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皇家の宴(5)

 涼景と英仁は目を交わし、互いの近衛の位置を整えると、慎重に犀星を敷地へと案内した。  英仁が先導し、涼景は犀星の少し後ろに位置を取った。  奏鳴宮は、夕泉が長く住まいとしている屋敷である。  その性格を表すように、静かで華美なものはなく、同時に不足もない。  外門からうち門へ、前庭に伸びる敷石の脇には、等間隔に背の低い白石の灯篭が並んでいる。灯篭はそれぞれ小さな穴が開けられ、風が通り抜けると笛のように音を鳴らした。その奥には玉砂利が広がり、白を基調とした中にも様々な色合いの小石がちりばめられていた。  内門の柱の彫刻には、夕泉の象徴である椿の花が彫り込まれ、彩度を抑えた控えめな装飾が見られた。  犀星は屋根を見上げた。  白木作りで木目を活かした梁が伸び、角には柔らかな細い布がかけられている。布は弦のよう風になびき、屋敷の奥から静かな琴の音が響いていた。  静寂と、自然な音色。  奏鳴宮の名にふさわしく、そこはまるで仙境のように幻想的な気配に満たされていた。  扉をくぐり、長い回廊を行く。  屋敷は、香木でできているかのようにかすかに香った。長年をかけて壁天井に染み込んだ、沈香と白檀だった。  磨き上げられた床板はどこか柔らかい。回廊の随所に片膝をついた左近衛の姿があった。左近衛は英仁の姿を見ると、速やかに立ち上がって、わずかに頭を下げた。犀星の顔は見ず、目線は下げたまま、しかし気配だけは鋭く油断がない。英仁によって鍛えられた左近衛の優秀さが透けて見えた。  犀星は長く息を吐き出した。  本来、親王の住まいとはこのようなものである。夕泉は長雀と違い、敵を作る性格ではない。それでも、英仁は決して警備を怠ることは無い。屋敷内に近衛が立ち、常に周囲に目を光らせる。  息が詰まる。  これを嫌う犀星に、涼景が格段の配慮をしてくれているありがたみがよくわかった。  英仁はまっすぐに、夕泉親王の待つ部屋へと犀星を案内した。  表情には一切表さないものの、犀星の心は終始落ち着かなかった。自ら望んで申し出はしたが、今になって胸騒ぎがした。そっと、涼景を振り返る。目が合い、涼景はわずかに微笑んだ。犀星の心音が少しだけ静かになる。  英仁は、ひときわ大きな御簾がかけられた部屋の脇で足を止め、膝をついた。 「夕親王殿下、玲親王殿下をお連れいたしました」  その声は、力強く自信に満ち溢れていた。  涼景が、そっと犀星の背を押す。  促されるまま、犀星は英仁の横を抜けて、御簾の前に進み出ると、ゆっくりと膝をついた。  御簾越しに人の気配はあったが、顔を上げることはできない。  兄とは言え、犀星は夕泉よりも位は劣る。  涼景が、犀星と夕泉との会談を快諾した裏には、これがあった。  自分より位の高い者とどう接するのか、それを学ぶには、夕泉は格好と言えた。  気性の荒い長雀や、何かと危険な宝順を相手にさせるのは、不安が大きい。 「中へ」  犀星の耳に、柔らかな布がこすれあうような声色が響いた。  英仁が厳かに御簾を傾けた。端に垂れた玉が触れ合い、澄んだ音を立てる。犀星は身をかがめたまま、御簾をくぐった。  部屋は、奥行きが深かった。  柔らかな白檀の香りが、青銅の香炉から細く立ち上る。  側面の高い格子窓を通して、柔らかな光が斜めに差し込んでいる。  磨かれた床には、さりげない刺繍が施された白と灰の座布が敷かれていた。  磨かれた濃茶の几案には、白百合の描かれた黒塗りの文箱がひとつ。