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深紅(1)

 何かを得るには、相応の代償が求められる。  宮中において、その搾取の頂点にいるのが、宝順帝である。いかなる理不尽も、かの皇帝の意思の前にはまかり通る。  右近衛隊副長に就任するにあたり、涼景は直接、宝順と面会し、その職を受けた。立会いの官吏や軍部関係者が居並ぶ謁見室で、涼景は頬の傷が未だ疼く中、式に臨んだ。通常であれば、それは退屈なままに流され、誰の記憶にも残るはずのないものだった。  右近衛隊長に任ぜられる英仁に続き、涼景が進み出る。言葉がかけられ、応えて剣を奉じる。つつがなく終えて下がろうとした涼景を、宝順帝は引き止めた。そして、隣室に連れ出した。  少しして、謁見室で待たされていた者たちの耳に、戸惑う涼景の声と、上ずった息遣いが聞こえてきた。謁見室と隣室との境に戸はなく、一枚の薄い帳が下げられただけである。そこで何が行われているかが容易に筒抜けて、皆が気まずそうに顔を背けた。  誰も一言も声を立てず、ただ、耳をそばだてる。隣室からの危うい気配は、最後には嘆願の声も消え、ただ、涙交じりのうめきに変わった。それも次第と聞こえなくなり、沈黙が支配する。  やがて、再び謁見室に戻ってきた涼景は、襟こそ整えてはいたが、その表情に生気はなく、頬の傷が色を増しているように思われた。  異様な緊張感の中、式はその後、何事もなく進み、静かに閉式が告げられた。  宝順帝の退席を見送った涼景は、自分を盗み見ながらひそひそと話をする者たちに背を向けて、黙り込んだまま謁見室を出た。すべてを見届けていた英仁も、その背から目をそらし、声をかけることはなかった。  暁隊とともに都を駆け回っていた蓮章は、夕方、ようやく屋敷に戻った。いつもならば蓮章の帰りを待って、状況を聞く涼景は姿を見せなかった。慈圓によれば、昼過ぎに天輝殿から帰ってすぐ、何も言わずに部屋に閉じこもったという。  慣れぬ式典、単に疲れただけならば良いが……  蓮章は不安を抱えて、涼景の部屋を訪ねた。  秋の夕陽が長く回廊に差し込み、景色を暖かな色合いに染めている。風は冷たく、庭の木々はすでに色づいていた。  離れで暮らす蓮章に対し、涼景は母屋の一角に私室と寝所をあてがわれている。  部屋の前には、手付かずの昼膳が置かれたままになっていた。  蓮章は大きく、深呼吸した。  もはや、何かあったことは間違いない。蓮章はしばらくその場で、最悪の事態を想像した。それが現実になった時に冷静でいられるよう、心を鎮める。だが、大抵の場合、それは無駄になるのだ。自分でも呆れるほどに、頭に血がのぼってしまう。  落ち着け。  自分に言い聞かせ、蓮章は板戸を開けた。  部屋に灯りはなく、滲む夕焼けの光だけがわずかに揺らめいていた。私室は空っぽである。蓮章は続きの寝室へ向かった。衝立の先に、牀が置かれている。その上に丸く褥の盛り上がりを見つけて、蓮章はほっとした。 「とにかく、生きていてくれればいい」  唐突に声をかけると、廊下から運んできた膳を低い几案に乗せ、牀の近くに置く。そのまま床に腰を下ろす。 「食わないなら、俺がもらうぞ」  褥の下で体を丸めた涼景が、小さく頷いた。 「今日、気になる噂を聞いた」  蓮章は煮豆を一粒、箸でつまみ、 「最近、花街に、俺によく似た男妓が入ったそうだ」  言いながら、口へ運ぶ。 「面白そうだから、今夜にでも訪ねてみようと思う」  少しだけ覗く涼景の髪を見つめる。その毛先がわずかに震えるのを見て、蓮章は嬉しさと苦しさを同時に味わった。 「北町の方に、新しい湯屋もできたと聞く。色無しでも使えるそうだから、おまえも一緒にどうだ?」  涼景は動かない。 「旦次でも誘うか……」 「行くなら一人で行け」  涼景が褥の下からくぐもった声で遮った。寂しげな笑みが蓮章の口元に浮かぶ。 「なんだよ。嫉妬するくらいなら、おまえが一緒に……」 「嫉妬なんかしてない」  早口で涼景は言い返した。 「勝手に行けばいい」  蓮章は箸を握りしめた。 「わかった。一人で行くさ」  涼景の牀に背中をもたせかける。 「おまえじゃなきゃ、つまらねぇし」  夕闇に、虫の声が響いてくる。高い音色は二人の間を結ぶ細い糸のように優しく絡んだ。  