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深紅(6)

「間違いでございます!」  商人は涼景を指差した。 「あの者が根拠のないことを!」  涼景は、毅然と商人を見据えた。 「たとえ、この男妓一人の企みであったとしても、その責任は主人であるおまえのものだ。もし、違うというのなら、その杯の酒を飲み干せ。私が間違っていたならば、この場でどんな罰も受けよう」  先ほどまでの情けない様子が嘘のように、そこには、落ち着きを保った威厳ある涼景の姿があった。慈圓が、やれやれと首を振る。  宝順帝はちらりと商人の方を見た。唇がゆっくりと動き、 「飲め」  一言、命令が下された。  英仁が指示し、待機していた近衞が商人を押さえつける。近衞の一人が商人の口を開かせた。先ほどまでの余裕がすべて吹き飛び、商人は目で救いを求めたが、それが通用する相手ではない。別の一人が、その中に酒を注ぎ込んだ。  むせかえりながらも飲み下す。  不規則な呼吸と嚥下の音が、しん、と静まった広間に響いた。商人の目がくるりと裏返る。喉の奥から吹き出した泡に混じって、赤い血が唇に垂れた。うめき声を上げることもなく、そのまま崩れて動かなくなる。妓女たちは恐ろしそうに顔を伏せ、官吏たちは、明日は我が身かと、身を凍らせた。 「己の手駒さえ御せぬとは、情けない男よ」  英仁が小さく呟き、涼景を振り返った。 「仙水、よくやった」  涼景は台座の下から慎を引き上げ、背中で腕をひねり上げた。  絶命した商人を見ても、慎は動揺すらせず、冷たく宝順を睨みつけた。 「俺はあんたに恨みがある。だからあんたを殺そうとした。この男は本当に無関係だってのに……」 「構わぬ」  宝順は無礼な態度を咎めることもなく、鼻で笑った。 「もとより、明日を生かすつもりもない。理由など、問題ではない」  宝順は広間を見回した。  皇帝と視線が合うことを避けて、皆が萎縮して顔を伏せる。 「そなたたちも心しておけ。多くを望むと全てを失う」  少し前までの大騒ぎが打って変わって、死刑宣告を聞く静寂が満ちていた。  これは、見せしめだ。  力を持てば、涼景のように辱められる。財を築けば、商人のように切り捨てられる。  ほどほどに、満足せよ。絶大な権力を握るのは、皇帝一人で良い。  誰もが、それを魂にまで刻みつけられる。  英仁が、慎を見た。 「陛下。この者の処遇は?」  宝順は遠くを見た。 「興が醒めた。自分の毒で始末を」 「御意」  英仁は、毒酒が残る杯を近衞から受け取ると、自ら、慎の唇に当てがった。 「仙水、しっかり押さえておけ」 「はい」  背後から慎を抱きすくめ、首を固定する。  ゆっくりと盃を傾ける英仁の目に、わずかに、だが、確かな悦があって、涼景は息を止めた。  宝順に関わると、誰もが壊れていく。  それは、英仁も自分も、変わりない。 「うっ……!」  慎の声が抵抗し、体が跳ねたが、涼景は難なくそれを押さえつけた。武人二人がかりでは、慎に逃れる術はない。やがて、こくこくと小さく喉が動き、花弁を残して盃が空になる。  喉を潰す苦しみに耐えるように、慎は体を涼景に押し付けた。涼景の顔をその目に焼き付けるように、涙を浮かべて見開かれる。その目は、あまりに蓮章であった。とっさに、涼景は拘束とは別の意思で、慎を抱きしめた。  その一瞬を、二人は、見逃さなかった。  宝順の目が光り、慈圓の頬が痙攣する。  慎の唇の端から、あまりに紅い血が、一筋伝い落ち、目が閉じられる。  涼景の全身が総毛立ち、慎を支える腕がしびれて感覚を失う。 「片付けろ」 「は……」  英仁の指示に、涼景は、一瞬遅れて、反応した。ぐったりと四肢を垂れた慎を抱き、入り口に向かう。脚がもつれるように、頼りなくなる。  人々は、死を避けるようにざわめいて道を開けた。 「待て」  宝順の声に、涼景は立ち止まった。振り返ることはできず、両膝が崩れるほどに自由が効かなかった。 「その者は、本当に死んでいるか?」  涼景の目が、わずかに揺れた。 「体を開いて確かめてみよ」  広間の者達に、好奇心と恐怖が入り混じる声の波が走り、再び場が騒然として異様な雰囲気が盛り上がる。英仁は声を殺し、宝順はその反響にほくそ笑む。 「どうした、涼景。