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皇家の宴(3)
「幸い、俺には一人だけ、信じられる相手がいるからな」
「……連れて逃げる、と言った友か?」
「まぁな」
犀星がそれ以上聞かなかったのは、涼景が遠くを見て口をつぐんだからだった。
この相手は妙に馴染む。
犀星は我知らず、微笑した。
二人の先に、古い山桜の木が見えた。周囲に明かりはないのに、なぜか星の光をやけに弾いて、ぼんやりと輝くように佇んでいる。
涼景は木の前で足を止めた。
犀星が意外そうに涼景を見上げた。
「おまえ、最近、このあたりを気にしているだろう?」
「……なぜ?」
「いつも、ここを通るたびに、落ち着かない顔をする」
涼景は自信ありげに犀星を見返した。
「見くびるな、俺はおまえの近衛だ。それくらいわからなくてどうする」
犀星は小さく諦めた息を漏らした。
涼景の言葉を裏付けるように、桜の幹に寄ると、手を添え、頬を押し当てた。葉を落とした桜の枝の間に、溢れるほどの星が瞬いて、まるで満開に花が開いたかに見えた。
犀星を包む、星明かり。
涼景は息を飲み、その光景を静かに見つめていた。
冷たい風が涼景の首筋を撫で、びくりと全身が震えた。
「涼景」
木に寄り添ったまま、犀星は横へ顔を向けた。
「この先には、何がある?」
「この先?」
涼景は犀星の視線を追い、灯籠を掲げた。
山桜から東は、乱立する梅の木の枝が絡み合い、足元には藪が続いている。よく見れば、古い石畳が朽ち果てて地面を蛇行していた。随分と長い間、人通りはなかった。
犀星は一歩、荒れた藪へ歩んだ。
「この先に、何がある?」
涼景は首を振った。
「ここは禁足地のようなものだ。時々陰陽官が出入りするだけで、打ち捨てられている」
「陰陽官?」
「詳しいことは知らないが、古い遺跡があると聞いた。もしかしたら、おまえは、何か、感じているのではないか?」
涼景はじっと犀星を見つめた。不思議と、犀星は涼景から視線を外せなかった。その眼差しには、言葉では表しようのない重さがあった。
「涼景。この先で、何かが……俺を、呼んでいる気がするんだ」
「…………」
「根拠などない。ただの勘だ」
「わかった。行こう」
涼景は、普段とはまるで違う、静かで穏やかな声で言うと、先に立って歩き始めた。
足元が悪く、砕けた石が邪魔をして悪路が続く。
涼景は犀星の歩みを心配したが、慣れた様子で危なげなくついてくる。
梅の枝から目をかばい、草の茎につまずかぬよう、一歩ずつ、丁寧に踏み進む。
歩きながら、涼景は二人きりなのを好都合と、人目をはばかる問いを投げかけた。
「星、おまえ、宝順帝をどう思う?」
「……どうとは?」
「まぁ、端的には、好きか嫌いか、か」
「どちらでもない」
あっさりと、犀星は言った。
「だが、兄上は、父上や俺の命の恩人だ。それは感謝している」
「……恩人、か」
涼景はそれきり、黙った。
やがて行手に、空が開けた場所が現れた。
開けた、と言っても、草は二人の胸まで高く、風に任せて飛んできた植物が好き放題に根を張る荒地である。
満天の星が輝きを増して闇が薄らぎ、吹く風が淡い色に輝くようだ。鼻の奥に冷たい匂いが差し込み、胸までが冬の気配に染まる。
犀星と涼景は背中合わせに並んで、周りを見回した。
「俺もここへ来るのは初めてだ」
涼景の声が、触れる背中から犀星に伝わってきた。
「星、どうだ? おまえには何が見える?」
涼景は犀星を振り返りもせず、どこか頼った声で言った。
「おまえの勘が働いなたら、きっと、何かある」
草の間を彷徨っていた犀星の目が、一点に止まる。
「あれは……」
