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深紅(7)
蓮章の一言には、諦めが感じられた。
涼景は表情をなくして、蓮章を見つめた。
蓮章はわずかに目を伏せ、匙で粥を撫でていた。
「そういえば……」
涼景は、かすれた声で話題を変えた。
「後で、師匠が話があるって」
「また説教か」
「それより先に、あいつのこと」
「あぁ」
蓮章は匙の先で、粥の上澄みを少しだけ飲んだ。
「今後のことも考えなきゃなんねぇし」
「そうだな」
また、ひと口すくい、できる限りそっと唇から流し込む。飲み込むに合わせて、痛みが喉の奥へ落ちてゆく。余韻で舌が痙攣する。
「暁隊はどうしてる?」
唐突なその問いかけに、涼景は一瞬たじろいだ。
「なんだよ、今、そんなこと心配しなくても……」
「あいつら、どうしてる?」
涼景は黙った。
蓮章の目はどこか切実だった。呂律が回らない。それでも、少しでも、普通の会話がしたい。
その思いを感じて、涼景は心を切り替えた。
「旦次が仕切ってくれている。日に一度、つなぎの者が木簡を届けてくれるが、おまえの報告にはとても及ばない。まぁ、でも、どうにかやってるようだから、心配するな」
「近衛は?」
「向こうには、俺が聚楽楼での出来事で動揺し、熱を出して寝込んだと言ってある」
明らかな不満が蓮章の顔に浮かぶ。
「おまえは、あんなことでへこたれる奴じゃないのに」
涼景は小さく声を立てて笑った。
「どう思われても構わないさ。おまえさえ、知っていてくれるなら」
蓮章は匙を強く握った。
「それに……」
涼景は視線をそらして、
「こんな時に一人にしたら、おまえは一生恨むだろうし、俺も一生、後悔するから」
蓮章の背が、少しだけ丸くなる。憎らしいほどに、涼景の声は甘かった。
どんな顔をしているのか見たい。だが、見たら崩れてしまいそうで、蓮章は黙って粥を見つめ続けた。
「何も心配ない。俺たちが二人、揃って生きてるんだ。どうとでもなるさ」
涼景の前向きな言葉は、沈み込んでいた蓮章を柔らかく救い上げてくれる。その手に甘えて、幾度、奈落から引き戻されただろう。蓮章は感覚のない唇を噛んだ。
俺は今まで何度も死んだ。そして、何度も生き返った。
涼景に、生かされている。
敗北感と、安堵が、同時に蓮章を包み込んだ。
日に焼けて、精悍に、たくましくなりながら、まだ幼い面影も残す親友の顔。薄い茶色の瞳がいつも蓮章を導いてくれた。
どんな時も、盾になろうと立ち続ける涼景の力強さと必死さが、蓮章には何より突き刺さる。自分のことより誰かのことを思い、痛々しく笑う親友の姿。
この人を、一人にしてはいけない。
自分自身に怯えながら、蓮章は顔を上げた。
ふたりの視線が重なる。
かすかな戸惑いと、それを受け入れる柔らかな笑みが、涼景の表情に宿る。
蓮章の唇が、喉が、指先が震える。我知らず目元が歪む。熱いものがこみ上げて、視界が緩む。鼻の奥が、毒とは違う痛みに、小さく貫かれた。
いつもとは別の色をした優しさが、互いの目の中にあった。見つめ合う顔がゆっくりと近づき、どちらからともなく腕が差し伸べられる。
今なら、捨てられる……
蓮章の思考を、そんな考えがかすめ飛んだ。
呼吸することさえ忘れて、二人は静かに流された。
指先が触れ合う瞬間を待たず、音もなく扉が開かれた。
はっとして蓮章が身を正す。その様子に、涼景も後ろを振り返った。二人が一瞬、体を寄せるように硬直する。
慈圓に付き添われ、もう一人の蓮章がそこに立っていた。艶やかな灰色の着物に、化粧を落とした慎の姿は、月夜を楽しんでくつろぐ蓮章と生き写しである。
「元気そうで何よりだ」
蓮章は、俯き、瞬き、かすれた声で慎を見上げた。
涼景は蓮章の膳を下げ、黙って薬湯の準備をする。涼景には目もくれず、慎は蓮章の牀に大股に近づいた。扉の前に立って腕を組み、慈圓が三人の若者たちを見守る。
「余計なことをしたと、わかってるだろうな」
口を開くや、慎から棘のある言葉が飛び出した。
「相変わらずだな」
察していたのか、蓮章は驚くことなく受け止める。涼景が湯呑みで薬を溶く音がした。
「俺を助けたつもりか?」
慎は、牀に手をついて、蓮章に顔を近づけた。
涼景の眼差しが、素早く動いて慎を牽制する。蓮章が一声あげれば、太刀を抜くことにためらいはない。
