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深紅(2)
「十九。あんたは?」
「十八」
「近いな」
男は小さく笑って、
「俺とあんたがよく似ているのは認める。だから、呼んだのか?」
蓮章はわずかに目をそらし、
「そんなところだ」
「他人の空似ってやつだろ。あんた、名前は?」
「梨花」
「へぇ、いい名だ」
男は素直に褒めたのだろうが、蓮章の顔は浮かなかった。
「俺は、|慎《しん》。街ではそう名乗ってる」
「ここの大旦那の寵妓と聞いた」
蓮章には、他人の過去に首を突っ込む趣味はない。だが、ここまで自分にそっくりな相手となれば、多少の興味が湧いてくる。
「まぁ、そんなところだ」
男はぼそりと、
「よくある話だ」
「よくある話、か」
蓮章は思わず、自分の昔を思い出した。軍部に移って間もない頃、上官の嫌がらせで仕事中に花街に放置された。幼かった蓮章は、自分の身を守る術もなく、あっさりと帯を解かれた。
あれが全ての始まり……よくある話、だ。
「俺のことより、あんたのこと、聞かせろよ」
慎は脇の膳から盃に酒を注ぐと、慣れた手つきで、蓮章に差し出した。受け取りはしたものの、蓮章は口をつけず、黙って揺れる酒を見つめる。
慎が意地悪い微笑を浮かべた。その表情はよく似ているものの、蓮章よりも毒気が強い。
「まさか、飲めないとか言わねえよなぁ」
挑発的な声にも、蓮章は応じなかった。ただ物憂げな、興味のない顔だ。
「わざわざ高い金を出して、こんな部屋まで買い上げて。あんた、一体何をしたいんだ?」
慎の問いに、蓮章は小さく、
「むしろ俺が聞きたい」
「なんだよ、それ?」
「さぁ、な」
蓮章の言葉に嘘はない。
特に何がしたい、ということもない。
ただ、気になった。
それだけだ。
「しいて言うなら、忘れたかった」
言って、蓮章は酒を煽った。一息である。
慎がにやりとする。その笑みは、やはりどこか蓮章とは違う。二人は似て非なるものである。
慎は黙って酒を継ぎ足し、さてどうする、という目で、蓮章を見上げた。上目遣いに色気が滲む。蓮章のほうは表情一つ変えず、また一息で飲み込む。ためらいも味わいもない。
何度か勧めては飲み干し、勧めては飲み干していくうちに、慎の顔に呆れが浮かんだ。
「あんた、少しは味わったらどうだ? こんないい酒、もったいねぇ」
「なら、おまえが飲め」
蓮章は盃を差し出した。
「じゃあ一杯」
受け取り、慎は酒を口に含んだ。予想以上の強さに目を見開く。どうにか飲み込んだものの、喉が焼けて思わずむせかえる。
「あんた、こんな酒、よく平気で……」
咳き込みながら、慎は蓮章を睨みつけた。
「別に」
蓮章には、酔った素振りもない。それどころか水でも飲むように何事もない顔をしている。
悔しそうに、慎は顔を歪めた。
「あんた、酒、強いんだ」
どこか負け惜しみのうかがえる声で、慎は次の一杯を差し出した。
「強い弱いじゃない」
蓮章は興味が失せた顔で、
「酔わない」
「酔わない?」
「効かない」
慎は眉をひそめた。
「酔って忘れたいことがあるから、飲んだんじゃないのか?」
「おまえが勧めたから飲んだ」
「なんだよ、それ」
「おまえこそ、客に対する態度じゃないな。よくそんな調子で、勤まるもんだ」
「お生憎様。普段はもっと……」
言いかけて、慎は話題を変えた。
「あんた、ずいぶん慣れてるな」
蓮章は黙って、部屋のすみの行灯を見つめた。
酒も薬も効かない自分は、辛いことがあるたびに色に逃げ込む。気づけば、すっかり馴染んでいた。
「女より、男が好きか?」
慎の軽口に、蓮章は少しの間、沈黙し、
「別に、こだわりはない。男でも女でも、抱きたいと思えば抱く、抱かれたいと思えば抱かれる」
蓮章の口調にはいやらしさがない。すべてをさっぱりと割り切り、諦めた声だ。慎はそっと膝を寄せて、蓮章の腕にしなだれかかる。そのまま、酒を注ぐ。
蓮章はゆっくりと盃を揺らした。それからあっさり飲み、またうつむく。慎は目を細めた。黙ってまた酒を注ぐが、その量は少し加減する。
まるで、毒を飲ませている気分になる。
次々と盃を開ける蓮章が、死に急いでいるように思われて、ついに、慎は酒瓶を置いた。
「もう、やめておけ」
