23 / 24
深紅(6)
「間違いでございます!」
商人は涼景を指差した。
「あの者が根拠のないことを!」
涼景は、毅然と商人を見据えた。
「たとえ、この男妓一人の企みであったとしても、その責任は主人であるおまえのものだ。もし、違うというのなら、その杯の酒を飲み干せ。私が間違っていたならば、この場でどんな罰も受けよう」
先ほどまでの情けない様子が嘘のように、そこには、落ち着きを保った威厳ある涼景の姿があった。慈圓が、やれやれと首を振る。
宝順帝はちらりと商人の方を見た。唇がゆっくりと動き、
「飲め」
一言、命令が下された。
英仁が指示し、待機していた近衞が商人を押さえつける。近衞の一人が商人の口を開かせた。先ほどまでの余裕がすべて吹き飛び、商人は目で救いを求めたが、それが通用する相手ではない。別の一人が、その中に酒を注ぎ込んだ。
むせかえりながらも飲み下す。
不規則な呼吸と嚥下の音が、しん、と静まった広間に響いた。商人の目がくるりと裏返る。喉の奥から吹き出した泡に混じって、赤い血が唇に垂れた。うめき声を上げることもなく、そのまま崩れて動かなくなる。妓女たちは恐ろしそうに顔を伏せ、官吏たちは、明日は我が身かと、身を凍らせた。
「己の手駒さえ御せぬとは、情けない男よ」
英仁が小さく呟き、涼景を振り返った。
「仙水、よくやった」
涼景は台座の下から慎を引き上げ、背中で腕をひねり上げた。
絶命した商人を見ても、慎は動揺すらせず、冷たく宝順を睨みつけた。
「俺はあんたに恨みがある。だからあんたを殺そうとした。この男は本当に無関係だってのに……」
「構わぬ」
宝順は無礼な態度を咎めることもなく、鼻で笑った。
「もとより、明日を生かすつもりもない。理由など、問題ではない」
宝順は広間を見回した。
皇帝と視線が合うことを避けて、皆が萎縮して顔を伏せる。
「そなたたちも心しておけ。多くを望むと全てを失う」
少し前までの大騒ぎが打って変わって、死刑宣告を聞く静寂が満ちていた。
これは、見せしめだ。
力を持てば、涼景のように辱められる。財を築けば、商人のように切り捨てられる。
ほどほどに、満足せよ。絶大な権力を握るのは、皇帝一人で良い。
誰もが、それを魂にまで刻みつけられる。
英仁が、慎を見た。
「陛下。この者の処遇は?」
宝順は遠くを見た。
「興が醒めた。自分の毒で始末を」
「御意」
英仁は、毒酒が残る杯を近衞から受け取ると、自ら、慎の唇に当てがった。
「仙水、しっかり押さえておけ」
「はい」
背後から慎を抱きすくめ、首を固定する。
ゆっくりと盃を傾ける英仁の目に、わずかに、だが、確かな悦があって、涼景は息を止めた。
宝順に関わると、誰もが壊れていく。
それは、英仁も自分も、変わりない。
「うっ……!」
慎の声が抵抗し、体が跳ねたが、涼景は難なくそれを押さえつけた。武人二人がかりでは、慎に逃れる術はない。やがて、こくこくと小さく喉が動き、花弁を残して盃が空になる。
喉を潰す苦しみに耐えるように、慎は体を涼景に押し付けた。涼景の顔をその目に焼き付けるように、涙を浮かべて見開かれる。その目は、あまりに蓮章であった。とっさに、涼景は拘束とは別の意思で、慎を抱きしめた。
その一瞬を、二人は、見逃さなかった。
宝順の目が光り、慈圓の頬が痙攣する。
慎の唇の端から、あまりに紅い血が、一筋伝い落ち、目が閉じられる。
涼景の全身が総毛立ち、慎を支える腕がしびれて感覚を失う。
「片付けろ」
「は……」
英仁の指示に、涼景は、一瞬遅れて、反応した。ぐったりと四肢を垂れた慎を抱き、入り口に向かう。脚がもつれるように、頼りなくなる。
人々は、死を避けるようにざわめいて道を開けた。
「待て」
宝順の声に、涼景は立ち止まった。振り返ることはできず、両膝が崩れるほどに自由が効かなかった。
「その者は、本当に死んでいるか?」
涼景の目が、わずかに揺れた。
「体を開いて確かめてみよ」
広間の者達に、好奇心と恐怖が入り混じる声の波が走り、再び場が騒然として異様な雰囲気が盛り上がる。英仁は声を殺し、宝順はその反響にほくそ笑む。
「どうした、涼景。死者を慰むは、初めてではあるまい?」
がん、と頭を殴られるような衝撃で、涼景はよろめいた。過去の凄惨な光景が、強烈な体感を伴って蘇ってくる。冷たい生首、蹂躙される親友の姿、刻みつけらた頬の傷。
もう、やめてくれ!
