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その蓮は水底に咲く(3)

「こっちは商売中だ。客じゃないなら帰って……」  男の言葉を待つより先に、蓮章の拳がその顔面を殴りつけた。  狭い路地の外壁に叩きつけられ、男がぐらつく。仲間の売人が一瞬ひるみ、それから激昂して蓮章に襲いかかった。  翌朝、暁演武に姿を見せた蓮章は、門をくぐるなり旦次に睨まれた。まずい、という表情で踵を返す。旦次は逃さず、素早く蓮章の袖を掴んで、門の陰に引っ張り込んだ。蓮章の顔に手を当て、傷はないかと確かめる。効き目がないと知ってはいるが、軟膏の処置がされていて、旦次は少しほっとした。  表情を厳しく引き締め、目をそらす蓮章を柱に押さえつける。 「また喧嘩か?」 「喧嘩じゃない。事件が起きる前に、未然に対処してきた」  蓮章は言い返した。その声が掠れているのは、喉元に見える赤い痕のせいだろう。 「抱いたか、抱かれたか?」  旦次は遠慮なく言い切った。蓮章は馬鹿にしたように小さく笑うだけだ。  たくましい旦次の肩がぐっと下がった。 「もう何日目だよ」 「さて、七日か八日か」 「ふざけるな」 「聞かれたから答えたまでだ」  蓮章には悪びれた風もない。旦次は顔を寄せた。 「いつまでこんなことを続けている? さっさと仙水のところに戻れ」 「戻ってどうする?」  上目使いに睨んで、蓮章は吐き捨てた。 「梨花、目ぇ覚せ。いつまでもガキみたいなことして。おまえがいくら自分を追い詰めたところで、現実はなんも変わんねぇ」 「おまえに言われたくはない」  蓮章の声には、珍しく本気の毒気があった。目元にちらりと、狂気が浮かぶ。 「あいつを助けられなかった。何一つできなかった。そんなおまえに偉そうに説教されるいわれはない」 「いい加減にしろ!」  旦次の声にも、本気の怒りが混じる。 「確かに俺は無力だ。だがな、少なくとも俺は、お前みたいに勝手にいじけて、逃げ出したりはしてない」 「誰が逃げ出したって?」  自覚があるのか、蓮章の声が震えた。 「どうでもいい。俺は……」  口の立つ蓮章が、簡単に言葉に詰まった。自分などに言い負かされるのが、旦次には逆に悔しかった。  襟元をきつく締め上げる。 「しっかりしろよ。こんな時におまえがそんなでどうすんだ」 「別に、俺だからどうという事はない」 「おまえじゃなきゃダメなんだ!」  旦次の怒声に驚いて、訓練場にいた数名が振り返った。 「梨花、おまえじゃなきゃ……」  声を落として、旦次は繰り返した。 「あいつが待ってる。帰ってやれ」 「だから、帰ったところで、何ができる……」 「そんなこと知るか。自分で考えろ」 「考えてもどうにもならねぇから、こうなってんじゃねぇかよ!」  蓮章の悲痛な叫びが飛んだ。旦次の顔が険しくなり、 「情けねぇ」  震えた声が溢れた。 「だから、毎晩、喧嘩で憂さ晴らしか? 抱いて抱かれて楽になれるか? おまえが自分を傷つけりゃ、あいつが良くなるのか? 何もかも元に戻るってのか?」  声も出せずに嗚咽を殺す蓮章を、旦次は激しく揺さぶった。 「だったら俺が殴ってやる。俺が抱いてやる。いくらでも俺がおまえを壊してやる。……無駄なこと……もういい加減にしろよ……」 「無駄じゃ……」  言い訳のように蓮章は言った。 「俺は守れなかった」 「そんなの、みんな一緒だ」  旦次の声がまた少し、低くなった。 「みんな悔しくても、ここでこうしてやってる。あいつが戻ってきたとき、まともな姿見せてやりてぇじゃねぇか。おまえが先頭に立ってくれなくてどうすんだ?」  