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深紅(5)
その繰り返しに、嫌気がさしてくる。
一同に酒が回り、音楽と話し声とが溶け合い、靴音がその隙間を埋める。笑い声が高く響き、そこここに、痴態を晒す者も現れる。
涼景はちらりと英仁を見た。警備の隊長として采配を振るう英仁は、乱れた様子もなく、帝のそばにつき、その挙動を見守っている。
今のところ、混乱は無い。
だが……気になる。
色鮮やかな美女たちの中に、涼景の目を引く一人がいた。身に付けるのは、女物の着物ではあるが、明らかに男である。それを隠す事はせず、逆に、大きく襟を抜き、あらわにした胸筋や喉の凹凸が、かえって男であることを際立たせている。
薄色の淡い金色の深衣に、濃い紅の裳を身に付け、髪にもまた真紅の牡丹の生花を挿している。長く額から頬にかかるみだれ髪が、その色気を強調していた。二重に巻いた帯の大きな結び目が、わざとゆるいのは、どこか蓮章を思い出させた。
似ている。
着付けばかりではない。男の顔は、蓮章に酷似していた。よく知らぬ者ならば、見間違えてもおかしくない。唯一、誰にもはっきりとわかるのは、その左目が右目と変わらぬ黒であると言うことだった。
あれが以前、蓮章が言っていた男妓か。
慈圓も気づいたらしく、ときどき、様子を伺っている素振りである。
演奏の腕前の如何は、涼景にはよくわからないが、立ち振る舞いから、男には剣術の心得があることが伺われた。
まずいかもしれない。
涼景は腹の底で焦りを感じた。男の容貌に宝順も気付いているだろう。皇帝は、蓮章のことも、涼景との関係も知っている。嫌な想像は大抵当たる。
面倒なことになるなよ……
涼景は、一瞬一瞬が平穏に通り過ぎるのを祈った。
不意に扉が外から叩かれた。涼景を呼ぶ合図である。涼景は英仁と目配せし、うなずいてから外へ出た。
スッと冷えた黄昏の風が、別世界のように涼景を包んだ。室内の喧騒が遠のき、篝火の爆ぜる音が静寂を際立たせる。
夕日のかすかな残光の中、顔を布で覆い、長袍をまとった女が一人、近衛に付き添われて涼景を待っていた。
「妓女、か?」
涼景はいぶかしんだ。
商人が連れてきた女は誰一人、楼閣の外には出ていない。後から遅れて人が来るという情報も聞いていなかった。
風が女の袍の裾を揺らし、甘やかな香りが喉奥にまで感じられた。
女は上目遣いに涼景を見た。顔を覆う布の隙間から、片方だけの鋭い灰色の目が光る。思わず涼景は息を止めた。
「こちらへ」
小さく命じ、楼閣の裏手へと連れて行く。乾いた足音がいつもより耳に障る。敷地を見回っていた近衛と距離を取り、暗がりに連れ込む。
自分の体で女を隠すように立ち、涼景は声をひそめた。
「蓮、おまえ、何をしに来た?」
灰の瞳は微かな光を映して、銀色に見えた。
「詳しい事は後だ」
蓮章はあたりの気配に気を払いながら、|面纱《めんしゃ》を取り去り、長袍を脱いだ。中に隠していたのは、あの男妓と同じ、薄金と紅の艶かしい姿だった。思わぬ光景を目の当たりして、仕事も忘れ、涼景は思わず生唾を呑んだ。
「おまえの方が……」
出かかった本音を、寸でのところで堪えた。
「なるほど、俺と同じ姿の男、いるんだな?」
蓮章は苦い顔をした。どうやら、涼景をからかっているわけではなさそうだ。涼景の耳元に唇を寄せ、
「聞け。その男、帝の暗殺を企んでいる恐れがある」
「以前、おまえが言っていたやつか?」
「ああ。名を、慎。本名かどうかは知らないが」
涼景の顔が険しくなる。
「慎は皇帝に恨みを抱いている。それから、おそらく、俺の懐から毒を盗んだ」
蓮章はさらに顔を近づけた。
「まだ、時は満ちていない」
宝順を倒すことはふたりの願いでもある。しかし、時を違えても混乱を呼ぶだけだ。
「わかった」
涼景は頷いた。
「慎を捕えるか?」
「いや、追い詰めると、何をするかわからないやつだ」
「そんなところまで同じか」
「だが、俺の方が綺麗、だろ?」
涼景は思わず黙った。
「涼、俺を中へ。あいつが何かしでかす前に、入れ替わって捉える」
蓮章は、耳にかけていた前髪を指先で整えた。左目を隠すように垂らして見せる。
「これでどうだ?」
「そう、だな……」