「そんなつもりはない」
蓮章が小さく首を振った。慎の目つきがさらに険しくなる。
「じゃあ、なんで止めた?」
「理由は二つ」
蓮章は、喉の奥から熱い息を吐き出した。
「一つは、おまえが盗人だから」
「はぁ?」
慎は思わず声を高めた。
「ふざけるな。俺は……」
「皇帝暗殺未遂」
蓮章は静かだが、よく通る声で、
「確かにその罪は拭えないが、それ以前に、おまえは俺の着物から薬を奪った。花街は暁隊の管轄でな。窃盗罪でおまえを捕らえなきゃならない」
正論だった。
慎は、ぐっと息を殺して、
「二つ目は?」
憎々しげに言う。
涼景が横から口を出した。
「もう一つは、蓮の気まぐれ」
「……おまえら、本当にふざけてんのか!」
「そう、怒鳴るな。頭に響く」
蓮章は気だるそうに髪を掻き上げた。代わって、涼景が答える。
「俺は長く宝順帝を見ているが、あの程度の策にかかるようなやつじゃない。俺たちが止めなくても、おまえは間違いなく失敗して殺されていた」
「…………」
「本気でやりたいなら、もう少し知恵を使え」
慎は涼景を睨みつけた。
「なんだよ、それ? あんたたちは、あいつの部下じゃねぇのか?」
涼景はそっと、蓮章の手に湯呑みを渡しながら、
「俺たちは誰の部下でもない。ただ自分の望む世界を作るために、周囲を利用するだけだ」
「でも、あんた、近衛なんだろ?」
「今は、な」
「本音はどこにある?」
涼景は、辛そうに薬湯を飲む蓮章を見ながら、
「国を任せられる、真の皇帝が現れるのを待っている」
「真の皇帝?」
「正しくは、そうなる可能性がある人物、とでも言おうか」
慎はようやく、わずかに攻勢を解いた。
「じゃあ、いずれ、皇帝を殺すつもりってことか?」
涼景も、蓮章も、慈圓も、誰もが一切動かなかった。
それは、安易に答えることのできない問いである。慎は眉を歪めた。
「何を呑気なことを言ってる? やるなら早い方がいいだろう?」
「今、宝順を殺したところで、混乱しか生まない。民を巻き込んで国を荒らすくらいなら、まだ俺たちが毒をくらっていたほうがましだ」
「俺の家族の犠牲も、見過ごせってのか!」
涼景の言葉に、慎は噛みついた。
思わず、涼景はため息をついて首を振った。慎は蓮章以上に感情的である。
「おまえの家族のことは、調べさせてもらった」
慈圓が後ろから声を張った。
「一族の多くが、散々な目に会ったことは認めよう。だが、おまえの家族にも非がある」
慈圓の容赦のない言葉に、慎が歯を食いしばる。
「欲に目がくらみ、怒りを誘う行動をとったのは、おまえの家の方だ。だからと言って、あやつのしたことのすべてが許されるとは思わないが、自業自得とも言える」
「ふざけるな!」
振り上げられた慎の拳を、涼景が素早く背後にねじり上げた。さらに、力を込めて、蓮章から引き離す。強烈な痛みに、慎が悲鳴をあげた。一瞬、蓮章と錯誤して、涼景は胸が痛んだ。
「無駄だ。武術の心得はあるようだが、俺には通じない」
そこに疑いを挟む余地はなかった。慎は悔しげに息を吐いて、それから首を振った。
「わかったよ。手、離せ」
ゆっくりと涼景は指を開いたが、警戒は解かない。蓮章が動けないこの状態では、自分がすべての要だと心得ている。こういう時のために、涼景の強さはある。
慈圓が厳しく慎を見た。
「慎、おぬし、思い違いをしておらんか」
苛立った顔で、慎は慈圓を振り返った。
「思違い、だと?」
「我々はいつでも、おぬしを殺せるのだぞ」
慎は息を止めた。
「おぬしは、もう、死んだことになっている人間だからな」
苦しい沈黙が、慎の喉を塞ぎ、声を閉ざした。
宴の席で、皇帝に毒を盛った男妓は、制裁を受けてその場で毒殺された。表向きには、それが真実である。
「死んだことになっているのなら」
突如、蓮章が柔らかく言葉を差し込んだ。
「どこへ行っても、誰も気にしないか」
半分残った薬湯の湯呑みを両手で包みながら、蓮章は横を向いた。
「旅費くらいは出してやる。都を離れてやり直せばいい」
慎は、食い入るように蓮章を見た。
「おまえの琴の腕前は相当だ。堅気とは言えなくても、身を傷付けずにやっていくこともできるだろう」
慎は低く唸った。
「復讐を、諦めろってことか」
荒々しく言う。
「だから、自業自得だと言っておる」
慈圓が言った。