涼景の理性が悲鳴をあげる。
「そこまでになされよ」
場の混乱を一刀する、慈圓の制止が高らかに響いた。
涼景と蓮章を想い、宝順帝の横暴を快く思わない慈圓の、限界だった。
口調こそは厳かだが、その目は見る者を切り裂くように鋭く、誰もが口をつぐむことしかできない。
慈圓は臆することなく、宝順帝の前に進み出た。見開いた目を血走らせ、皇帝の胸元に定める。
「これ以上は、陛下の臣として、見過ごすことかなわず。亡骸を冒すは民の目に重く映り、忠を尽くす暁将軍に穢れを負わせることは、陛下自身の統治を蝕む。必要な制裁は既に終わっている。この先は、統べる者の賢たるものにあらざると」
皇帝の怒りを恐れて、誰一人身動きもせず、息を潜める。止まった時間の底でため息を漏らしたのは、宝順自身だった。
「圓よ」
醒めた声が、静かに呼んだ。
「二度とそなたを、宴には呼ばぬ」
「結構。失礼する」
慈圓は、ここが引き時、と心得て、涼景を促し、聚楽楼を後にした。
焼けつく喉は、一呼吸ごとにその痛みを増した。
苦しさに呻きをあげれば、更に激痛が襲ってくる。鋭い刃の切っ先で喉を突かれる痛みに苛まれ、息をすることさえが拷問だった。
しくじった。
痛みの合間に、蓮章は繰り返し、思った。
いかに毒に強いとはいえ、少量で人を死に至らしめる劇薬を飲んでは、無傷とはいかなかった。
これ、死ぬかも……
ぞくりとする恐怖の寒さは、体を蝕む熱と共通だった。実体が失われ、心が体から分離する。
以前にも自分は死んだことがあったのではないか。そんな気さえする、懐かしい感覚だった。
これが、危ない、ってことなのか……
蓮章は達観した思いで、出口の見えない痛みと熱の檻の中に転がっていた。
誰かが自分を呼んでいる。
水の中で聞く鳥の声のように、ぼやけて奇妙に反響する。
「蓮!」
そう呼ぶのは、一人しかいない。
「勝手に行くな」
涼……
いつも心で呼びかけるその人は、閉じた瞼の向こうにいるのだ。
「一人で……行くな。俺を連れて行くんだろ!」
ああ、こいつ、バカだ。
辛くてたまらないというのに、蓮章は笑っていた。
全身が熱く、同時に冷えていた。
喉は、火がついたように熱く焼ける。
「みず……」
炎を沈めたくて、蓮章は何度も呻いた。
しびれて動かせない体を力強く支えられ、ひりつく痛みのある唇に、器が当てられる。舌も顎も、水が触れるだけで強烈に熱くなる。
「水、と……言ったのに」
まるで、熱湯でも飲まされているようだ。腹立たしさが、鼓動を余計に早くする。
「飲め」
自分の意思とは無関係に、喉に流し込まれる。味も匂いもわからない。体がこわばり、気管に流れてむせ返る。強く上半身が抱きしめられ、背中をさする手に、優しく叩かれた。すっと空気が通ると、一瞬だけ涼しさを感じたが、すぐにまた、内側から灼熱がこみ上げる。
そんなことを、どれだけ続けただろうか。
喉の熱は、ヒリヒリと収まらず、舌もうまく動かない。だが、確実に意識は混濁から抜け出し、自分が置かれている状況を認識しつつあった。
蓮章は、乾いた涙で引きつった瞼を開いた。
滲んだ視界に、陽の光が白く揺れる。
「涼……」
何より先に、蓮章はその名を口にした。無意識だった。呼んでしまってから、また、後悔する。名の持ち主が、自分を覗き込んで、両手で頬を包んできた。
「蓮、わかるか?」
「……何が?」
「俺が」
「……誰だ、おまえ」
蓮章は笑おうとして、唇が思ったように動かないことに気づいた。厚く腫れ、さらにしびれがあった。
「よかった、大丈夫そうだな」
涼景はホッと、息を吐いた。名残惜しそうにゆっくりと肌を撫でて、手を離す。
おまえこそ、大丈夫か?
