安全だけを優先した。  自らの人脈を駆使し、誰も屋敷には寄せ付けなかった。人の目から隠し、いつ孵化するかわからない卵を温めるように、ひたすらに涼景をかばった。  どのような傷が残ろうと、涼景ならば乗り越えてくれると、信じたかった。  慈圓のその切なる願いは、蓮章にも伝わっていた。  しかし、蓮章の考えは師匠とは少し違っていた。  死ねるものなら、死なせてやりたい。  眠る涼景を見つめ、その無事を祈りながら、同時に、蓮章は目覚めの時を恐れていた。  涼景は強い。  だが、その強さは、本当に危ない。  蓮章は慈圓よりも深く、涼景という人間を知っていた。  周囲が期待すればするほど、涼景は己に鞭を打つ。  此度の事も、同じだった。  彼が乗り越えることを、誰もが望むだろう。  慈圓も、暁隊も、より強靭な精神力で立ち上がる涼景を欲する。そうでなければならないのだ、と。  そんな身勝手な願望に、これ以上、追い詰められる姿は見たくない。  さらに蓮章を打ちのめしたのは、己の弱さだった。  そばにいながら、力になることができなかった自分の、あまりの無力さ。  なんのための自分だったのか。  涼景のここまでの傷を負わせたのは、自分のせいだ。  時が過ぎるにつれ、蓮章の目は焦点を失い、さまよいはじめた。  安珠が請け合い、慈圓が信じるように、涼景はもうじき目覚めてしまう。  それが、蓮章には恐ろしかった。  なんと声をかけたらいいか、わからなかった。  心が考えることを放棄し、ただひたすらに停滞した。 「……俺は、涼の看病はしませんから」  数日ぶりに蓮章が発したのは、その一言だった。  慈圓も安珠も、不思議そうに彼を振り返った。  幼い頃から共にいた。同じ戦場に立つため、文官の道を捨てて軍部に入り、どんな状況下でも支え合って乗り越えてきた。  誰よりも近く、兄弟同然に育ち、互いの心は互いが一番知っているというのに、蓮章の言葉は冷たかった。いや、だからこそ冷たくならざるを得なかったのかもしれない。  蓮章には、冷静でいられる自信がない。涼景の目覚めが、自分をどう変えてしまうのか、全く予想ができなかった。  それ以上、何も言わぬ蓮章の顔から、慈圓はその思いを汲み取った。 「わかった。仙水の世話はわしがしよう。気休めは言わぬ。おまえの心はおまえ自身で守ってくれ」  慈圓は決して突き放したわけではない。蓮章が他人の言葉に左右されはしないと承知している。時間はかかろうと、自分で答えを見つけるだろう。そうでなければ納得しない、それが、彼の昔からの性分だった。  黙って蓮章はうなずいた。 「構いません。俺の事は放っておいてください」  どこか投げやりな、自棄がにじむ声だった。  安珠は目を細め、そっと薬箱に手を伸ばしかけて、それをやめた。  心を落ち着ける薬は、安珠の箱の中にある。だが、この蓮章という男には薬が効かない。擦り傷一つ負っても軟膏すら塗る意味もない。毒薬を飲んだところで死ぬ事はない。酒に溺れることも、酔うことさえない。  世間の多くが、薬と酒で一時の苦しみを忘れることができる中、蓮章はその道すら、生まれながらにして断たれていた。  それが、蓮章の背負った運命だった。  涼景同様に、彼もまた、苦しむことになる。  慈圓は当然、蓮章の身も案じていた。  蓮章は遜家の血である。蛾連衆を束ね、秘密主義で、簡単に人を近づけはしない。蓮章の父親の願いもあり、自分が面倒を見てきた。  目が離れるな。  慈圓にとって、涼景の傷と同様、孤独になる蓮章もまた不安の種であった。 「好きにしても構わないが、屋敷から出るな」 「それは無理でしょう」  さらりと蓮章は言った。 「ここにいりゃ、いやでも涼のことが目につく」 「逃げるつもりか」  あえて厳しく慈圓は言った。 「逃げられる場所があるってんなら、教えて欲しいもんです」  蓮章は逆に笑ってみせた。 「仙水どのが目覚めれば、二人で話をしてみることだ」  安珠が妥協案を出した。  涼景も蓮章も、どちらも一人で抱えるには重すぎる。  そのような事は言われずとも、蓮章にもわかっている。だが、人の心とは理屈では割り切れない。特に蓮章のように気性の激しいものはなおさらである。 「考えてはみますが」  蓮章はその気のない返事をした。 「俺の事は放っておいてください」  できないとわかっていての無理強いである。安珠も慈圓もため息をついた。 「一つだけ」  慈圓が釘を刺した。 「命は粗末にするな。それさえ守ってくれれば、うるさい事は言わない」  慈圓の声は蓮章の耳にしっかりと届いていたが、心にまで届いたかはわからなかった。  涼景の意識が戻る前に、蓮章は静かに屋敷を出た。  それから半日して、涼景は意識を取り戻した。  声も出せず、表情も動かせず、何重にも巻かれた包帯に染みる薬の匂いが、胸の中にまで染み込むようだった。  かろうじて動かせる視線で、状況を察する。  石の間から助け出されたこと、慈圓と安珠が自分を救ってくれたこと、そして、蓮章がいないこと。  涼景の目は、必死に蓮章の行方を問う。慈圓は一言、心配ない、とだけ答えた。  知りたいことが山のようにあったが、何を考えるにも、激しい痛みが邪魔をした。

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