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その蓮は水底に咲く(2)
生乾きの傷口には常にうっすらと色がにじみ、血とも膿とも知れないもので汚れた。
涼景は手当てを慈圓に任せ、自らは決して鏡を見なかった。
傷は深く無惨で、どうしても跡が酷く残る。
涼景の、終わりの見えない戦いの始まりだった。
とりわけ容姿に気を遣っていたわけではない。
だが、この傷は、容易に受け入れられなかった。鏡、水面、金属の鋲、姿を写すもの全てが涼景を嘲笑っているかのようだった。
自分がどれほど目を背けても、人には丸見えである。場所が場所であるだけに、隠す事も不可能だった。
涼景は初めて、人に会うことを恐れた。
大げさな包帯が取れるまでは、屋敷の中で過ごした。
状況が状況だけに、皇帝が涼景を呼び出す事はなかった。
だが、同時に涼景が自らに逆らうであろうということも、宝順は考えてはいなかった。
宝順が涼景に刻みつけたのは、自分に抵抗した時、周りの者も巻き込んで何が起きるかという警告である。
ただ一人立ち向かうことはできるかもしれない。
しかしその後の保証は何もない。
涼景亡き後、一族郎党全てが地獄を見るのは明らかだった。
その中には、恩義にしてくれた慈圓も含まれる。
そして、何より、蓮章がいる。
熱に浮かされ、傷の痛みに苦しみながら、涼景は、ただひたすらに蓮章のことを思い続けていた。
涼景がうなされて過ごす間、蓮章もまた自分の居場所を求めて、ふらふらと街を歩いていた。
宣言した通り、屋敷には戻らない。
とは言え、蓮章に帰る家は無い。遜家に戻れば、一生、籠の鳥である。
あてもなく、その日その日を、渡り歩く。
昼間は、暁隊に入り浸る。たとえ隊長が伏せっていようと、やらねばならない仕事はあった。街中の喧嘩騒ぎも、荒っぽい犯罪も、待ってはくれない。
宮中に足が向かない蓮章は、暁番屋と暁演武を行き来し、瑣末なことに必要以上の労力を使い、できる限り、肝心なものから目を背けようとした。
そんな蓮章の姿は、暁隊の隊士も見るに忍びなかった。
涼景の、そして、自分たちの目の前で禁軍兵たちの暴行に打ち震えた無惨な姿は、決して忘れることはできなかった。
蓮章に罪はなく、逆に自分たちの分まで苦しみに耐え抜いてくれた恩さえある。しかし、それでも、顔を見れば悪夢を思い出す。精神的な苦痛に耐えかねて、一人、また一人と隊を離れていった。
蓮章は、そんな同志を責めなかった。彼らにも、心を癒す時間が必要だ。
人が減れば、仕事が増える。
蓮章は忙殺に身を投じた。悲しいかな、こんな時でも必要とあれば体が動き、思考が冴える。
だが、それは正常に見えて異常だった。目の前を見ず、その先の無為を見るのに似ていた。
夕刻、夜勤の役割を伝えると、蓮章は一人、ふらりと姿を消した。首でもくくるのではないか、と、心配した何人かが後を追ったが、途中で巻かれてしまった。
実のところ、後をつけるまでもなく、蓮章の行く先は一つしかなかった。都の北西にある花街である。
蓮章はかつて、よくある事故をきっかけに、花街に引っ張り込まれた。十三だった。大人とはぐれた幼い美少年が一人でふらふらしていれば、無事でいられるはずがなかった。
当時から花街は無法地帯で、力が全てを支配していた。喧嘩、暴行、窃盗はあたりまえ、少年一人の命など、どうとでもできる世界だ。
蓮章自身もまた勝気で、周囲に助けを求めることもせず、ぎりぎりまで抵抗し、相手を散々手こずらせた。しかし、大の男に四人がかりで抑え込まれては、さすがに逃れようがなかった。