蓮章は、真っ赤に腫れた涼景の目を軽く睨みつけた。
「また泣いてたのか?」
「うるさい、黙ってろ」
前にも、こんなことがあったな。
蓮章は記憶をたどったが、答えに行きつくより先に、涼景が口を開いた。
「状況を説明する。おまえは毒を飲んだ」
だろう、な。
蓮章は一度、瞬きをした。
毒の後遺症だろう。唇も舌も刺激に弱く、話すだけで痛みが走る。喉も腫れているのか、奥が塞がっているような違和感があった。
「あれから、四日経った」
瞬き。
「皇帝からの咎めはない。蒸し返されることはないだろう」
瞬き。
「師匠には状況を説明して、うまくやってもらっている」
よく知る天井は、住み慣れた蓮章の離れである。
納得して、蓮章はまた、瞬きを返した。
「事情が事情だけに、安寿様にも見せられなかった。長く苦しめてすまない」
蓮章は、視線を涼景に戻した。医者に見せないにしても、涼景自ら、薬湯を飲ませてくれていたことは、察せられた。
「それから」
涼景はさらに声を落とし、
「あいつは無事だ」
あいつ……?
蓮章の目が、問う。涼景は頷いた。
「師匠が、別室に隠してくれている。誰にも知られていない」
瞬きはせず、蓮章は天井を見上げた。
宴の大広間で行われた、狂気の茶番。その中で、涼景は慎を誘導し、壁と台座の隙間に突き落とした。それを合図に、蓮章は台座の下の抜け道から腕を伸ばし、慎を引っ張り込んだ。眠り薬を嗅がせ、自分は慎と入れ替わって、毒の盃を飲み干した。
「なぁ、蓮。あいつを殺さずに、あの場を収めるには、これしかなかったが」
涼景は褥の端を握った。
「こうまでして、生かす必要があったのか?」
蓮章は小さく、首を横に振った。
「わからない。あの顔だから、情が移ったかな」
「おまえ……」
涼景は、抵抗できない蓮章の髪を一房、指先で撫でた。
「それが、蓮、なんだよな」
涼景は安堵と、まだ少しの息苦しさを思わせる笑みを浮かべた。
「口も性格も最悪だが、情が深い。だから俺は……」
途中まで、言い返そうと身構えていた蓮章は、涼景の言葉尻で息を飲んだ。涼景に向けた眼差しが、祈りへと変わる。都合の良い期待が、胸いっぱいに騒いだ。
自分から求めることができない蓮章の弱さは、同様に臆病な涼景の弱さにすがる。互いの想いなど、とうに知れている。惹かれ、求め、触れたい。そして、それは決して許されないという帰結まで、悲しいほどに同じなのだ。
それでも。
ほんの少し、何かの迷いでも間違いでも良いから、理性の壁が崩れてくれたなら。
蓮章はその奇跡を、祈らずにはいられない。
いつ、どこで、これほどこじれてしまったのか、思い出せなかった。
沈黙し、見つめあう。
見栄を捨てねば、恋はできない。
俺はいつになったら……
間に合わないかもしれない、と、蓮章は目を伏せた。
時は有限であり、人との関係は移ろうものである。自分の心の向きが変わらなくても、涼景の心がいつまでも自分にあるという保証はない。それでも、踏み込む勇気が蓮章にはない。だというのに、踏み込まれることばかり、期待していた。
頭の隅で、涼景が決してそうは動かないと確信しながら、己を、開いて見せる。それ自体に、意味があると信じ、蓮章は隙を作り続ける。
それが、蓮章にできる、精一杯の気持ちの伝え方だった。
不意に、優しい指先や吐息が触れるのではないか。
隙と油断だけをまとって目を閉じ、蓮章は儚い期待を抱き続けていた。
翌日、症状が落ち着いてきた蓮章は、自力で牀の上に体を起こすことができた。
涼景が運んできた白米の粥を膝に乗せて、ため息をつく。涼景が気遣わしげに微笑んだ。
「まだ、痛みが辛いだろう?」
「ああ。唇も舌も、水を飲むだけで痛い」
蓮章の体に触らぬよう、粥はすっかり冷ましている。それでも痛みがまさって、味わうには至らない。
「その上、味がしない」
無表情で呟く。
「香りもわからない」
「文句が多いな」
涼景は肩をすくめた。蓮章は味覚も嗅覚も繊細で、そこに楽しみを見いだす。毒はその両方に、甚大な被害をもたらした。一命は取りとめたものの、どこまで回復するかはわからなかった。
「ゆっくりでいいさ。俺の頬の時だって、最初はほんとにもうダメだと思った。でも、そのうち……」
「別にどうでもいい」
声に力はなかったが、その口調はいつもの蓮章だった。思わず涼景は笑った。
「人が慰めてやろうって時に、おまえは……」
「気休めはいらない」
「じゃあ、何なら受け取るんだよ?」
「言えばくれるか?」
ともだちにシェアしよう!

