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深紅(4)
その提案は、文字通り自分を涼景と同等に扱うということである。半分ずつ対等なものとして蓮章の力を望んでいる。
「効率的に行うには工夫も必要だが、そこまで無理な話でもない」
蓮章は揺れる視線の先で、素早く思考を巡らせる。
「どちらも得るため、か」
「もちろんそれもある。だが、それだけじゃない」
涼景は一瞬ためらい、それから固くこぶしを握る。
「仕事のためだけじゃない。俺は全部、何もかも、おまえと二人でやりたい」
蓮章の緊張が一気に溶け、素直に驚いた表情が浮かんだ。涼景の真剣な目がまっすぐに自分に注がれている。震えが走る。
目頭に熱が生まれ、それをごまかすように目を瞬いた。
「わかった」
ぼんやりと、蓮章は答えた。答えてしまってから遅れて実感が湧いてくる。
「おまえがそうしたいのなら、俺も付き合う。おまえと一緒に生きると決めいている。望むところだ」
「相当、きついぞ」
涼景が、わずかに震える声で念を押す。
「構わない」
交差していた二人の視線が長く重なり、言葉にはならない感情がその間を幾度となく巡る。多くの思いがその視線の軌跡をたどって行き来する。脇の灯火がちらちらと揺れて、二人の影を壁に大きく映し出す。どちらからともなく、影と影は寄り添い、やがて一つの黒い影として硬く、隙間なく形を描く。
涼景の首筋に蓮章は顔を埋め、背中に回した手を引き寄せて目を閉じた。体がたぎる。涼景の体温にこれほど近く触れられる。それは蓮章にとって安心と幸福を意味する。
「抵抗するな。抑えが効かなくなる」
蓮章の言葉に、涼景は息をひそめた。
時々、着物が擦れて音を立て、蓮章の喉が鳴る。
涼景は体をこわばらせた。嫌なわけではない。だが、良くはない。なぜ良くないのかと問われれば理由は複雑だった。周囲には様々に噂が飛び交うが、蓮章と涼景が体を交えた事は一度も無い。
幼い頃から昼夜を共にし、互いに学び、睦み合い、遠慮もせずに喧嘩をした。
それでも二人の仲が崩れる事はなかった。それはおそらく、最後の一線を越えなかったからだと涼景は思う。
失いたくない相手であればこそ、守るべき領分がある。
蓮章と涼景では、その領分の捉え方が違う。重ならない限り、そこに踏み込む事は無い。
灯火が映し出す影は、やがて静かにほぐれた。
「心配するな。おまえに手出しはしない」
蓮章の沈んだ声が、床に落ちる。
「痕を残さぬよう、上品になどできないから」
その言葉の裏には、涼景が宝順のものであるという前提がある。それが涼景の心をやけに引っ掻いた。蓮章に触れた肌が熱い。体はしびれ、忘れたくない感触だけが残されていた。
返事をすることもできず、ただ視線だけを蓮章に送る。
うつむいたまま、表情を見せずに蓮章は言った。
「俺はいつだっておまえを連れて逃げる覚悟がある。それだけは覚えておけ。それを忘れずにいるなら、後はおまえの好きにしろ」
たまらなさで、涼景は唇を噛んだ。
蓮章はそっと立ち上がると、庭に面した戸を細く開いた。あたりは暗く沈んでいる。まるで自分たちの未来を覗き見るようだった。
「時は、いつ満ちるのだろうな」
長い沈黙の後、ささやくような蓮章の声が聞こえた。見上げる空に、まだ月は出ない。
「俺もその時を待っている」
涼景が静かに言った。
「今、宝順帝を倒しても後を継ぐべき者がいない。第一親王も第三親王も、皇帝の器ではない。残る希望はただ一つ、第四親王だ」
蓮章は目を伏せた。
「だからこそ、おまえは近衛を志願した」
「ああ。とは言え、玲親王はまだ十四だ」
「来年、都入りしたところで十五、か。何も知らぬ少年が王者の器かどうかなど、容易に測れるものでもなかろう」
「わかっている。そこからさらに時が必要だろう」
言って、涼景は立ち上がった。こちらに向けられた蓮章の背中が、わずかに細くなった気がする。肩の触れる距離まで歩み寄り、揃って庭に目を向ける。蓮章がそっと息を吐く。
「涼、おまえは、いつまで待つ気だ?」
「せめて半年。もし、玲親王が皇帝を継ぐにふさわしいのならば、俺も腹をくくる。そうじゃなければ、おまえと逃げる」
弾かれたように蓮章は振り返った。
逃げる。
