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西相の曲(2)
出世を狙う官吏の娘、姉妹、時には本人までが、犀星に近づき、その心に入り込もうとあらゆる手を尽くした。金品から色仕掛け、権力の座を約束する者も後を絶たなかった。そして、そのことごとくを、犀星は視界に入れることすらなく、門前払いで退けた。
五亨庵の近衛詰め所に配属された涼景の部下は、そのたびに理不尽な八つ当たりに苦しめられた。
犀星が誰の誘惑にも屈さないという話は、すぐに都中に広がった。
人々は面白がってその話に好き勝手な憶測を加えた。
犀星が実は男性として不能なのだ、暁将軍・燕涼景との間にすでに関係を築いている、兄である皇帝・宝順によって囲われている、遠くに純なる気持ちを寄せた叶わぬ相手がいて、その者への忠義を立てているのだ、という美談まで、あらゆる噂が飛び交った。
犀星は、そのどれも放置した。
民衆が自由に想像し好奇心を向ける、そのことが、犀星への関心を高め、これから行おうとする政策への注目につながると知っていた。
どんな状況をも利用するのが、犀星のやり方だった。
そんな犀星であったから、いかに趙姫が熱を上げたところで、結果は何一つ変わらず、五亨庵を訪れるたびに理由をつけて追い返された。
たいていは、それ以上犀星の心象を悪くしないよう、引き下がる者が多かったが、趙姫は違っていた。
皇帝の名のもと、月に二度召集される御前会議において、左相から五亨庵への風当りが強くなった。
資金的援助が望めず花街の治水工事の予算を捻出するためにあらゆる策を講じていた犀星たちに、趙教はさらなる難題を突きつけた。治水事業の完成を祝う式典を、ぜひ、五亨庵がとりしきるべきだ、というものだった。いかにもな理由をこじつけ、皇帝以下の高官たちを招待し、もてなしの費用のすべては五亨庵が担うのが正しい、とまくし立てた。
さらに、手本となるべき治水の成果を、隣国の調査団を招いて周知させることで、我が国の優れた技術を知らしめ、国益とする誉を担うがよろしかろう、と、経済的負担を重ねて提案した。
慈圓は終始苦虫を噛み潰し、犀星は凍り付いた表情のまま、機会があれば一考する、と退けた。
一方、趙姫は父とは真逆の方向に犀星を責め立てた。朝、犀星が五亨庵に出仕すると、絹、香、書画、名馬、薬材など心当たりのない荷物が、小径を塞いでいた。厄払いと称した派手な花飾りが、庵の入口に置かれることもあった。すべて、疑うべくもなく、趙姫の想いの形であった。東雨はすかさず、売って生活費の一部にしたい、と鼻息も荒く申し出た。犀星はただ静かに、持ち主のわからぬ遺失物として当局に届け出た。
次に、貴重な紙を用いた分厚い手紙が、申し訳なさそうな顔をした使用人によって届けられた。
それでも会えぬとなると、ついに、趙姫は小径の曲がり角に天幕を張った。犀星が通るまで待ち続ける暴走であった。
こうまでされると、犀星も無視を決め込むことは難しかった。
左派を束ねる趙教の機嫌を悪化させれば、この先どのような災いにつながらないともわからない。
五亨庵で、趙教と趙姫に対する緊急の会議が行われ、苦肉の策がいくつも提示された。
慈圓の案に、犀星は顔面をいつも以上に凍り付かせた。
「せめて、趙姫を庵の中に招くことには承諾を」
犀星は、一言も答えるものか、と唇を嚙み締めた。
それをさらに説き伏せようとしたのが、緑権だった。
「伯華様」
緑権は妻子ある者の立場から、
「適齢期の親王がいつまでもひとりでいらっしゃるから、ことはややこしくなるのです。あの姫の目的はただ一つ、婚姻です。一人選んでしまえば、あとは周りにうるさく言われずにすむ、むしろ、正妻への遠慮を理由に、ほかの誘いを断りやすくなります」
体験に基づいた緑権の言葉には、悲しい身の上を語る哀愁と、慈圓にはない説得力があった。
ふたりの押して引くような話に、犀星はついに折れた。
折れた、と言っても、それは趙姫を五亨庵の中に通す、という、可能な限りの妥協点までだった。そこから先は、想像するだけで身の毛がよだった。玲陽のことしか心にない犀星に、宮中の恋愛事情など、聞くにも値しない些末であった。
そんな犀星の気持ちなど、なりふりを構わぬ権力獲得の戦いの前には、風に舞う枯葉一枚の重みもなかった。
ついに、大仰な供の列を引き連れて、趙姫が五亨庵を訪ねてきた。
犀星は普段以上に表情を強張らせ、木簡の上に筆を構えて、忙しい素振りを演じた。慈圓は一歩引いて様子を窺い、東雨は間近に見る正真正銘の姫君を、厨房の壁の陰から覗いていた。
正面から喜んで迎え入れたのは、緑権だった。
「どうぞ、炉の近くへ。お寒うございましたでしょう」
ちらちらと雪の舞う宮中は、乾燥して肌が痛むほどに冷えていた。
「温かいお茶が飲みたいわ」