貸宿の一室で花を散らし、男たちはてっきり、蓮章が泣き叫んで嘆くものだと思ったが、現実は真逆だった。
全身がばらばらになる感覚の中、蓮章は小さく笑っていた。そんな蓮章を嘲る者もいた。しかし、彼には彼なりの事情があった。
夜もよく眠れず、薬も酒も現実を忘れさせてはくれない。
そんな蓮章が唯一、全てを捨てて心を解放できたのが肉欲だった。
その時から、蓮章は自らの意思で花街に通うようになった。
当然、慈圓は激怒した。
涼景も心配して、厳しく蓮章に言い聞かせた。
誰に何を言われても、おとなしく従う蓮章ではない。
発端はどうあれ、蓮章がこの街を気に入ったのは彼の意思だった。頑固な蓮章を説き伏せることは誰にもできなかった。
十七歳を迎えた今、彼は堂々と花街の大通りを歩き、声をかけてくる女郎相手に軽口を叩くまでに馴染んでいた。
その様子は、親友を傷つけられ、自らの心の半分をえぐり取られた廃人には見えなかった。
普段の、軽く豪気な蓮章である。自分を演じ続けることだけが、彼が己を保つ道だったのかもしれない。
何気ないふりを装って歩く。たとえ心の中身が抜け落ちていたとしても。
ここにくると、何もかも、忘れられる気がした。花街の外での出来事は、きっと夢なのだ。
宮中の官吏たちが、この街をかえりみることはなく、相変わらず風紀は良くない。都の一画ではあるが、完全に打ち捨てられ、治安という言葉とは縁がない。
昨今は、自警団とは名ばかりの組織が、幅をきかせていた。食うにあぶれたものたちが、妓楼の用心棒として居座っただけの徒党である。暁隊も、花街の警護に当たることがあるが、それも自警団の顔色を伺って、外から覗く程度にとどめている。それ以上踏み込めば、隊同士の衝突になりかねなかった。
容姿の整った者が多い花街においてさえ、蓮章の姿は目立った。
左右異色の瞳、白磁の肌、漆黒の柔らかい髪、繊細な目鼻立ちに、物憂げな仕草と表情。それに加えて細身の体を長布で飾る、異貌ぶり。口元にはどこか人を挑発する笑みを浮かべ、肉欲にまみれる者の中にあって、なぜか一人だけ浮いている雰囲気を醸し出す。
見た目の華やかさだけではない。屈託のない澄んだ声で煽られ、流し目ひとつで大抵はものが言えなくなった。
これでも、男娼ではなく、ただの客人である。
だが、皆こぞって彼を求めた。よそ者にはうるさい自警団も、蓮章には特に何も言わない。むしろ、守ってやるから相手をしろ、と言いよる始末である。
女郎や男娼はもちろん、楼主や|掌柜《しょうぐい》の中にも、密かに蓮章に目をつけている者もいる。蓮章を知る客までが、隙あらば宿に誘うことばかり考えていた。
蓮章は実際、どちらも引き受けた。男女も身分の区別もない。
気に入った相手があれば抱く。気に入った相手があれば抱かれる。
そして、気に入らなければ、全く相手にしない、ただそれだけである。
快楽だけが、すべてだ。
昔からそのやり方は変わらない。
ここでの蓮章は、遜家の嫡男でも慈圓の舎弟でも、涼景の参謀でもない。
ただの、男だ。
初めは単なる色狂いかと思われていたが、実はそうでもない。一度機嫌を損ねれば、二度と相手にしてはもらえない。しつこく付きまとえば、手が出ることすらある。
蓮章の激しさは、自分のことばかりではなかった。目に余る無体を働いた者は、その場で容赦なく制裁を受け、弱者が泣き寝入りすることを許さない。通りすがりの喧嘩でも、気に入らないことがあれば割って入り、仲裁を装ってよく暴力沙汰を起こしていた。
武術の心得があり、普段から荒っぽい暁隊や暴漢を相手にしているとあって、その胆力は大したものだった。弁も腕もたつ蓮章に、自警団すら一目を置くようになった。