死者を慰むは、初めてではあるまい?」  がん、と頭を殴られるような衝撃で、涼景はよろめいた。過去の凄惨な光景が、強烈な体感を伴って蘇ってくる。冷たい生首、蹂躙される親友の姿、刻みつけらた頬の傷。  もう、やめてくれ!  涼景の理性が悲鳴をあげる。 「そこまでになされよ」  場の混乱を一刀する、慈圓の制止が高らかに響いた。  涼景と蓮章を想い、宝順帝の横暴を快く思わない慈圓の、限界だった。  口調こそは厳かだが、その目は見る者を切り裂くように鋭く、誰もが口をつぐむことしかできない。  慈圓は臆することなく、宝順帝の前に進み出た。見開いた目を血走らせ、皇帝の胸元に定める。 「これ以上は、陛下の臣として、見過ごすことかなわず。亡骸を冒すは民の目に重く映り、忠を尽くす暁将軍に穢れを負わせることは、陛下自身の統治を蝕む。必要な制裁は既に終わっている。この先は、統べる者の賢たるものにあらざると」  皇帝の怒りを恐れて、誰一人身動きもせず、息を潜める。止まった時間の底でため息を漏らしたのは、宝順自身だった。 「圓よ」  醒めた声が、静かに呼んだ。 「二度とそなたを、宴には呼ばぬ」 「結構。失礼する」  慈圓は、ここが引き時、と心得て、涼景を促し、聚楽楼を後にした。  焼けつく喉は、一呼吸ごとにその痛みを増した。  苦しさに呻きをあげれば、更に激痛が襲ってくる。鋭い刃の切っ先で喉を突かれる痛みに苛まれ、息をすることさえが拷問だった。  しくじった。  痛みの合間に、蓮章は繰り返し、思った。  いかに毒に強いとはいえ、少量で人を死に至らしめる劇薬を飲んでは、無傷とはいかなかった。  これ、死ぬかも……  ぞくりとする恐怖の寒さは、体を蝕む熱と共通だった。実体が失われ、心が体から分離する。  以前にも自分は死んだことがあったのではないか。そんな気さえする、懐かしい感覚だった。  これが、危ない、ってことなのか……  蓮章は達観した思いで、出口の見えない痛みと熱の檻の中に転がっていた。  誰かが自分を呼んでいる。  水の中で聞く鳥の声のように、ぼやけて奇妙に反響する。 「蓮!」  そう呼ぶのは、一人しかいない。 「勝手に行くな」  涼……  いつも心で呼びかけるその人は、閉じた瞼の向こうにいるのだ。 「一人で……行くな。俺を連れて行くんだろ!」  ああ、こいつ、バカだ。  辛くてたまらないというのに、蓮章は笑っていた。  全身が熱く、同時に冷えていた。  喉は、火がついたように熱く焼ける。 「みず……」  炎を沈めたくて、蓮章は何度も呻いた。  しびれて動かせない体を力強く支えられ、ひりつく痛みのある唇に、器が当てられる。舌も顎も、水が触れるだけで強烈に熱くなる。 「水、と……言ったのに」  まるで、熱湯でも飲まされているようだ。腹立たしさが、鼓動を余計に早くする。 「飲め」  自分の意思とは無関係に、喉に流し込まれる。味も匂いもわからない。体がこわばり、気管に流れてむせ返る。強く上半身が抱きしめられ、背中をさする手に、優しく叩かれた。すっと空気が通ると、一瞬だけ涼しさを感じたが、すぐにまた、内側から灼熱がこみ上げる。  そんなことを、どれだけ続けただろうか。  喉の熱は、ヒリヒリと収まらず、舌もうまく動かない。だが、確実に意識は混濁から抜け出し、自分が置かれている状況を認識しつつあった。  蓮章は、乾いた涙で引きつった瞼を開いた。  滲んだ視界に、陽の光が白く揺れる。 「涼……」  何より先に、蓮章はその名を口にした。無意識だった。呼んでしまってから、また、後悔する。名の持ち主が、自分を覗き込んで、両手で頬を包んできた。 「蓮、わかるか?」 「……何が?」 「俺が」 「……誰だ、おまえ」  蓮章は笑おうとして、唇が思ったように動かないことに気づいた。厚く腫れ、さらにしびれがあった。 「よかった、大丈夫そうだな」  涼景はホッと、息を吐いた。名残惜しそうにゆっくりと肌を撫でて、手を離す。  おまえこそ、大丈夫か?  蓮章は、真っ赤に腫れた涼景の目を軽く睨みつけた。 「また泣いてたのか?」 「うるさい、黙ってろ」  前にも、こんなことがあったな。  蓮章は記憶をたどったが、答えに行きつくより先に、涼景が口を開いた。 「状況を説明する。おまえは毒を飲んだ」  だろう、な。  蓮章は一度、瞬きをした。  