17 / 24

その蓮は水底に咲く(4)

 毅然とした涼景の態度に、英仁は少しほっとした。昔から涼景はこの調子である。何があっても前向きに力強く進んでいく。過去を引きずらず、その時に自分にできる最善を尽くそうと、未来を信じて動いていく。  だからこそ、英仁は涼景を高く評価していた。  一方、涼景の隣で自分を睨むような目で見ている蓮章の、この鋭い雰囲気は少々苦手だ。  英仁は涼景にだけ体を向けて、話し始めた。 「少し辛い話も混じるが、あまり重く捉えないでほしい」 「重いものは重いと捉えますが、気遣いは無用です」 「全くおまえは相変わらずだな」  英仁は楽に笑った。  左派に属している英仁は右派寄りの慈圓に育てられた涼景から見ると、敵対組織ということになる。だが英仁は、保守的な事は感じさせず、常に若々しく、あらゆるものに興味を持ち、広く人材を登用することで有名だった。  この若さで左近衛副長の席にあるのも、彼のその人柄によるものが大きい。  英仁は言った。 「知っての通り、来年の夏には、玲親王が十五歳を迎える」  涼景がぴくりと反応する。包帯で巻き取られている表情の一部が動いて、明らかな興味を示した。 「玲親王……玲星ですか」 「確かあの親王のことを、おまえは気にしていたな?」 「はい」  涼景はうなずいた。 「かつて親王の育ての親である犀侶香に、戦場で何度も命を助けられました。あの方は俺にとってはこの上ない恩人。ですから親王が宮中に参上する際には、ぜひ力になろうと」  英仁はうなずいた。 「ああ覚えている。それで、今回この話を持ってきた」  英仁はゆっくりと、 「親王が宮中に入った場合、近衛隊が一つ増設される。玲親王付きの右近衛だ」 「現在、空席になっているところですか」 「そうだ。今、軍部では、その右近衛を誰に任せるべきかとの話が出ている。親王の上洛まで一年。その間に組織として十分に育てあげなければならない」  涼景の頭にいくつかの可能性が浮かぶ。それは蓮章も同じだった。蓮章はその一つ一つを考え、そして時折、苛立ちのような表情を見せた。それには構わず、英仁は話を続けた。 「現在、最も有力なのは、私が左近衛の副長から右近衛の隊長に就任するというものだ。左から右に移ると言うのは一つ大きな壁ではあるが、まぁ私はどちらでもいいからな」  英仁は豪快に笑った。 「出世は出世だ。だから受けようと思う」 「順当な流れだと思います」  涼景の目にちらりと不安がよぎる。それを英仁は見逃さなかった。 「そうだ。お前がそんな顔すると思ったんだ。だから来た」 「どういうことですか」 「言ってただろ。親王が宮中に来たら、自分が守りたいと。ならばおまえ、右近衛の副長に就任する気はないか?」  突然、上空から雲が降ってきたように、涼景には思えた。それは本来下から見上げるべきもので、自分がその上に乗るなど想像もしていなかった。ぽかんとする涼景に対し、逆に蓮章は苦虫を噛み潰した顔で英仁を睨んでいた。  殺伐とした蓮章の殺気から、英仁は顔を背けた。どうにも、この美しすぎる涼景の親友は苦手だった。 「前々からおまえは親王を気にしていたからな」 「しかし……」  涼景は、気にするとはなしに、自然と右頬の包帯に手を当てる。 「ここまで耐えた。今更余計に逆らって、ことを荒立てるつもりはない。だが、そう簡単には……陛下とて、俺を信用するかどうか……」 「確かに、普通はそこまで痛めつけた相手に、ふたたび忠誠を誓え、などとはいえまい」  英仁は苦笑した。 「だが、相手は、あの陛下、だ。傷つけられてなお、おまえが忠誠心を見せれば、逆に重用するのが性分」 「腐ってやがる」  小さく吐き捨てた蓮章の言葉に、ふたりはちらっと一瞬目を向けたが、あえて聞かなかったことにする。  機嫌の悪い蓮章は、宝順以上に危険だった。 「私としては、是非とも、おまえに右近衛の副長を任せたい。今ならこれから陛下に宣言することができる。副長の人選に関しては隊長に権限がある。おまえは侶香将軍とのつながりもあるし、何より玲親王とは同郷で歳も近い。何かと共に行動するならその方が良いのではないかと」  英仁の申し出は、涼景にとっては吉報だった。  幼い頃に戦場で受けた侶香への恩。いずれ、玲星を通して返すことを誓っている。英仁は、涼景の静かな熱意を感じ取っていた。 「仙水、私は、玲親王にはおまえしかいない、と思っている。だから、副長の任期は一年。隊が落ち着き、規範が浸透し、準備がととのうまで、長としての仕事を私の下で学べ。玲親王の即位に合わせて、おまえに隊長職を譲る」  その展望に、涼景は顔色を変えた。英仁はにやりと笑う。 「なに、こちらにも色々と思うところがあってな。そのころには、左近衛の隊長の席が空くはずなのだよ」  涼景の背筋に冷や水が流れる。  英仁は優秀であり、先見の明を持つ。人並みの出世欲、人並みの野心。その裏には、それ相応の狡猾さも有している。決して、清廉潔白で今の地位にいる人物ではない。  不器用を自覚している涼景には、同じことはできそうもない。しかし、英仁の申し出自体は、非常に魅力的であった。  英仁は少し声を落とし、表情を曇らせた。 「陛下の横暴は、そう簡単に許せるものではなかろう。だが、おまえはそれを乗り越えた。