「そんなの、納得できるわけないだろ!」
再び、慎の声が怒気をはらんで大きくなる。
本当に、頭に響いて痛い。それ以上に、心に痛い。
蓮章は苦しげに目を閉じた。
涼景は黙って、蓮章と慎の間に立った。何を言うでもないが、無言の中に確固たる庇護の意思があった。
慎は一息、吐き捨てた。
「確かにこちらにも非があるのかもしれない。だが、それなら父上だけ殺せば済むだろ。どうして、何も知らない母や妹まで地獄を見なきゃならなかった?」
「責任とはそのようなものだ」
慈圓が冷淡に言う。それが人の道に沿うものではないと思いながら、しかし、拒めない現実であることも確かだった。慎が歯噛みする。
「……妹がどんな殺され方をしたと思う? あんな姿見せられて、それでも諦めろってのか。あいつを殺したところで、何も変わらない。それでも、俺はっ……」
「激しいな……」
蓮章が細くつぶやき、慎は口を閉じた。
涼景の目が、そっと蓮章に向く。それを待っていたように、蓮章もまた涼景と目を合わせた。
涼景には、また幼い妹がいる。彼女を人質に取られ、涼景も皇帝に逆らうことはできない。妹を失う慎の悲劇は、いつ、涼景の身に起きないとも限らない。
「俺はやるぞ」
慎が低く声を震わせた。
「おまえたちが何をしようと、何を言おうと……」
言って、血がにじむほどに拳を握り締める。
そんな慎を横目に、蓮章はうなずいた。
「思いは伝わった。諦めろとは言わない。だが、今は待ってくれ。次の時代を引き継ぐ者が現れるのを」
「それはいつだ」
慎が口を挟む。
「もうじきだ」
涼景が答える。
「しばらく、堪えてくれ。蓮も俺も、その時に動く」
慎は何度か涼景と蓮章を見比べた。
家族の無念を晴らす。
それは今まで、慎が生き抜く唯一の理由だった。
だが、今、目の前の二人を見て、別の思いが急速に膨らんでいくのを感じた。
憂いを帯びて美しい蓮章と、その蓮章の心を捕らえながら、おそらくは叶えてやれない涼景。
花街の夜、慎の腕の中で、胸を引き裂くように涼景を呼んだ蓮章の声が、今でも心の奥に突き刺さったまま、痛み続けている。
病床の蓮章は白く、透明だった。
慎の体の奥で、じりっと音立てて炎が燃える。
あまりに短絡的な、しかし目を背けることのできない感情が、過去と思考を支配した。
慎の目が、色濃い覚悟を秘めて、蓮章に据えられた。
「梨花、俺を、あんたのそばに置いてくれないか」
その申し出は突然だった。片方だけ、蓮章の肩がぴくりと動く。
「俺は、あんたの影になる」
「どういう意味だ?」
「見ての通りだ」
慎は胸に手を当てた。
「この顔、使えると思わないか。俺はあんたに協力する。あんたに代わって先に死ぬ。どうせ、俺はもう死んでいるんだろ? どこで命を落としたところで、誰も困りはしない。そのかわり、必ず宝順を倒して欲しい」
「無理だ」
涼景が静かに答えた。
「確かに、おまえはよく似ている。だが、他の者は騙せても、本当に親しい者は騙せない。何より目が違う」
慎がそっと左目を抑えた。蓮章の左目は誰もが知る特徴だ。それがある限り、一目で見抜かれる。影にはなりきれない。
だが、慎の心は決まっていた。
「ならば、これを潰す」
「何を言ってる!」
涼景が声をあげる。慎はじっと蓮章を見下ろした。
「梨花、あんたなら心当たりがあるんじゃねぇのか? 目の色を変える薬くらい」
蓮章は顔を背け、首を振った。
「色は変えられても、失明するぞ」
「片目一つで、運命を変えられるなら構わない」
慎はにやりと笑った。その場の皆がゾッとするほど、それは蓮章の笑みであった。
・
「結局、さ」
暁番屋の一室で、涼景に一日の報告を終え、蓮章はぽつり、と言った。
「逃げる道は、なくなった、ってことか?」
「うん?」
再度、木簡を読み直していた涼景が、顔を上げた。蓮章は苦笑した。
「俺たち、あいつに見張られているんだし、諦めたらこっちが殺されるだろうし……」
言いながら、手早く木簡の整理をし、明日の準備を整える。
蓮章の背中に、涼景はにやりとして、
「その時は、俺がどうにかするから、おまえは、俺を連れて行けよ」
一瞬、蓮章の動きが止まる。
「悪くないだろう?」
蓮章は答えず、ただ、目を細めた。
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