蓮章の襟を掴む旦次の手は、怒りではなく、なにか別の、懸命な思いに震えていた。  旦次の言葉が正論であり、自分がどれほど情けないのか。蓮章にも痛いほどにわかっている。だが、今の彼には、自分を責める以外に目の前の現実から逃れるすべがなかった。  喧嘩に明け暮れ、快楽に溺れ、わずかな間に、蓮章の体は傷つき、まともに眠ることすらできていない。食わず、眠らずの暮らしは、心を余計にすさませる。そしてそれを埋めるように、また花街の夜に逃げ込んでいく。 「悪いな」  旦次が強めに言った。 「もうこれ以上、あんたを野放しにはしておけねぇ。こんなんじゃ、あいつに合わせる顔がねぇんだ」  旦次の言葉に、数名の気配がそっと後ろに歩み寄る。一瞬、蓮章の瞳がキラリと光って、旦次の腹を膝で蹴り上げた。だが、華奢な蓮章では、鍛え上げた旦次の体格にかなうはずもなかった。わずかな抵抗が封じられ、背後から暁隊の者たちに取り込められる。みぞおちに一撃を食らって、蓮章は心が遠のいた。その顔は苦しみよりも悔しさに歪み、一雫、涙が宙に舞った。 「梨花」  ぐったりとした蓮章を背負い、旦次がつぶやく。 「あんたの気持ちがわからないわけじゃない。誰より悔しかったのはあんた自身だろうよ。だが、これ以上見過ごせるほど薄情にはなれねぇ」  旦次の無骨な思いは、遠のく蓮章の意識の奥に、重く届いていた。  懐かしい匂いがした。目を閉じていても、そこが自分の部屋だとわかるほどに。  好んで焚いていた伽羅の匂いが、壁から染みだすように満ちている。首元にだけ厚手の布を重ねた、手製の褥。寒さに弱い自分がどの季節も手放さない、厚手の肩掛け。  閉じたまぶたの裏に感じる光は昼間のものだろうか。うっすらと温もりがあった。  静かに、気配が傍に寄り添う。触れずとも、肌に感じる優しさ。そして、安堵。  目覚めたことを、知られたくはない。  蓮章は、決して身動きはすまいと、体に力を込めた。  かすかに吸う空気に混じる、血と薬の匂い。  息遣いは薄い。ひそめていると言うよりも、浅く、はかない。  少しは痛みが癒えたか。  気配だけで、蓮章にはそれが察せられる。  小さく身じろぎをする音。わずかに熱が近づく。そのほんの少しの差も、敏感な蓮章にはしっかりと感じ取ることができた。  呼びかけたい名が、喉元までせり上がる。  呼んだところで返事が返ってくる保証はなく、そしてまた、自分には続ける言葉もなかった。  今はただ、眠ったふりをする。息を深く吸って、吐く。胸の奥に、想いが染み入ってくる。全身が重く、気だるい。屋敷を飛び出してから、もう何日もまともに眠ってはいない。  蓮章は記憶をたどった。  暁演武で旦次に殴られてから、それは途切れた。気を失うほどの一撃を食らったのは癪に触るが、そのおかげで少しは眠ることができた。そうでなければ、蓮章は一生、あのままだったかもしれない。 「蓮、起きているんだろう?」  惜しげも無く、低く甘い声が蓮章を呼んだ。  思わず目尻に涙が浮かぶ。蓮章の意思に反して、こぼれそうなほどに雫が膨らむ。  会いたかった。  声が聞きたかった。  話がしたかった。  その手に触れたかった。  自分の居場所を探してあてどなく、深い霧の中をさまよった。  結局、自分の帰るべき場所は初めから決まっていた。いや、帰りたい場所はあまりに明確だった。  蓮章は覚悟を決め、目を開いた。  そこから先、どうしたら良いかなど、何一つわからない。それでもこれ以上隠し通せる自信はなかった。  すぐ傍に、涼景は座っていた。右目をふさぎ、顔を横切るように巻かれた包帯。布ににじむ血の量は記憶の中よりも減り、顔の腫れも幾分かひいている。