おとなしく、蓮章は盃を脇に置いた。その仕草には、一切の執着がなかった。
油灯の皿が、ことりと揺れる。その刹那、慎は蓮章を床に押し倒した。無言で蓮章の両脚を割って、腰を埋める。唇に指を添え、その形をなぞる。遠慮なく顔を寄せて、慎は蓮章を見下ろした。
そこには、うつろな無表情があった。このまま好きにしても抵抗はされない気がしたが、蓮章が望むものが色欲ではないということは、その冷めた目が明らかに語っていた。
慎はしばし迷った。
自分の体には、すでに火種が生まれている。実体のある鏡像を突きつけられ、どこか幻惑に迷う心地がする。蓮章の灰色の目が、すっと動いて慎を射た。ただそれだけで、慎の中で何かが弾ける。
欲しい。
蓮章は自分を狂わせる。それは直感だった。
額を重ねて吐息を浴びせ、慎はほくそ笑んだ。
「すげぇな。自分と同じだってのに興奮する」
唯一、異なる左の目をじっと覗き込む。部屋の中のわずかな明かりを映して、それは澄んだ水底から水面を見上げるきらめきをたたえている。
「あんたの目、すごくきれいだ」
「興味ない」
蓮章は冷たくつぶやいた。
「俺の努力で得たものではないから」
「なら、こういうのは親に感謝しろってやつか?」
蓮章は眉一つ動かさず、だが、心の中では耳を塞いだ。出自のことは考えたくなかった。
慎の喉がごくりと鳴る。
蓮章の、白い首の線、覗く鎖骨と、緩やかに沈み込む腰。柔らかそうな尻からすらりと伸びる脚が着物の裾から覗いて、膝頭が白く行灯の光に揺れる。
「あんた、色気ありすぎる」
顔の似る似ないではない。存在そのものが圧倒的に違う。
慎の手が蓮章の耳にかかる。柔らかく噛まれ、思わず、蓮章の肩に力が入る。くぐもった息が、一瞬漏れた。それが快楽へとつながるものだと、慎には読み取れた。
蓮章はあくまでも客である。そして、自分は男妓であり、男娼である。
慎は自分の立場を理解していた。だが、理解はしても納得はしていない。それが隠し切れない苛立ちとなって、指先に現れてゆく。自分と同じ姿をしながら、自由に振る舞うことが許される蓮章は、失ったもう一人に自分のように思われた。
慎の唇がそっと蓮章の左瞼に落ちる。反射的に目を閉じ、蓮章は構えた。この目は、どうにも相手の興味を誘ってしまうらしい。過去にも何度かそんなことがあった。
髪を染め、化粧で肌の色を誤魔化しても、瞳だけは隠せない。
慎は舌を伸ばして瞼を撫で、それから睫毛をたどって目頭から目尻へと往復させる。少しずつ舌先が瞼を押し上げ、眼球へと伸びる。痛みに、蓮章は慎の腕を強く握った。同時に声が出る。短い悲鳴が、慎の欲望を加速させる。
慎は遠慮なく、蓮章の着物に手をかけた。肌触りはやけに良い。蓮章が身に付けているものは、どれも高価だ。とても平民の若者ではない。花街に繰り出すよりも、自分の邸宅に妓女を呼ぶ方が合っている。
張りのある襟が指の腹に柔らかく触れる。わずかに香の匂いがあった。
たどればたどるほど、蓮章の体は自分よりはるかに美しかった。肌が吸い付く心地よさにくらくらとする。
この身体を……
慎の血が滾る。たまらなくなる。なぞる手が止まらない。襟を緩め、指を胸元へと這わせて開いた。白い喉に唇で触れる。そこは甘く柔らかだった。しっとりと冷えて、さらりと滑る。
命ある男の肌ではない。まるで何もかも捨て去って、放り出された抜け殻のようだ。それだというのに、あまりに生々しい。
これが、最後だ。
理性を振り絞って、慎は体を起こし、上から蓮章の顔を覗き込んだ。
「抱きたいか? 抱かれたいか? それくらい教えてくれ。俺も商売なんだぜ」
感情のない蓮章の目は、ただ開かれたまま、天井に向けられていた。
「好きにしろ」
「…………」
「忘れられたら、それでいい」
蓮章の言葉は、慎の自制心を握りつぶした。
「ああ、そうかよ」
まるで、後ろめたさを投げ捨てるように、慎は吐いた。
直接仕込まれているとあって、慎の手つきは確かだった。蓮章を確実に暴き、その性癖を飲み込んでいく。重ねられた腰の間で二人分の熱が疼き、荒く息づいた。
蓮章の体は無造作に跳ね、拒絶と渇望の間で揺れた。
こんな抱かれ方はまちがっていると思いながら、求めていく自分がいる。