涼景は改めて蓮章の姿を眺めた。気づかず、ため息が出る。
戸惑う涼景の反応を見て、満足そうに、蓮章は微笑した。
「緊急時の隠し通路くらい、あるんだろ?」
「……こちらだ」
涼景は敷地の隅へと案内した。草むらに小さな井戸がある。
「台座の下に通じている」
「わかった」
蓮章は身軽に井戸の岩壁の凹みに指をかけ、伝い降りていく。暗い底に姿が見えなくなってから、涼景は周囲を警戒し、大広間へ戻った。
中へ足を踏み入れると、あたりは一層騒がしくなったように思われた。
すっかり酩酊した官吏たちが、思い思いに妓女と戯れている。涼景はその中に慎を探した。
酒瓶を手に、慈圓の前に大人しく座っている姿が目に入る。
やはり、蓮の方が……
思い出して、涼景は首を振った。
「仙水」
英仁が、涼景を招く。涼景は背を伸ばし、騒ぎの中央を堂々と横切って台座へと向かった。英仁の横では、宝順帝が酒を片手にゆったりと座していた。このような席では、宝順は自ら加わるよりも、傍観することを好む。今も、人目をはばからぬ乱れた男女を、おかしそうに微笑して眺めている。
さらに皇帝の隣には、本日の主役とも言える商人が、満面の笑みを浮かべていた。
あわれな。
涼景は眉一つ動かさず、商人の末路を思った。
「仙水、あの者に気づいていたか?」
英仁は顎をしゃくって、慎を示した。
「男妓、でございますか?」
慎を振り返った視界の隅で、宝順が姿勢を変えるのが見えた。
宝順が動く。それだけで、意思とは無関係に、涼景の体は震えた。肉体にも魂にも刻みつけられている恐怖。人前で恥ずかしめられた記憶が、瞬時に蘇り、いたたまれなくなる。頬がこわばり、冷静な判断力が鈍る。これが宝順の支配であり、呪いだった。
「涼景」
宝順の声は、さらに涼景の自由を奪うようだ。それでも懸命に心を隠し、頭を下げる。
「陛下」
声は震えない。震わせない。最後の矜持は守り切りたい。
宝順はそんな涼景の苦悩など一切省みず、むしろ楽しむ素振りで唇を歪めた。
「あの者、そなたの友に似ていると思わぬか?」
宝順が、いかにも面白いという声で言う。
きた!
恐れは容易に現実にとなる。
背中に震えが渦巻いた。
大切なものに手を伸ばされたようで、心の内側から激しい焦りが湧いてくる。
触れられたくない、巻き込みたくない。
その動揺は、かすかに指先に現れる。
「呼べ、近くで見たい」
「慎、お召しだ」
商人が手を叩く。
慈圓に挨拶を済ませ、静かに、慎は宝順の前に進みでた。伏し目がちに、低く膝をつく。
「光栄に思え」
嬉しくてたまらない、というふうに商人は胸を張った。
慎は表情一つ変えず、じっと動かない。
「顔を見せよ」
商人に促され、慎は遠慮がちに首をもたげる。
宝順の視線が、慎の輪郭を撫で回す。
「左の目を隠せ」
慎はそっと髪に手をやり、前髪を寄せて左目を隠した。
蓮章と慎の唯一の違いは、その左目だ。それを封じてしまえば、誰もが見まごう鏡像となる。
「面白い。ここまでとは」
宝順が愉悦を浮かべる。
「おつぎしろ」
商人に命じられ、慎は丁寧に酒をついだ。髪に飾っていた深紅の牡丹の花びらを一枚千切り、杯に浮かべる。金に真紅の取り合わせは艶やかで、花びらはくるりと回って静かに底に沈む。
今のは……
涼景は言葉にできない違和感を感じた。
慎は黙って、杯を宝順の脇の台の上に捧げ置く。
その一挙手一投足を涼景は注意深く見つめた。蓮章が言った通りだとするならば、慎は毒を盛ったに違いなかった。
「涼景」
杯に気を取られていた涼景は、唐突に呼ばれて、ピクリと瞼を震わせた。
「は」
慎と並び、頭を下げる。いつしか頬がのぼせて、汗が一筋、こめかみを伝った。
「良い余興となろう」
宝順の声が降ってくる。
「似て非なるものがどれほど違うか。涼景、そなたの目と肌をして、確かめてみよ」
涼景の喉がヒュッと鳴る。
「陛下」
様子を伺っていた慈圓が、不機嫌をあらわに、声を上げた。
「暁どのはいみじくも警備の任を担うお立場。それを余興にあてがうとは、不用心にも程がありますぞ」
宝順はひとつ鼻を鳴らしただけで、意に介したそぶりもない。涼景はちらりと慈圓を見て、首を振った。
「|慈《じ》|僕射《ぼくや》、皇帝陛下のご意思でございますゆえ」
涼景は助けを必要としていない。
