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深紅(3)

 慎は黙って後を追い、蓮章の隣に横たわった。広い牀は、二人が手足を広げても充分である。蓮章の背にそっと頬を寄せる。すでに身体は落ち着いて、吐息すら聞こえない。  慎が寄り添ったことに気づいているだろうに、蓮章は振り返るどころか、一声も発しなかった。まるで、一切の興味をなくしたように、存在を消し去る。  手の中にあると信じていたものが、木っ端微塵に吹き飛び、空っぽの記憶と置き換わる。  慎の心がざわめき、足場をなくしたようにぐらついた。こらえきれず、蓮章の脇腹に腕をかける。先ほどまでとはうって変わって、そこは冬の石のように、冷たく手のひらに触れた。  振り払われることはなかったが、受け入れられるわけでもない。  つい、数刻前までは知らぬ仲、一夜の相手。朝日が昇れば二度と会わぬ人かもしれない。  それを承知のはずなのに、慎の目には、にわかに涙が浮かんだ。 「誰だ?」  掠れた声で、慎は言った。 「『りょう』って、誰だ?」  脱力していた蓮章がわずかに反応した。  慎に背を向けたまま息を吐き、未だ朦朧としながら、それでも確かにためらいと、隠そうとする意思が見えていた。 「あんたの、想い人か?」  蓮章は答えなかった。  慎は、目の前にある柔らかな肌に唇を押し付けた。こんなにも重なるというのに、触れられないものがある。  舌を伸ばして、汗のひいた肌を啄む。甘やかな刺激に、蓮章の肩が静かに上下する。その動きに乗りながら、慎は少し腰を揺らした。  だが、それきりだ。  蓮章は答えず、慎もそれ以上は問えなかった。  夜は更けてゆく。  時は無情に朝に向かって行く。  ひとつ、またひとつ、行燈の油が燃え尽きる。最後の炎が細い煙になって宙に消え、星あかりだけで満たされた部屋で、慎は、蓮章を美しいと思った。  そっと手を伸ばし、その髪に触れる。柔らかく、ひやりと指に絡む。その髪をもて遊び、撫でつけて、耳の後ろからうなじをたどる。  何事もないように、蓮章は動かない。 「なぁ……」  慎は頬を寄せた。  蓮章の肌から、酒の匂いが漂う気がした。 「もう、眠るのか?」  煽るような慎の言葉にも、蓮章は応じない。  少し不安そうに、慎は首をかしげた。 「何もする気がないなら、せめて話くらい、させてくれ」  慎は精一杯に軽く言ったが、泣き声のように震えていた。蓮章に触れているだけで、心が和らいでゆく。叩き込まれた肉欲ではなく、生まれながらにして己の心が知っている、柔らかなぬくもりが少しずつ満ちていく。  失いたくない。  また、涙が込み上げる。 「俺は武官の子だった」  秘密を打ち明けるように、慎は囁いた。  娼妓が自分の過去を語ることはない。  慎の言葉の重みが、幾重にも重なって蓮章を包み込んだ。 「何もかも、皇帝に壊された」  本当に眠っているのか、蓮章からの反応はない。それでも、慎はひとり、続けた。 「俺は、必ず、仇を討つ……」  一度、息を継ぎ、 「あんたが、敵じゃないといいけれど」  それきり、慎は黙った。ただわずかに、蓮章の髪が揺れたような気がした。  蓮章は暁隊、涼景は右近衛。昼間はそれぞれに役割を果たし、夕刻には慈圓の屋敷に戻る。その後、蓮章の離れで、一日のことを話しながら揃って夕食を取るのが習慣になっていた。  ここ最近、遅くなるのは、決まって涼景の方だった。  待つ間、蓮章は二人分の夕食が冷めていくのを眺めながら、その日の出来事を几帳面に小さな字で木簡に記していた。  出来事を整理し、少しでも短時間に効率よく涼景に伝える。仕事のために裂く時間は少ないほど良い。  そして残された時間で、くだらない話をしたかった。  それだけが、自分を生かす糧であり、生きる喜びだった。  どんなに疲れていても、離れの入り口に近づいてくる足音を、蓮章は敏感に感じた。  今日も、音に気付いて、ふっと肩から力を抜き、張り詰めていた表情を和らげる。  扉に目をやると同時に、静かに開かれ、夕焼けの向こうに、涼景のしなやかな体が見えた。  安心感が蓮章を包む。  自分を待ち望む蓮章の顔を見て、涼景は苦笑した。 