いかなる時も決して引かない涼景が、その言葉を口にしたことに驚きが隠せなかった。
涼景は思わず苦笑いを浮かべた。
「なんだよ。連れて逃げてくれるって言ったのは、おまえだろ?」
蓮章は黙って首を横に振った。
「ああ、連れて行く」
蓮章はわずかに笑んだ。
「俺はどちらを願えばいいんだろうな。祖父の宿願を果たして行動に出るか、それとも、己の想いのままにおまえをさらうか」
「さぁ。どっちに転んでも、おまえに悪い話じゃない」
いつしか、涼景の顔色は良くなり、重苦しい暗闇から抜け出した気配があった。
自然と蓮章は拳を握った。心はすっかり涼景のものだった。それを、折あるごとに思い知らされる。
「蓮、玲親王が使えるやつかどうかは、おまえが判断しろ。おそらく俺は、基準が甘くなる」
「いいのか? 俺は厳しいぞ」
「それが願いだ。おまえと俺だけじゃない。多くの者の命を賭けるんだ。厳しく見なくてどうする? 俺にできないことをしてくれ」
蓮章はやんわりと笑った。
「わかった」
自分たちの関係が補完であるということを、互いに心得ていた。補い合って、二人で二人。近衛も、暁隊も二人で二人の将となる。自分たちにふさわしい形に思えた。
未完のまま、不完全なまま、立つ。
涼景は蓮章と共に暗い空を見上げた。その曇天はどこまでも闇で、そして、その奥に希望を隠しているように見えた。
蓮章が花街を訪れるのは、主に二つの場合である。
一つは心が傷ついたとき、もう一つは仕事と言う名目が立つ場合。
だが、今日はそのどちらでもない。
しくじった!
蓮章は珍しく反省した。
今朝、暁隊の詰所で忙しく動いている時、偶然、自分の襟元が薄いことに気づいた。蓮章はいつも襟を二重し、その間に数種類の薬を隠し持っている。薬と言っても、癒すためのものではない。主に麻痺や呼吸困難、心停止まで伴う激薬の類である。武力が伸びない蓮章にとっては、自分の身を守るための大切な武器だ。
襟の感触が普段と違うことに気づき、一瞬、頭が真っ白になる。心当たりは一つしかなかった。先日の花街、慎との一夜である。家の外で着物を解いたのは、あの時が直近だった。慎の鋭く、油断のならない目が蘇った。毒薬が彼の手に渡れば、何に使われるかは知れなかった。
蓮章は、暁の仕事にけじめをつけ、急ぎ花町へと向かった。
この時間帯、街は眠りの底である。昼間の白い光は、通りの景色を間延びして見せる。枯れ草が風に煽られて足元に絡む音さえ、曇って聞こえた。
蓮章は早足で、人のまばらな道を急ぎ、まっすぐに目的の大店へ向かった。
丁場に座り、開店前のひと時を過ごしていた若い采は、いきなり入り込んできた蓮章を見て、面倒くさそうにため息をついた。
「あんた、まだ開けてないぞ」
「客じゃない」
蓮章は事務的に、
「ここの男妓、慎に用がある」
「だから、まだ開店していない」
「だから、客として、じゃない」
蓮章は苦い顔をした。新人らしいその采は、融通が利かない。のほうでも蓮章を知らないと見えて、不機嫌な態度を隠さなかった。
「第一、慎は今日、いない」
「いない?」
采は意地の悪い笑みを浮かべた。
「大旦那の供で、宮中の宴に出るんだとさ」
「宮中の?」
蓮章は眉間のしわを深くした。
「随分真剣な顔で女装して行ったぞ。ありゃ、皇帝陛下に仕掛ける気だな。残念だが、陛下のお手つきになりゃ、もう、あんたには手の届かない……」
「着物を売ってくれ」
「ハァ?」
采は目を丸くして蓮章を見た。
蓮章は男の手に、|銀子《ぎんす》を押し付けた。
「今日、慎が着て行ったのと、同じ着物だ」
宝順帝が、いかに悪趣味な催しを好むか、涼景は何年も前から見せつけられてきた。その結果、今や、涼景自身も心を壊され、心と体が不一致に陥る違和感に悩まされている。それは右近衛隊副長に就任してからも変わることはない。それどころか、宝順の狂気はより一層、我が身に迫る危機として、日常の仕事の中に当たり前に存在した。
中央区の聚楽楼は、宝順が天輝殿を離れ宴に興ずる場所として、度々利用される楼閣である。黒塗りの、一見、質素な門構えだが、その奥に建てられた建物の内装は際立って華やかだった。