与えられる感触に、蓮章は素直に流された。一度堰を切ってしまえば、後は相手が誰であろうと叶わなかった。目を閉じて何も見ない、むさぼるようにただ慎の体を引き寄せ、自らを差し出してゆく。それは酒を飲み干す感覚と似ていた。望んで、刃の下に素肌をさらす自虐。
艶めいた声、熱を持つ吐息、すがりつく腕、波打つ体。
先ほどまでの無表情と静けさが吹き飛び、狂ったように啼いて身をよじる。
蓮章の乱れように、慎は初めての不安を感じた。このまま、自分はこの相手を殺してしまうのではないか。そんな恐怖や罪悪感とともに、それもまた味わってみたいという危うい欲望が抑えられない。それは元から慎の内側に潜んでいたのか、それとも蓮章から与えられてしまったのか定かではなかった。
止められない。
冷静な自分と、熱く欲する体との差に戸惑いながら、求めるままに、求められるままに慎はひたすらに溺れた。
声が部屋を満たしていく。
口数の少ない冷静沈着な相手だと思っていた蓮章が、腕に収めた途端に豹変する。
そのさまに、慎の中の野生が呼び覚まされる。煽られていると自覚しても、抗えなかった。どこまでも掻き乱されて、自制が効かない。支配しているのは、自分であるはずなのに、何もかもを奪われている。それすら心地良い。
どれほど深く求めても、蓮章は答えた。拒むどころか、求める以上に無防備を突きつけてくる。
この相手は、危ない。
心の底でそれを感じながら、それでも慎は止められなかった。ほつれた糸の端を、延々と引かれていく布のよう。自分がバラバラに解けてゆく。その果てには何も残らないというのに、それでも立ち止まることはできなかった。
どうせなら、全てを見たい。どうせ、何もない自分ならば。
心の中に巣食っていた復讐心も、この世に対する憎しみも、どこか歪んだ欲望も、目を背けた悲しみも、手放せずにいたひとかけらの希望も、何もかもが消え去り、ただまっさらな黒い光の中で身を任せる。行き先すらわからぬままに漂う。
不安なはずなのに、それがあまりにも心地良くて、慎は抱きながら抱かれていた。
快楽の沼、情欲の泉、愉悦の滝。全てが美しく、めくるめく揺動の中、蓮章の声と、体のぬくもり、じっとりと絡まる汗に淫靡な香りが混じる。
慎はひたすら、感覚の全てで蓮章を求めた。
この人の全てが欲しい。それは男娼として過ごした数年間で味わったことのない、いや、生涯で味わったことのない渇望だった。
これが人を抱くということか。
妙に達観した気で、慎は深く体を埋めた。体の奥まで届く蓮章の喘ぎが肌を伝い、震え、吐息が絡まる。唇を己の唇でさらに塞ぐ。熱が溢れ、呼吸が一つになる。
鏡写しの愛撫。
高まりが蓮章の声の響きに現れて、慎もまた頂きを求める。
自らの血の流れが耳を弄して聞こえ、心音が頭の中を支配した。胸の律動が時を刻んでゆく。永遠にも続くと思われたその時間は、やがて互いの体の限界を持って、二人を打ちのめした。
「りょう……」
言葉にならない声の中、ひたすらに蓮章に沈んでいた慎が、最後の瞬間にその名を聞いた。
蓮章が何を抱いてここへ来たのか。
必死に忘れようとしていたものの正体が、ようやく、慎にも理解できた。
この闇夜の中で、ほんのわずかな間だけ、逃れるために。
蓮章にかけるべき言葉が見つからない。
息の乱れを言い訳に、慎は黙った。
すっかり溶けて馴染んだ蓮章の胸をに顔を埋めて、慎はゆっくりと瞬いた。
心地いい。
たけり狂った嵐がすぎて、心も体も信じられない程に凪いでいた。
雲ひとつない青空を、久しぶりに見た気がした。眩しくもなく、暗くもない。吸い込まれ、どこまでも落ちていく虚無を思う。
蓮章の呼吸と鼓動が、押し当てた耳から直接聞こえてくる。次第に静まっていくそれは、自分のもののようでもあった。
慎の指先が、蓮章の肌をくすぐるように辿る。汗で滑り、冷たさが忍び入る。
余韻にひたる慎の体が、不意に押しのけられた。
蓮章は、床に広がった着物をそのままに、素足で牀に歩むと、帳を開いて褥に体を投げ出した。鈍い音がして、しなやかな背中が布に沈む。天井の赤い提灯の明かりが、吹き込む風にかすかに揺れて、妖艶にその肢体を照らし出した。二人分の体重を支えて圧された背中が、赤らんでいた。
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