今は火が消えた油灯がぼんやりと光を帯びていた。  目を伏せたままでも、奥に座る人の気配が感じられた。犀星は姿勢を低めたまま一歩前に進んだ。 「こちらへ」  促す声が、額に触れる。犀星の体に震えが走った。 「顔を見せておくれ」  夕泉の声は丸く、慈しむ響きがあった。  不意に犀星の胸に懐かしさが溢れた。目の前にいる人が、あの人であるのなら、自分はすぐにでも駆け寄って抱きしめてしまうだろう。奇妙な錯覚を覚えるほどに、目の前が白く煙った。現実感が薄れ、声に誘われるまま、夕泉へと歩み寄る。  犀星は、ゆっくりと視線を上げた。  淡い薄緑の裳が淡灰の座布に広がっていた。長い袖の先から細い指先が見えた。膝に揃えられたその手の下には、閉じられた扇が添えられていた。柔らかに締めた帯は、親王の厳格さとは反して、優しく弧を描いて床に流れていた。袍の襟に白く蔦葛の刺繍が光り、重ねた下襟の白が眩しいほどであった。  犀星は一つ瞬きをして、夕泉を見据えた。  刹那、その青い瞳に動揺と期待、そしてかすかに恐れが浮かんだ。  夕泉の口元は|面纱《めんしゃ》で覆われ、素顔は見えない。だが、黒い瞳は懐かしい人と重なった。犀星は全身が総毛立った。  そんなはずはない。  一瞬、現実と願望とが交錯する。  膝が震えて崩れ、犀星はその場に座り込んだ。  夕泉は咎めることなく、するりと立ち上がると、犀星の傍にかがみ、その顔を覗き込んだ。  黒く、吸い込まれそうな瞳を、犀星は懐かしい思いで見返した。  あの人に、似ている……  穏やかな人柄の噂に違わず、夕泉の眼差しは、警戒心を解いていくようだった。 「お会いしたかった、伯華」  どう話しを切り出してよいか迷っていた犀星に、夕泉は優しく語りかけた。まろびやかな声に呼ばれ、犀星の頬が緩んだ。  夕泉の目に、感情はない。  それが返って、自分の記憶をそのまま映してしまう鏡のようで、犀星は目が離せなかった。夕泉のまとう気配が、しめやかに犀星を包み込んだ。 「慣れぬ都での暮らし、さぞかしご苦労もあろうかと思われる。わたくしにできることならば、何なりと頼っておくれ」  夕泉の声は透きとおり、やはり、どこか、犀星の胸の人に似ている気がした。 「夕泉……兄上」  犀星の声は掠れ、舌が思うように動かなかった。それでも、教わった通りに言葉を思い出し、唇を震わせた。 「勿体無いお言葉にございます」 「何をおっしゃられるか。そなたは私の、大切な弟ゆえ」  面纱のために全て見ることはできないが、それでも、夕泉は笑ったらしかった。  犀星は息を飲み込んだ。  体はいつしか硬直し、じっとりと汗が浮いていた。  宝順を前にしてさえ動じなかった犀星が、今は指先すら動かせなかった。  まるでそれを心得ているかのように、夕泉は腕を伸ばした。犀星を引き寄せ、自らの衣で包むように抱きしめた。  咄嗟に、首筋に悪寒が走り、犀星は短い悲鳴を上げた。  御簾の外で、涼景がそれを聞きつけ、中を睨んだ。  夕泉が、犀星を脅かすならば、涼景にも覚悟がある。思わず身構えた涼景を、英仁が首を振って制した。  涼景は緊張を面に浮かべたまま、動きを止めた。  犀星が他人に簡単に心を許すとは思い難い。ましてや、政敵となるやも知れない兄に、隙を見せることなど考えられない。  そのために、涼景は繰り返し、周囲への警戒を解いてきた。  御簾の向こうで、何かが起きている。涼景は目を見開き、かすかに透ける犀星の影から視線をはずさなかった。  抱きすくめられても、犀星は抵抗できなかった。  薄い夕泉の着物から、体温が容赦なく伝わってくる。