蓮章にとって、花街は自分が自分でいられる、唯一の場所であり、いつしか、心の置き所とさえなっていた。
涼景のそばを逃げた彼が行き着く先は、この街をおいて他になかったのである。
都で日が暮れる頃、蓮章は行灯の灯り始めた花街に足を向ける。
道は人で賑わい始める時刻、その喧騒に紛れて気配を消して静かに歩く。軒下につるされた行灯の灯りと灯りの谷間に小さな闇が生まれ、そこには妓楼に属することのできない者たちが|筵《むしろ》を抱えて立っている。
空気はどこか淀んでいて、沼底のようである。
宮中から見捨てられた街。援助も支援もなく、区画も荒れ放題で古い家屋が建ち並ぶ。火が出ればあっという間に広範囲が全焼する。
街の至るところに枯れ果てた水路があった。大雨の時期には溢れ、逆に洪水の元となる。水路を管理する者も知識もなく、土砂や枯葉が詰まって、排水路の意味をなさない。一度二度は清掃してみたものの、長続きはしない。
人々の暮らし向きは最悪だった。
整備さえゆき届けば、花街は金を産む。しかし、そのための先行投資は、宮廷人にとっては博打と言えた。誰も手出しをしない。結果として幅を効かせるのは、利にさとい豪商の類である。彼らは妓楼を買い上げはするものの、即金にはならない公共工事には乗り気ではなかった。
文官の道にあれば、蓮章にもできることがあったかもしれない。
だが、自分は涼景と共に武の道を選んだ。だというのに、そのたった一人の相手から逃げ出してきた。
蓮章は、蘇る悪夢を振り払うように首を振った。
記憶はまるで呪いだ。
陵辱めいた肉のつながりに慣れている自分は、石の間の屈辱も早くに忘れることができた。
拭えないのは、涼景の涙である。
「くそ……」
小さく悪態をついて、蓮章は不機嫌な顔で通りの先を眺めた。
女郎屋の並ぶ道を突っ切って、奥の辻を右に折れる。
そこは今までよりも、明かりが抑えられ、わざと薄暗く演出されている。人通りも少なく、特に、密やかだった。建物も色褪せ、遊郭よりも隠れ家を思わせる。間口の狭い建物がまばらに並び、路地が目立つ。その路地こそが店とも呼べた。
路上で薬を売り買いする一画。
催淫薬やら幻想薬、市場では出回らない強い酒も揃えている。体を破壊する代わりに快楽を得る最後の一線が、ここでは容易に超えられる。まともな顔をしているのは売人の方で、客はどこか虚ろで足元も危うい。
蓮章は歩みを緩め、横目で路地を一本一本、確かめていった。
蓮章に薬も酒も効かない。
どんな劇薬も無意味だと、すでに体験済みである。蓮章が探しているのは、商品ではなく、それを巧妙に売りつける連中だった。安く使わせ、中毒になったところで値を釣り上げるのがやり口の、姑息な輩だ。客は薬を買う金欲しさに悪事に手を染め、まともな判断力も失って、禁断症状の中で命を落とす。
そんな事件は日常茶飯事だ。自警団は見て見ぬ振り、中には加担する者もいる。暁隊が市中で手がける事件も、その発端は大抵花街に起因している。
蓮章はふと、足を止めた。路地の奥で、人の怒鳴り声がする。蓮章は先の暗がりに向かった。近づくにつれ、人の気配が増していく。喚く声は客の男のものだろう。それを二、三人の男の影が取り巻いているのが見えた。
「おい」
無遠慮に、蓮章は呼びかけた。
体格のいい男が蓮章を振り返った。地面に這いつくばっていた客が、歪んだ顔で蓮章を見上げた。その目は怯え、同時に澱んでいた。
売人らしい一人が、肩をいからせて蓮章に一歩近づいた。
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