「毎日毎日、戦帰りを迎えるような顔しやがって」 「似たようなものだろう」  蓮章はすねたように口をとがらせた。 「戦場より危ねぇ場所で戦ってんだから」 「戦っていると言えば戦っているが」  涼景は向かい合って、膳を挟んで座った。 「先に済ませてくれて構わないのに」 「お前と一緒じゃなきゃ嫌だ」 「何を子どもじみたこと」 「子どもじゃないから言ってるんだ」  一瞬、涼景の動きが止まる。 「まぁ悪い気はしない」  涼景は返答を濁した。  蓮章の杯に酒を注ぎ、それから自分にもつぐ。二人で箸を取る。一日の中で、唯一、ゆっくりと流れる時間だった。  栗入りの新米の飯を手に、涼景は渋い顔をした。 「甘い飯はどうにも……」 「好き嫌いを言うな。俺だって泥臭い魚は苦手だ」  言いながら、蓮章は醤煮の鯉をつついた。  屋敷の調理人は、二人に同じ献立の夕膳を出す。それは大抵、両者の好物と苦手が半々だった。幼い頃から二人を知っている調理人は、二人の偏食を重々承知していた。 「最近、おまえの好みが出すぎてやしないか?」  不満そうに、涼景は栗を蓮章の皿に選り分けた。 「そんなことはない」  里芋を器ごと涼景に押しやって、蓮章は笑った。 「大根の葉漬けが二日続いただろ」 「あれは体にいいから、少し食え」 「苦い」 「甘ったるい蜜煮よりましだ」  共に育って、こうも違うものか、と、彼らの好みは反していた。幼少期はこれが原因で他愛のない喧嘩もよくあったが、今となっては懐かしい笑い話である。 「今日のぶん」  蓮章は余計に増えた栗を頬張りながら、先ほど仕上げた木札を涼景の膝の横に置いた。采配を必要とすることがらについて、一問一答で涼景の答えを引き出していく。涼景は蓮章の報告に合わせて、一つ一つを丁寧に答えた。  仕事の話はいつも、蓮章からだけである。  涼景が抱える近衛内部のことがらは、極秘のものが多かった。  蓮章は報告を終えて、一言付け加えた。 「たまには暁に顔を出せよ。あいつら寂しがってるから」  涼景の箸が迷う。 「あいつらが寂しがる?」  戸惑ったように笑って、 「俺がいなくて、羽を伸ばしてるんじゃないか?」 「冗談にもなってないぞ」  蓮章の声には、わずかに苛立ちがあった。敏感にそれを感じて、涼景は蓮章を見つめた。 「涼、おまえがいないと暁は覇気がない。俺じゃあいつらをまとめられても、やりがいを感じさせてやることはできない」 「別に俺がいたって同じだ」 「同じじゃない」  蓮章は箸を置いた。夕食時には珍しく、背筋を伸ばして真剣な顔で涼景を見る。 「まさかとは思うが……おまえさ、暁を見放すつもりか?」  かすかな動揺が、涼景の全身に走る。 「見放すってなんだよ?」 「どうなんだ?」  蓮章の追求は容赦がない。涼景は観念し、息を吐いた。 「俺だっていろいろ考えてきた。だが、暁と近衛、両方を同時に見ることはできない。どちらも中途半端になる。俺がこの現状では、お前が暁を見ているのが一番いいと思う。もう、それしかないだろう」  蓮章は、息を吐いた。 「一時的には、な。だが、長くはもたない。少なくとも、暁はダメになる」 「ダメって事は無い。おまえがいるんだから」 「忘れるな。暁は燕涼景個人を慕って集まった連中だ。俺じゃない」 「…………」 「行儀よくまとめられ、組織化され、誰が上についても文句を言わない近衛とは違う。あいつらはおまえの下でしか働かない。あいつらにとって、おまえが喜ぶ顔を見るのが一番の報酬だ。おまえの役に立っている。それだけがやりがいなんだ。そういう連中なんだって、わかってるだろう」  涼景の顔が沈んでいく。蓮章もどこか苦しそうに目元を歪めた。 「今のあいつらは、見ていてかわいそうだ。いつも俺に尋ねる。仙水は元気か、って。会いたくてたまんねぇって|面《つら》でさ。今日なんか、旦次にまで嫌みを言われた。梨花は毎日会ってんだろ、って。あの旦次がだぞ。これがどういう意味かわかるだろ? このままじゃ生殺しだよ」  涼景は黙り込んだ。蓮章の言う事は正しい。  自分でも、常に後ろめたさを感じ続けている。  それでも目の前のことに追われ、精一杯だった。少しでも時間を作れば都に行けるのではないかとがむしゃらにやってもみた。だが、仕事をこなせばこなすほどに、次々と新しいものが舞い込んでくる。  疲れ切って、蓮章の報告を受けるのが精一杯だった。 