鏡や螺鈿細工を施した壁は、互いを映し、無限の空間を演出する。壁に掛けられた油灯台と香炉に火が入ると、大広間は途端に禍々しいまでの熱を帯びた。二階の高さにぐるりと巡らされた回廊には、下の広間へ向けて美しい布飾りが垂れ下がり、赤かっ色の床板にゆらゆらと影を落としている。
入り口の正面に広い台座があり、そこに、宝順の席が設けられている。席からは楼内のすべてが見回せた。
今宵、宝順は宴の準備を一人の商人に任せていた。最近、花街で権力を振るっている男である。身寄りのない者を囲い、自分の商品として育て上げるしたたかな人物であった。
拾った者は、見目が良ければ娼に、才能があれば芸妓に、そうでなければ下男下女として働かせた。必要以上の知恵は与えず、反抗があれば即座に懲罰を下した。恐怖で押さえつけるその手法は、宝順にも通ずるものがあった。
今宵、彼が営む妓楼から、よりすぐりの者たちが聚楽楼に集められた。
警備に当たりながら、涼景は、幾度かのため息を漏らす。昼過ぎに聚楽楼に入った妓女たちは十二名、給仕の下働きが七名。そこに宝順と商人、右近衛隊長・英仁と十八名の近衛隊士。宝順に招かれた官吏は十三名。
涼景は入り口近くに立ち、中と外との連絡のために耳をそばだてながら、宴の様子に目を光らせていた。
壁際に作られた席にずらりと客が座り、その前には色どり豊かな料理が並べられている。食器も食材も、上等なものばかりである。
金色の盃に、花弁を浮かべて酒を味わう。
酒と料理の匂いの中、中央では芸妓の舞と音楽が披露された。琴が震え、笛が鳴り、鼓が響く。客たちの要望に合わせて、次々と楽と舞が披露される。芸妓たちは色とりどりに着飾り、薄布をはためかせ、髪には白や真紅の艶牡丹の花を飾っていた。曲の合間には酒をついで周り、酔った客に抱かれて甲高い声を上げる者もいる。芸妓と言っても、今宵は女郎も兼ねていた。
華美な衣装が鏡に映って、けばけばしく目に痛い。壁際には、遊郭を思わせる金の細工や、扇飾り、赤い衣をあしらった紐などが飾り付けられ、それらが不規則に揺れて、余計に騒がしく思われた。
料理の匂いに色と喧騒が混じり合う。香炉から流れてくる煙が気分を高揚させつつ、淫靡な空気があたりに漂う。
台座の宝順帝の隣には、一歩下がって、商人の席が設けられている。表向きは、花街の経済と雇用を支える中心人物だが、裏では宝順との癒着があった。部屋の隅には、商人が持ち込んだ献上品が、隠すことなく高々と積み上げられていた。
騒々しさで頭痛がする。
涼景は顔色一つ変えず、ただ、胸の中で不平を漏らした。
派手なだけの宴の模様は、すべて、商人の趣味によるものだ。長く宝順を見てきた涼景には、これが皇帝の好みではないことがよくわかっていた。
商人としては、名誉ある仕事を果たして誇らしいだろう。だが、この宴の正体は、商人を社会的に抹殺するために用意された茶番だった。力を持ちすぎた者は、例外なく、粛清を受ける。
宝順としては、理由など何であろうと構わない。難癖をつけ、その財産もろともすべてを奪えればそれでよかった。いや、むしろ財産よりも、そのような境遇に接して絶望する商人の姿を見ることこそが、愉しみなのだ。
涼景同様、この状況に不満を抱く者がもう一人いた。
厳しい顔で腕組みをしたまま、睨みをきかせている初老の男、慈圓である。立場上、やむなく顔だけは見せたといったところだ。
くだらぬ。
今朝まで、慈圓はぶつくさと繰り返していた。華やかな舞も美しい楽の音も、匂い立つ料理も珍しい美酒も、慈圓には何もかもが気に入らない。すべては、宝順の猿芝居の片棒を担がされていることにある。
それは宝順も同じだった。何かと口うるさい慈圓は、宝順にとっても面白くない人物である。しかし同時に、その観察眼は鋭く、また、宮中での発言力もある。このような酒の席に招くには、好都合な人材である。酒で緊張が解け、気が緩んだ隙に漏れる謀反の影を、慈圓は鋭く見抜く。それは宝順にとって有益な情報である。そして結局、情報戦を得意とする慈圓にとっても、材料を仕入れる格好の場となるのだ。
皆、ばかし合いばかりだ。
涼景は、我が師匠のことながら、思わず肩を落とす。
騙し騙され、利用し利用される。宮中では、誰もが自らの権威の保持と出世、他人の失脚を狙う望みを抱く。
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