草をかき分け、犀星は踏み出した。同時に涼景が追う。親王に、怪我でもさせては、大ごとである。
「星、どうした?」
犀星は、草の間に咲き乱れる花を見つけて、かがみ込んだ。涼景は、赤く細く小さく開いた花の前に、並んで腰を落とした。
「まだ、季節じゃないだろうに……」
犀星は膝をつくと、指先で花弁を撫でた。それから、不意に声を丸くして、
「俺が、一番好きな花なんだ」
懐かしそうに、微笑んだ。
「俺を待っていてくれたのは、おまえなのか?」
犀星の耳に、あたり一面から、不思議な音が立ち上るように聞こえてくる。
楽の音でもなく、人の声でもなく、風と木の葉のざわめきでもない。
だが、どこかで聞いたような、昔から知っていたような、懐かしい響きだ。
空を見上げると、碧空を埋め尽くす星々が騒がしいほどに輝いている。
一輪かと思われた曼珠沙華は、目をこらすと草の間で無数に首をもたげていた。
まるで、眠りについていたものが、犀星の訪れを祝して立ち上がってくるようだった。
犀星を取り巻くその光景に、涼景は息を呑んだ。
「星……」
近づこうとした涼景を遮るように、一陣の風が吹きすぎる。
ぞくりとして、涼景は後退った。
犀星はゆっくりと立ち上がると、柔らかな風の中、天を仰いだ。
星明かりが曼珠沙華の花弁に宿り、雫のように輝いた。静かに大地を揺する風は冷たさよりも優しさで、世界を包み込んでいた。
犀星は星の眩しさに目を閉じた。
草の揺れる音に混じって、遠い時代のさざめきが聞こえてきた。
犀星の体と響き合い、自分自身が世界の一部となって溶けていく。身体の境界を失って、崩壊と融合に飲み込まれる。
それは、安寧。
故郷を離れてから、長く遠ざかっていた安らぎ。
知らない誰かに抱かれる心地がして、犀星は目を開いた。
黒い髪がゆれ、白い指が頬を撫でた。
途端に震える涙が流れ落ち、四肢から力が抜けて、ゆっくりと崩れ落ちる。
「星!」
力強い涼景の腕が、倒れるより先に犀星を抱きとめた。
「おい!」
激しく揺すられ、目を上げると、血の気のひいた涼景の顔が間近にあった。
「……ゆ……め」
切れ切れにつぶやき、また目を閉じる。
涼景は犀星の体を確かめ、怪我のないことを確認してから、呼吸を整えた。
「具合は?」
「……え?」
「怪我はないようだが……どこか痛むか? 頭痛や吐き気はないか?」
「わからない」
犀星は、思わず口にした言葉に、ハッと我に返った。
「涼景……この場所……」
「……何だ?」
涼景の腕を頼りに立ち上がると、犀星は辺りを見回した。
星に包まれ、風に抱かれて、自分を取り巻く不思議なぬくもりを確かに感じた。
夢ではない。
犀星は草をかき分けて、心当たりの場所を探った。
曼珠沙華の波の向こうに、巨石の一部が、土から覗いていた。
水晶を含み、まるで地上に落ちた月のように輝いている。
「遺跡だな」
涼景はぴたりと犀星の後ろに立った。
「似たような石が、他にもある。どんな意味があるかは知らんが」
犀星はそっと、涼景を振り返った。涙が、止まらなかった。涼景の襟を掴み、静かに顔を見上げた。
星明かりの中、あまりに幻想的なその表情の美しさに、涼景は息を呑んだ。
口付けてしまいそうになる誘惑を断ち切るように、涼景は犀星の頭を自分の肩に押し当て、抱き締めた。
「涼景、俺はここに、決めた。ここから、すべてを始める」
「……星」
ためらいがちに、涼景は犀星の肩に手を置いた。
「力を、貸して欲しい」
それは、犀星が初めて、涼景に心を許した瞬間。
最後の扉が、開かれた瞬間。
涼景の腕は、強く、犀星を抱きしめた。
若木に這い昇り、その幹を彩るつる草のように、一つとなってその場に立つ。