何が起きたのか、涼景は言わない。それが答えだった。沈黙は蓮章の想像を確信に変えた。  想定していたこととはいえ、現実を突きつけられると平生ではいられない。  蓮章は箸を置いた。 「少しは食えよ。美味いから」  動揺を殺したが、そう言い残した声は震えていた。    花街を歩く。  ただそれだけで、自分を保てる気がした。  この街は、誰もが傷を負い、さらに傷を重ね、痛みを日常の一部として受け入れる。  傷ついた今の自分は、ここにふさわしい。  蓮章は、言いようのない安心感と息苦しさに挟まれる思いがした。  客を呼び込む声を聞き流し、夜が始まったばかりの道を行く。軒下に揺れるわずかに黄色い行灯の光が、荒れた土の道を照らしていた。  屋敷を出てから、蓮章はずっと、一つのことだけを考えていた。  自分が生まれながらに背負った、血の宿命。  蓮章の生家、遜家は、代々宰相を輩出する文官の名家である。その中で、自分だけは涼景を追って、武官の道へ入った。今でも親類からは非難され、戻るようにとの叱責も絶えない。  蓮章が受け継いだのは、そんな家名ばかりではなかった。  蓮章の祖父である先代の当主は、密かに反宝順勢力、蛾連衆を組織した。  宝順帝の横暴に業を煮やしている者は多いが、表立って逆らえば、一族もろとも一掃される。そこに例外はない。誰もが慎重になる中、祖父は動いた。宝順に不満を抱く様々な役職の者たちに秘密裏に誓約を取り付け、いざという時には呼応して反旗をひるがえすよう、準備を整えた。一斉蜂起は、祖父の一声にかかっている。そして、もし、その時が来る前に祖父がこの世を去った場合、孫である蓮章が跡を継ぐことが約束されていた。それゆえ、蓮章の祖父は蓮章を実家から遠ざけ、目立たぬように同胞である慈圓の元に預けた。  末に生まれた蓮章は、家督争いには加わらない。それゆえ、ことが明るみに出て失敗に終わっっても、容易に切り捨てられる。蓮章の命は、あまりに軽い。  軽い命だろうと、使い方次第だ。  蓮章は、ゆっくりと歩きながら、深く思案に沈んだ。  一年前に祖父が他界し、すべての基盤は蓮章が引き継いだ。それを知るのは、涼景と慈圓、そして、ごく一部の蛾連衆の面々だけである。  宝順帝暗殺、もしくはその政権の崩壊。  それは、蓮章にとっても望むものである。傷つく涼景の姿を見せられるたびに、その思いは胸の中を吹き荒れた。だが、時を誤れば、守りたいものを全て失う危険が伴う。決行に失敗は許されない。  時は、いつ、満ちる?  月を見上げて、蓮章は息を吐いた。  ふと、特別に澄んだ音色が、空虚な耳に滑り込んできた。  蓮章は足を止めた。最近、この一帯を牛耳っている大店のうちの一軒だ。  道に面した一階の張り出し部屋は格子で仕切られ、外から中が覗ける。格子には紅い布や紙灯籠が下がり、影が道に落ち、異様に艶めかしい雰囲気を演出していた。  赤い毛氈の敷かれた部屋。低い交椅に座り、客に顔を見せる女郎や男娼がずらりと並ぶ。微笑んだり、視線を送ったりと、扇をひらつかせ、一夜の客を誘っている。  前列に人気のある者や若い者、奥には控えの者。立ち位置ひとつで格差がはっきり分かる。  蓮章の目は、最も後ろに向けられていた。琵琶や小琴を手にして掻き鳴らす数名のうち、気になる奏者がひとり。  我知らず、蓮章の目が見開かれた。  あれが、噂の男妓か。  薄く白粉をはたき、頬に紅、唇に朱を控えめ差している。髪は結わずに肩に流し、耳の上に真紅の艶牡丹の花。  暁隊の面々が口にした通り、面影が自分に重なった。  ごくり、と蓮章は唾を飲み込んだ。悪い夢のようでもある。  格子の向こうで琴を鳴らしている、もうひとりの自分。  膝もとに置いた小琴の弦に触れ、どこか心震えるような悲しげな旋律を奏でる。かといって、その目は決して失望に沈んではいなかった。はっきりとした意思の輝きがある。  蓮章はしばらく考えてから、店の軒をくぐった。 「梨花。久しぶりだなぁ」  顔見知りの|采《さい》の一人が、気安く迎え入れた。『梨花』はもともと花街での通り名だ。 「どうする。稼いでいくか、それとも稼がせてくれるか」  蓮章は脇の格子の向こうを見た。帳場からも、張り出した部屋の隅が見える。 「あの奥の、浅葱色の着物で琴を弾いてる男妓」 「なるほど、会いに来たか」  采はにやにやと笑って、 「似てるだろ?」 