罪人の拷問を思わせる、痛々しい姿。  蓮章の脳裏に、安珠の言葉が蘇った。場合によっては、顔面の麻痺と言語障害が残る可能性がある。それを逃れても、傷は生涯、消えはしない。  自分が背負わされたものの重さを、涼景は知ったのだろうか。 「旦次から話は聞いた」  傷をかばって、涼景は唇をかすかに震わせ、息だけで囁いた。 「相当無茶をしたそうだな」  蓮章はひとつ瞬いた。涙がこぼれないように気遣う。 「まったく、おまえは……」  何も答えなくても、ただその声を聞いているだけで、蓮章の胸が自然と穏やかに静まっていく。 「おまえは時々、理にそぐわぬことをする。賢いくせに、呆れるほどに愚かなことをする」 「…………」 「そしてそれは……大抵、俺のせいだ」  自分を責める涼景の声は、ふわりと優しかった。まるで蓮章の全てを受け入れているかのように、どこまでも柔らかく深く包み込むようだ。  どうしたらこれほどに、人の心を掴み取ってしまえるのだろう。  蓮章はいつも不思議に思う。  涼景の言葉は、心の底にあまりに深く響く。それが彼の魅力であり、自分は決して逃れることはできない。 「しゃべるな」  自分のものとは思えないほど、乾いた声で、蓮章は言った。 「傷に響く」  夕刻に近いのか、差し込む日差しはどこか間延びして薄く橙色をしていた。涼景の白い包帯が染められ、夕焼け空が映ったようだ。  涼景の左目が、蓮章の左目と交わって、ゆっくり近づく。 「蓮、おまえのせいじゃない」  唇がわずかに動き、告げた。無理に笑おうとして、涼景の体が痛みにこわばる。その時初めて、蓮章は気付いた。涼景の手が、自分の手をしっかりと握りしめていた。  限界だった。  蓮章の目から、熱い涙が流れ落ち、喉の奥がぎゅっと締まる。声を出したら泣いてしまう。  とっさに、蓮章は涼景の手を握り返した。互いの指が軋むほど、強く、力を込める。まるで、すべての痛みと憎しみと恐れが、その一点に集めるような、固い結びだった。  語れぬ言葉に代えるように、涼景はそっと、蓮章の胸に左頬を当てた。にぶく、心音が聞こえる。涼景の目にも涙が浮かんだ。それがなんの意味を持っていたのか、涼景自身にもわからなかった。  蓮章は自由になる方の手を伸ばして、涼景の背中を引き寄せ、そっと撫でた。  布越しに感じる温もりは、どんな熱よりも蓮章の手のひらに暑く、染み渡るように吸いついた。  涙がとめどなく頬を伝い、狂おしい動揺が震えとなって全身に広がる。  心音を聞き、温もりを感じる。  万感の想いを込めて、ただ、寄り添う。  支えきれないと知りながら、手放すこともできない。 「涼」  音にならない声で、蓮章は囁いた。そこから先に、言葉はいらなかった。  天輝殿の悪夢から、ひと月が過ぎようとしていた夏の終わり。  心の中に重荷を抱えたまま、それでも涼景と蓮章は大半の衝突と、少しの甘えを介在して、関係をつないでいた。  それは日常に近いようであり、いまだ、激震の余波に揺らぎやすい不安定さをはらんでもいた。  そんなころ、二人が暮らす慈圓の屋敷を、賓客が訪れた。  ふたりより、五つほど年長の左近衛、英仁である。英仁は涼景の近衛の訓練官でもある。求心力のある人物で、若いながらに実力を評価されたところは、涼景に似た魅力があった。  英仁はまっすぐに涼景を見た。傷の状態は痛々しく、これからする話も気がひける。 「英仁様」  涼景はわずかに年上の彼をそう呼んだ。 「俺の事は気にしなくて構いませんから、必要な話を」

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