鼓動までが感じられる。それはやけに生々しく、肌の経験のない犀星には、完全に知らぬ熱だった 。 「伯華」  愛しげに、夕泉は呼びかけた。 「そなたの号は、歌仙であったな」 「……はい」  頷くこともできず、犀星は必死に声をしぼりだした。 「兄上は……詩仙であったと……わたくしのために、煩わせてしまい……」 「そなたの名と対になって、私は嬉しかったのだが、周囲がどうしても、と」  夕泉の声が直接、犀星の耳に吹き込まれた。犀星はついに声も失い、かろうじて目を閉じずにいるだけであった。  夕泉は、犀星の首に顔を寄せ、腰と背中に回した腕で、抱き上げるように引き寄せた。 「わたくしは、静かに生きていたいだけなのです」  夕泉はささやいた。 「伯華。わたくしにとって、そなたはずっと待ち望んだ人。私には、そなたが必要なのですよ」  この人は……  犀星は、にぶる思考の中で、夕泉を見極めようと必死だった。  自分を、思っていると?  ……否。  宮中は、そのような甘言が罷り通る場所ではない。たとえ、血を分けた兄であろうと、そこに例外はない。  幾度となく、自分を諌めた涼景の声が蘇る。同時に、それこそが罠ではないかという疑惑がかすめとぶ。  何を、信じれば良い?  肯定と否定が波のように押し寄せ、漂うばかりで何も掴めない。泡立つ水に絡め取られて溺れていくようで、犀星の心は暗い水底に引きずり込まれていく。  足掻こうとしても、甘い香りに意識が飛びそうになる。犀星はただ、息を殺した。夕泉の体に沁みた香が、肺の裏側から自分を染めていくことが、恐ろしかった。  夕泉の手がそっとくだり、犀星の柔らかい腰を撫でた。  その感触に、無垢な体がびくりと跳ねた。際どく体に食い込み、そこから未知の刺激が沸き立った。 「……あ……に……?」  乾いた喉をかすかに鳴らし、犀星は身悶えた。 「伯華……」  夕泉の呼び声。  伯華。  ……伯華!  白く霞んでいた犀星の思考に、一瞬にしてただ一人の人の微笑みが照らし出された。  自分に、その名をくれた、魂の片割れ。  すがるもののない暗がりで、道を示す光。唯一の|理《ことわり》。  犀星の目に、意志が宿る。  夕泉の息をうなじに感じ、犀星は全身の力を抜いた。確信を得たように、夕泉は目を細めた。 「そなたも、わたくしを気に入ってくれるか?」 「ええ」  犀星はため息をついた。その整った面に、底知れぬ何かが揺らめいた。それは夕泉を斬るようで、同時に己の運命を差し出す一刺しでもあった。 「兄上は、私の大切な人に、似ていらっしゃる」  未熟の残る犀星の声が、静かに囁いた。 「その人の身代わりに、ちょうどよい」  犀星の背を這っていた夕泉の手が止まった。  沈黙が、兄弟の間をそっと分かつ。  夕泉はゆっくりと体を離し、犀星の顔を見た。 「そなた……随分と肝が据わっておるな」 「私はただ、本当のことを申し上げたまでです」  犀星は顔色一つ変えず、見返した。  夕泉が長く息を吐くと、目元を緩めた。 「そなたを|侮《あなど》っておりました。詫びねばなりませぬな」  夕泉の黒い瞳は、ただひたすらに犀星を映していた。  やはり、似ている。  犀星はそう、心ひそかに思った。 「伯華。そなたが誓った相手とは、どのような人であろう?」 「…………」 「いつか会わせておくれ。そして、今日のそなたの話をしましょう。その頃にはきっと、良い思い出となりましょうぞ」  犀星は黙って、深く頭を下げた。

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