「正直、驚いたが……どこから仕入れた?」 「もともと、大旦那の|寵伎《ちょうぎ》だ」 「それがどうして店先に?」 「まぁ、そういう趣味なんだろ。人の数だけ性癖あり、ってな」  主人は太い腹を撫でて、遠慮も忖度もなく言った。  蓮章は、そっと懐から先払いの銭を出した。 「足りるか?」 「充分だ。ただし」  主人は意地悪く笑う。 「建前は男妓だ。それ以上したけりゃ……」  蓮章はおとなしく、倍額を払った。 「それでこそ梨花だ」  面白そうに主人は笑った。  抱くも抱かぬも、その場で決める。どう転んでも、後から文句がつかなければそれでよかった。  主人が格子戸の鍵を開け、その男妓を呼びつけた。 「二階の奥に案内しな。お泊まりだ」  呼ばれた男は小さくうなずくと、そのまま先に立った。  自分を買った蓮章を見ることすらしない。  蓮章は黙って後に続いた。  二階建ての妓楼の角部屋は、上客のためのあつらえである。  二人には広く、人目につきにくい。板張りの戸にさらに壁絵が貼られ、紗の帳が外界と音を遮断している。絹張りの行灯が四方から照らし、天井の中央には紅い提灯が下がり、色づいた光を投げかける。  調度品も選び抜かれ、漆塗りの卓に花瓶や香炉、屏風の色彩は淡い。  広い牀の四隅に黒檀の柱と白絹の天蓋。分厚い褥や織物が整えられ、枕辺の香炉に沈香や伽羅、白檀が用意されている。  専属の女中が酒肴を運びいれると、あとは二人きり、取り残された。  豪奢であるより静かなことが、蓮章にはありがたかった。通りや隣の騒がしさは届かず、まるで別世界である。  二人になると、男は真っ先に口を開いた。 「あんた、誰だ?」  蓮章は男を見た。男も、臆することなく、蓮章を見つめていた。  向かい合って座ったまま、ふたりとも、目の前に並んだ酒や料理に興味はない。ただ、相手にのみ、その視線をそそぐ。 「時間はある」  蓮章は片膝を立てて、艶っぽい声で言った。 「琴、弾いてくれ」 「俺の名前より、琴が聞きたいのか?」 「男妓なのだろう?」  男は一つ息を吐き、静かに、小琴を膝の前に置くと、弦の張りを確かめた。 「何が聞きたい?」  男は一本、弦を鳴らした。蓮章は目を細めた。 「おまえが、一番、下手なやつ」  一瞬、間があって、男は顔を上げた。 「あんた、随分と、ひねくれてるな」 「その方が面白いだろ?」  蓮章の灰色の左目が、男の眉間を射抜く。 「どうした?」  男はどこか悔しそうに眉を歪めた。鏡の中の自分に冷やかされているような、奇妙な心持ちになる。 「わかった」  男は何かを思案し、奏で始めた。  心音と重なるような、低音、そこから滑らかに立ち上っていく音の連なり。小さな琴ひとつが奏でるには、あまりに多彩な音域と、長短を組み合わせた旋律。その道に疎い者にも、技量の高さが感じられた。  決して、苦手な一曲とは思われない。むしろ、彼にできうる限りの珠玉であった。  透けるように音の余韻が消えて、男は手を膝に戻した。  じっと、目を伏せていた蓮章は、二人の間から料理の膳を脇によけた。そして、両手をそっと、差し出す。男は黙って、蓮章の前に琴を置いた。調弦をするでもなく、蓮章は無言で弦の上に指を添えた。  夜の静けさが、部屋に満ち、蓮章は目を閉じた。そして、まるで長くそらんじていた譜面をたどるように、同じ曲を見事に奏でて見せた。  男の顔から血の気が引く。 「どうして……」  男はうろたえ、蓮章を見つめた。 「一度聞いて覚えたってのか? でたらめに弾いたのに……」 「そんなことだろうと思った」  蓮章はにこりともしない。 「いい度胸だ。ただの囲われ者じゃないようだな」  蓮章が並外れて芸事に通じているのは、花街では有名な話である。 「……試したのか?」  男は蓮章を睨みつけた。容貌は似ていても、その仕草はまるで違う。同じ花でも花弁の色が異なるようだ。 「あんた、何者だ?」  とても、上客を迎える男娼とは思われない剣呑さで、男は蓮章を睨みつけた。 「ただの客」  蓮章は声を抑えた。  二人の間の空気は冷え切っていたが、相手への関心は高まる一方だった。 「おまえ、歳はいくつだ?」  蓮章が問う。

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