「こんな状態で暁に顔を出しても、あいつらをがっかりさせるだけだ」  涼景は首を振った。 「情けない。まさか、これほど余裕がなくなるとは思ってなかった」 「だからやめろと言ったのに」  蓮章がふっとつぶやいた。素直に涼景は頷いた。 「全くだ。お前の忠言を無視したのは俺だ」 「その通り」  蓮章の言葉はきつかったが、決して涼景を責めているわけではないとわかっていた。真正面から話すのが蓮章である。  涼景は箸を止めたまま、ただじっと煮魚の色を眺めた。  その様子を、蓮章は上目遣いに盗み見た。疲れ切った涼景の顔。ここ数日、彼がまともに笑うところを見ていない。そしておそらく、自分も笑えていない気がした。このままでは本当に二人とも潰れてしまう。暁隊ばかりではない。自分たちもまた、行き詰まって呼吸ができなくなってしまう。 「涼」  蓮章は優しく呼びかけた。 「これから先、おまえはどうしたい? これからもずっと、近衛だけに生きるつもりか? それが悪いとは言わない。だが、もしそうなら、早いうちに暁は解散してやってくれ、いつまでも帰らぬ|主《あるじ》を待たせるな」  蓮章の言葉は、涼景に決断を迫るものだ。  この件に関して、涼景もここしばらく、色々と思い悩んできていた。そして、一つの方向を考え始めていた。それは暁隊を切り捨てる道ではない。しかし、現実にするには、相当に骨の折れる考えでもあった。 「思うところがあるなら、言ってくれ」  蓮章は、涼景の迷う目から、その心を覗き込む。 「あるにはある。だが、現実的じゃない」 「無理か無理じゃないかは、俺が決める」  蓮章は声を低めた。涼景の不安を包み込む眼差しは柔らかく、普段の彼らしからぬ温もりを含んでいた。 「やりたいことをやりたいと言え。俺に遠慮はするな。好きに使っていい。望みがあるなら言ってくれ。言ってくれなきゃわからない。わからなければ叶えようがない。まずはおまえの気持ちを聞かせてくれ」  噛んで含める言い方は、迷う涼景にはことさら響く。蓮章は誰より、友の性格を熟知している。蓮章の言葉遣いは静かだった。その声の端々には、強い決意と慈愛があった。それが涼景の心を根底から揺り動かす。  涼景は酒を一口飲んで、数度、自分に向かって頷いた。 「これはあくまでも、俺の理想だ。かなりの無理が生じる」 「それでも、おまえがそうしたいって言うなら、俺は乗る」  涼景は甘える瞳を蓮章に向けた。見つめられ、蓮章の心は油を注がれた炎のように、さらに優しく熱を持つ。 「涼、俺に話して。おまえの望み、俺は誰より知っていたい」  蓮章の言葉は、涼景の心に踏み込む一歩。近づく心と心を感じながら、涼景はまっすぐに蓮章を見つめ続ける。いつも鋭く光る灰色の目が、今はたまらなく甘く優しい。涼景は口を開いた。 「近衛と暁を、半分にしたい」 「半分?」 「俺はどちらか一つで精一杯だ。このままではいずれ暁を失うことになる。だが、それは嫌だ。彼らは俺にとって大切な居場所なんだ」  涼景の頬はかすかに赤らみ、指は膝を強く掴んでいた。 「幾度となく、戦場でも宮中でも俺を助けてくれた。武功を立てることじゃない。ただそばにいて笑って、他愛のない話をして……支えられてきた。俺が俺であるために必要な連中だとわかっている」 「うん」 「だから、暁は手放したくない。かといって近衛との両立は難しい。今の俺はまだ、未熟すぎる。単純に時間も足りない。力も経験も。要領も良くない」 「うん」 「両立できないとわかりながら、近衛と暁に半分ずつ、関わりたい。当然、両方が中途半端になるだろう。だから、その中途半端になった残りの半分を、蓮、おまえに頼みたい」  頷いて聞いていた蓮章の目が、ふわりと開かれた。 「それは、俺にも近衛に関われってことか」 「そうだ」  涼景は即答した。 「俺とおまえで近衛と暁を半分ずつ見る。俺にできないことが、おまえにはできる。だから二人で一つの仕事をする。互いの得意を生かしたほうが有意義だろう」 「二人で二つを掛け持つと?」 「そうだ。一人一つ抱えるよりも、余計に手間も時間も、かかるかもしれない。だが、俺はそうしたい。どちらも生かすために」

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