「ああ」
まだ、幼さの残る犀星を抱いて、涼景は誓った。
即位式を終えても、それで全てが収まったわけではない。むしろ、ここからが全ての始まりである。
宝順帝が正式に後継を示さぬうちは、犀星は|長雀《ちょうじゃく》親王、|夕泉《ゆうぜい》親王に続く、第三皇位継承権を有している。
人前に立つ時は、個人の性格よりもその立場が重んじられる。立ち居振る舞い一つ、発言一つが、周囲の目を集める。派手さや顕示欲を求める犀星ではなかったが、だからこそ、できる限り目立たず、敵を作らず、静かに振る舞うことが要求された。
何も知らない犀星に作法を学ばせるため、涼景は毎日のように時間を共にしていた。犀遠の元で一通りの知識を得てはいたが、行うとなると簡単にはいかなかった。
堅苦しい空気には慣れない犀星は、一層、外で感情を見せることが減っていった。
日々の疲労は重なり、日を追うごとに屋敷の中でも表情が乏しくなるのが、東雨にもよくわかった。
初めて会った時から、犀星の美しさと、不意に見せるあどけない笑みが気に入っていた東雨としては、何としても機嫌を取ろうと手を尽くしてみたが、思うように成果が現れないまま、日だけが過ぎていった。
「お茶をお持ちしました」
東雨が犀星の部屋を訪ねたとき、涼景は几案に多数の木簡を並べ、宮中の人間関係を説明しているところだった。
「ああ、すまないな」
難しい顔で家系図を睨みつけている犀星に代わり、涼景が振り返って声をかけた。
「皇家の系図ですか?」
東雨がちら、と見る。
「ああ。自分の身内のことも知らされていなかったらしい」
涼景は早速、香りの良い茶をすすった。幼い東雨が、気難しい犀星の世話を一身に任されていることが忍びなさえ思われる。
「東雨、おまえはわかるか?」
「はい、仙水様」
東雨はすんなり頷いた。
「若様のおそば付きが決まったとき、教えていただきました」
「そうか。では、同席してくれ」
涼景は、東雨を隣りに座らせると、一緒に犀星に向き合った。
「星、どうだ?」
眉間にしわを寄せて、犀星はため息をついた。
「……ややこしい。この前、おまえが持ってきた系図と、名前が違うんだが?」
数日前にも、似たようなものを一晩かけて覚えたばかりである。涼景は、さらりと、
「あの後、いくつか養子縁組や改名、姻戚で人が動いてな。これが、最新のものだ」
「そんなに頻繁に変わるものなのか?」
恨めしそうに、犀星は涼景を見た。
「最近はまだそれほどでも。春先には地方と都で官吏の大規模な移動があるから、そちらの方が面倒だ」
犀星は黙り込み、不服そうに顔を背けた。逆に東雨が興味ありげに系図を覗き込む。
「あれ、長雀様、お名前を改められたんですね?」
「ああ。帝の命令で、『宝』の字を変えろと言われたそうだ。宝順帝は自分と同じ文字を持っていることを、快く思っていなかったからな」
「でも、ただの偶然でしょう? だいたい、名をつけたのは陛下より先じゃないですか」
「くだらないとは思うが、仕方がない。宝順帝からしてみれば、自分の皇位を奪いかねん兄だからな。改名の強制は、権威の主張の意味だろう」
呑気に茶を注ぎ足しながら、涼景はゆっくりと言った。それは東雨との会話の一部だが、同時に犀星に状況をわからせるための話でもあった。
「……待て、かつての常宝……ここにある……常稔親王とは……」
犀星が、系図を指差しながら、
「つまり、兄上の……長雀様のことか?」
「そうだ」
涼景が頷く。
「号が長雀……姓が常、名が宝から稔に変わった……と」
「宮中ではよくある話です」
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