毒の後遺症だろう。唇も舌も刺激に弱く、話すだけで痛みが走る。喉も腫れているのか、奥が塞がっているような違和感があった。 「あれから、四日経った」  瞬き。 「皇帝からの咎めはない。蒸し返されることはないだろう」  瞬き。 「師匠には状況を説明して、うまくやってもらっている」  よく知る天井は、住み慣れた蓮章の離れである。  納得して、蓮章はまた、瞬きを返した。 「事情が事情だけに、安寿様にも見せられなかった。長く苦しめてすまない」  蓮章は、視線を涼景に戻した。医者に見せないにしても、涼景自ら、薬湯を飲ませてくれていたことは、察せられた。 「それから」  涼景はさらに声を落とし、 「あいつは無事だ」  あいつ……?  蓮章の目が、問う。涼景は頷いた。 「師匠が、別室に隠してくれている。誰にも知られていない」  瞬きはせず、蓮章は天井を見上げた。  宴の大広間で行われた、狂気の茶番。その中で、涼景は慎を誘導し、壁と台座の隙間に突き落とした。それを合図に、蓮章は台座の下の抜け道から腕を伸ばし、慎を引っ張り込んだ。眠り薬を嗅がせ、自分は慎と入れ替わって、毒の盃を飲み干した。 「なぁ、蓮。あいつを殺さずに、あの場を収めるには、これしかなかったが」  涼景は褥の端を握った。 「こうまでして、生かす必要があったのか?」  蓮章は小さく、首を横に振った。 「わからない。あの顔だから、情が移ったかな」 「おまえ……」  涼景は、抵抗できない蓮章の髪を一房、指先で撫でた。 「それが、蓮、なんだよな」  涼景は安堵と、まだ少しの息苦しさを思わせる笑みを浮かべた。 「口も性格も最悪だが、情が深い。だから俺は……」  途中まで、言い返そうと身構えていた蓮章は、涼景の言葉尻で息を飲んだ。涼景に向けた眼差しが、祈りへと変わる。都合の良い期待が、胸いっぱいに騒いだ。  自分から求めることができない蓮章の弱さは、同様に臆病な涼景の弱さにすがる。互いの想いなど、とうに知れている。惹かれ、求め、触れたい。そして、それは決して許されないという帰結まで、悲しいほどに同じなのだ。  それでも。  ほんの少し、何かの迷いでも間違いでも良いから、理性の壁が崩れてくれたなら。  蓮章はその奇跡を、祈らずにはいられない。  いつ、どこで、これほどこじれてしまったのか、思い出せなかった。  沈黙し、見つめあう。  見栄を捨てねば、恋はできない。  俺はいつになったら……  間に合わないかもしれない、と、蓮章は目を伏せた。  時は有限であり、人との関係は移ろうものである。自分の心の向きが変わらなくても、涼景の心がいつまでも自分にあるという保証はない。それでも、踏み込む勇気が蓮章にはない。だというのに、踏み込まれることばかり、期待していた。  頭の隅で、涼景が決してそうは動かないと確信しながら、己を、開いて見せる。それ自体に、意味があると信じ、蓮章は隙を作り続ける。  それが、蓮章にできる、精一杯の気持ちの伝え方だった。  不意に、優しい指先や吐息が触れるのではないか。  隙と油断だけをまとって目を閉じ、蓮章は儚い期待を抱き続けていた。  翌日、症状が落ち着いてきた蓮章は、自力で牀の上に体を起こすことができた。  涼景が運んできた白米の粥を膝に乗せて、ため息をつく。涼景が気遣わしげに微笑んだ。 「まだ、痛みが辛いだろう?」 「ああ。唇も舌も、水を飲むだけで痛い」  蓮章の体に触らぬよう、粥はすっかり冷ましている。それでも痛みがまさって、味わうには至らない。 「その上、味がしない」  無表情で呟く。 「香りもわからない」 「文句が多いな」  涼景は肩をすくめた。蓮章は味覚も嗅覚も繊細で、そこに楽しみを見いだす。毒はその両方に、甚大な被害をもたらした。一命は取りとめたものの、どこまで回復するかはわからなかった。 「ゆっくりでいいさ。俺の頬の時だって、最初はほんとにもうダメだと思った。でも、そのうち……」 「別にどうでもいい」  声に力はなかったが、その口調はいつもの蓮章だった。思わず涼景は笑った。 「人が慰めてやろうって時に、おまえは……」 「気休めはいらない」 「じゃあ、何なら受け取るんだよ?」 「言えばくれるか?」

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