今後もなお、陛下のために忠誠を尽くすと言うのであれば……」  涼景は深呼吸をひとつした。  傷の痛みはまだ続いている。顔のこわばりも、唇の引きつりも、まだ回復には時間がかかるだろう。安珠は訓練しだいで発語の問題はなかろうと言ったが、それでも不安はある。  もし宝順からこのような仕打ちを受けても、なお忠誠を誓うと言うのであれば、確かに涼景の身は守られるだろう。自身が守ろうとした暁隊も、歌仙に住まわせている妹も、散り散りになっている親戚たちも、傷つけられる事はあるまい。  涼景は言わば盾なのだ。盾として自らが傷つきながら、宝順の要求を受け入れる限り、他の者たちは守られる。  いつしか不文律として結ばれていた、宝順との契約。  それは玲親王に対しても同じことだ。親王が宮中で問題に直面した際、自分が盾となり、御身を守ることができる。  叶うならば、そうありたかった。まだ出会ったこともない親王だが、恩人である侶香との約束は、涼景にとっては決して忘れられるものではない。涼景は静かにうなずいた。 「英仁様、英仁様の持ってきてくださった話は、俺にとって本当に天からの恵みのようなものです。このためにずっと耐えてきたと言ってもいい。玲親王を、どうか俺に守らせていただきたい」  英仁は頷き、蓮章は顔を背けた。 「俺はまだ未熟です。それがいきなり副長に就くとなれば、それなりの代価を求められましょう。ですが、それでも引き換えにする価値があると思っています」  涼景は力強く決意を語ったが、それを聞く蓮章の顔は曇る一方だった。  英仁は一瞬思案して、 「わかった。では陛下にはそのように伝えよう。だが仙水、言いにくいことだが、先に伝えておく」  涼景は姿勢を正した。英仁は言葉を選びながら、 「陛下はおまえの就任に異を唱えはしまい。しかし同時に何を要求してくるかはわからない。その覚悟はしておくことだ」 「わかりました」  落ち着いている涼景に対し、涼景が鋭く息を吐き、拳で床板を小さく殴った。  英仁は、ようやく、蓮章に目を向けた。  見かけによらず気性の荒い蓮章は、涼景と共に戦場に立つべく、宰相筆頭と言われる遜家の道から外れた異端児だ。涼景からの信頼、そして、それを上回るほどの有能ぶりは、過去の戦歴が如実に語っている。  同時に手のつけられない快楽主義者との烙印もまた、宮中に知らぬ者はいない。石の間で、涼景と宝順を煽るために、金軍を煽るために抱かれた蓮章の妖艶さは、今もなお、兵士の間で酒の話に持ち出されるほどだ。  下世話な評価はともかく、いずれ、涼景の片腕として軍部の中枢に巻き込まれることは確実な男である。  涼景を思えばこそ、と、知っての苛立ちだと、英仁も納得している。 「仙水」  英仁は口調をわずかに崩した。 「こんなことに巻き込んでおいて、私が言えることではないだろうが……命があって、初めてことを成し得る。叶えたい展望があるのならば、必ず生きて成し遂げよ。死の上に築かれる希望などない」  英仁の言葉は強かった。たいして年齢は変わらないとは言え、数々の苦悩をまた英仁も味わってきている。涼景はうなずき、丁寧に頭を下げた。  屋敷から英仁を見送って、涼景はゆっくりと肩を落とした。それは落胆ではなく安堵であった。さりげなく、体を傾け、蓮章にもたれる。  少し後ろで涼景を背中に受け止めながら、蓮章の鋭い視線が斜め下から突き刺さる。じっと黙ったままだ。その沈黙こそが、涼景に対する異を唱えたい意志をありありと伝えていた。 「気に入らないか?」  涼景は蓮章の顔を見ずに、空を見上げた。 「気に入らない」  蓮章はまるで正反対を見るように、足元の草むらに目を向けた。 「涼、おまえは目立ちすぎる。これ以上出世してどうする気だ? 命を縮めるぞ」 「なぁ、蓮」  涼景がそう呼びかけた時、蓮章の胸が騒いだ。このような涼景の声に、蓮章は弱い。どうせ言いくるめられ、絡め取られてしまうことが目に見えていた。 「蓮、命ってのさ、何かを遂げるための力じゃないのか。俺には、ただ生きているだけの日々はいらない。自分の信じたことを形にし、現実にしていくために命を使いたい」  蓮章は負けじと、声を張った。 「おまえの言う意味はよくわかるし、俺もおまえの望む未来を見たい」 「蓮、ならば……」 「だがな、だが、それでも……おまえにこれ以上苦しんで欲しくない。おまえは期待されればそれに応える。自分の命も体も心も削って、何もかも犠牲にして人のために。それは尊いのかもしれない」  そう、尊いのだろう。  蓮章は拳を握った。 「だが、忘れるな。お前がそういう生き方をする以上、俺は苦しみ続けるからな」  涼景は自由になる目を見開いた。それから、明らかに表情を曇らせる。 「まさか、おまえに脅されるとは」 「…………」 「それ、相当にきついな」  蓮章は黙って目を閉じた。  涼景の体重が、さらに背にかかる。蓮章は押し返すように、体を預けた。  互いに傷つけ合い、その傷を舐め合ってここまできた。  それはこれからも続くのだろう。  決して、平坦ではな道。  しかし、痛みは生きていることの証だ。  傷は、互いを引き寄せる甘い蜜だ。  倒錯した関係はさらに捻れて、ふたりをしっかりと結びつけていた。  この絆は、生涯、自分たちを縛るのだろうと、それぞれの空を見上げて、ふたりは同じことを信じていた。

ともだちにシェアしよう!