慈圓は眉をひそめ、顔をそむけて引き下がった。
逆らうことはできない。ただその一事だけは確かだった。取り乱すことも、条件をつけることも望めない。
涼景はそっと、慎の横顔を見た。ゆっくりと自分を見返す黒い右目が、親友を思わせる。熱い息が、体の奥からこぼれた。
蓮章ではない。
だが、あまりにも重なる面影が、強い酒のように涼景を酔わせる。ごくりと唾を飲み込む。
気づいていながら、気づかぬふりをし、会場の者たちが、こちらを伺っている気配がした。
誰もが面白がっている。
彼らの興味は、恥ずかしめられる慎に対してではない。弄ばれる涼景に対してである。噂を知っているのだろう、見ず知らずの妓女たちまでが、忍び笑いを漏らして、ねっとりした視線を絡めてくる。
皇帝の人形が、人を抱けるのか。
胸を刺す中傷が、涼景の耳に聞こえたように思われた。
慎は涼景に体を向けた。感情のなかったその顔に、うっすらと笑みが見えた。
「そうか、あんたが『りょう』、か?」
慎のつぶやきは、涼景を一歩、下がらせた。
りょう……涼。
その呼び方に、頭の芯が痺れる。蓮章の姿で、呼び方で、手を伸ばされ、現実と妄想とが境界を危うくする。せめてもの抵抗は、後退ること。一瞬でも、壊れる瞬間を先伸ばしにし、いたずらに時を稼ぐ。
腕は立つが、あちらは立たぬのでは?
蔑みの声が、じわじわ足元から這い上がってくる。
抱けぬどころか、真逆である。浅い呼吸と早い鼓動。体は心と裏腹に、目の前の男を欲して狂う。そして心はそれを、強靭な意志をもって抑え込む。理性を捨てきれない涼景が、肉体の欲望に翻弄されて悶える姿は、宝順の呪いが作り出した屈辱だった。そしてそんな涼景の悲劇は、その才能に嫉妬する者達にとって格好の見世物であった。
広間に、忍笑いと好奇が満ちる。
慎が一歩、涼景に近づく。怯えるように、涼景が下がる。その繰り返しを宝順は楽しげに眺めている。商人は腕を組み、にやにやと歯を見せて笑う。
台座の隅に追い詰められて、涼景は足場を失い、その場に腰を落とした。ひときわ大きな嘲りの声が起きる。この上ない、無様で滑稽な余興であった。涼景はさらに体をのけぞらせ、ずるように下がった。
もう、少し。
涼景は自身を押さえつけた。
慎は目を細め、何かをつぶやいた。熱に浮かされた涼景の聴覚はにぶり、それを聞き取ることはできない。だが、見慣れた形の唇が、自分を呼んだことは間違いなかった。
薄く微笑んだまま、慎は涼景に覆いかぶさった。抱きすくめられて、涼景が怯えた表情を見せた。あまりに哀れなその姿に、皆の興が乗る。歓声にも似た短い声に、ざわめきと手を打つ音までが押し寄せる。慈圓だけは、口を曲げてと拳を振るわせた。
焦点も合わないほど近くに、慎の顔があった。
体に染み込んだ香が鼻をくすぐる。涼景の心を包む最後のひと布を蕩かすように、染み込んでくる。
涼景は、荒い呼吸で慎の顎に手をかけた。ちら、と視線をそちらに移し、慎の笑みが深くなる。涼景の指先が、掠めるように慎の耳へと這い上がる。その先、髪を絡めて頭蓋を辿り、深紅の牡丹に指がかかる。
「!」
ゾッと、慎の表情が凍りついた。
涼景の手が、牡丹の花を掴み取る。同時に、慎の体を逆に組み敷いて、絡み合ったまま、台座と壁の間に転げ落ちる。慌ただしい音と小さな悲鳴、慎の姿が皆の視界から消える。
どっと周囲から声が上がり、これから始まる下卑た場面への期待が高まった。だが、それは涼景の鋭い一声で断ち切られた。
「陛下、その酒を召し上がってはなりません」
気圧され、情けない姿をさらしていた涼景のものとは思えない、厳しく堂々とした声色だった。 その声に導かれ、皆、宝順の手元の杯に一斉に目を向ける。
台座の陰から立ち上がった涼景は、しっかりと慎を床に押さえつけ、顔を上げた。奪い取った牡丹を一同に差し出す。
「この花の芯に|附子《ぶし》が仕込まれている。この者は陛下に毒を盛った」
酒の熱気が、一瞬で冷え、誰かが悲鳴を上げた。商人が立ち上がり、顔を真っ青にして首を振ると、宝順の足元に這いつくばった。
「陛下、そのようなことは……」
「そなたが連れてきた男妓が、朕に毒を?」
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