育ちもよく、物事もわきまえているように見えて、実は相当に視野の狭い趙姫は、東雨の想像を超えて遠慮がなかった。
「すぐにご用意いたします!」
東雨が慌てて準備に動いた。
「青茶がいいわ」
「え?」
東雨は焦った。茶筒に残っていたはずだが、旬がずれてとうにしけっていた。自分たちが飲む分には問題なくとも、左相の娘に出すにはあまりに不安だった。
「……ご、ご用意します」
悲しそうに顔を歪めて、東雨は机架の上に手を伸ばした。
その姿を、ちらり、と顔を上げて犀星が見た。
茶より、墨。
頼んでいた墨を後回しにされて、犀星は数瞬、そのままの姿勢で固まった。だが、ここで言っても、面倒なだけである。趙姫を五亨庵に入れる、という苦肉の条件は飲んだのだから、それ以上関わるつもりはなかった。
犀星はそちらの仕事をよけて、先に別の仕事に取り掛かった。彼が自ら書き込みをしている都の絵地図を広げ、別の木簡に書き付けておいた数字と見比べた。
この冬は雪は少ないが、寒さが厳しい。
昨年が豊作だったこともあり、都の民衆たちも例年ほど難儀はしていないはずであった。とはいえ、穏やかな冬ばかりとは限らない。凍えず、飢えず、厳しい季節を乗り越えるためにどれほどの準備が必要か、そのために用意する物資と調達経路の整備はどれほど遅れているのか。
犀星が興味を抱くのは、現実になるはずのない未来の妃の機嫌ではなく、目前の民の苦境だった。
宮中の者たちの頭の中には、皆、一族の繁栄のことしかなかった。金さえあれば、苦はなく、権力さえ握れば意志が通ると信じて疑わない。だが、いくら金が蔵一杯に積み上げられようとも、薪そのものがなければ炉に煙は立たないのだ。
犀星がこの仕事に就く前、貴人たちは大金を積んで都の民から薪を買い取った。時には、木造の家を丸ごと買い占め、それを壊して薪にした、という話も聞いた。家を失った者たちがどうなったのか、そんなことは、暖かな宮中で宴に興ずる彼らには無関係だった。
犀星は何よりも先に、民衆を重んじることを養父から叩き込まれて育っていた。だからこそ、自分もまた、民と同じ目線に立ち、同時に、民にはできぬ、自分の権力でしか成し得ないことを成そうとした。それが犀遠の教えであり、犀星の信念だった。
自分がそこにいても挨拶一つしない犀星に、趙姫は最初は首を傾げていた。機嫌を損ねてはならない、と、緑権が口を出した。
「歌仙様は、姫様の美しさに照れて、目も合わせられないのでしょう」
嬉しそうに趙姫は笑った。犀星は、ただ、じっと耐えた。
確かに、趙姫は美しかった。煌びやかな着物や装飾ももちろんのこと、化粧で際立つ目鼻立ちは艶やかで、緑権などはすっかりのぼせてしまっていた。わがままを言われても、わざわざ茶葉を軽く炒って湿気を飛ばすほど、東雨もまた、気を遣った。
枯れた慈圓はともかくとして、たいていのものならば目を奪われるのは当然の容姿、そして、左相という後ろ盾。趙姫はまさに、現在の宮中における女の頂点と言えた。
ところが、である。
その趙姫が狙う唯一の獲物、|蒼氷《あお》の親王は、完全に無視を決め込んでいた。いかに人との付き合いを嫌うとはいえ、犀星がここまで趙姫を避けるのには、実は、それなりの理由があった。
それは、今からひと月ほど前、秋の夜に遡る。
ちょうど、犀星の二十歳の誕生祭が行われ、祭儀嫌いの犀星が東雨と共に、形だけ参加した帰り道でのことだった。大勢から口先だけの挨拶を浴びせられ、その都度堅苦しい決まり文句で礼を述べ、実にも得にもならない時間を強制された犀星は、明らかに普段よりもすり減っていた。
会場である|瑞祺堂《ずいきどう》から都の邸宅へ戻る途中、夕方の風は犀星の深く落ち込んだ心のように、やけに冷たく吹き付けていた。
急ぎ足の犀星と東雨の後を、馬の足音が追ってきた。
東雨が振り返ると、馬に引かせた豪奢な帳車が、まさに二人を追い抜いて、少し先で止まった。
進路を邪魔され、犀星は黙ったまま遠回りに帳車の脇を抜けようと向きを変えた。すぐ後ろで、あわただしく馬のいななきが上がった。
東雨は歩きながら振り返った。暖かな長袍に身を包んだ趙姫が、帳車からゆっくりと姿を見せた。
その背後には、何台もの帳車と、他の姫君の姿もあった。誰もが目を輝かせて、犀星を見つめていた。誕生祭のために正装をまとった犀星は、普段以上に凛々しく美しかった。その姿に目がくらみ、何人かが涙ぐんでさえいた。
女たちが皆、隙あらば犀星のそばに、と、どこか切迫した気配でにじり寄った。
中でも趙姫は若く、活発だった。
誰よりも先に、犀星に歩み寄ると、優雅に着物をたくし上げて、頭を下げた。
「玲親王殿下」
趙姫は大声で呼びかけた。
そこで初めて、犀星は振り返った。そして、大勢の女が皆、自分を追っていたのだと、やっと気がついた。東雨は最初から、犀星が女性に興味がないことを知っていたため、敢えて助言しなかっただけだ。
さすがに往来で名を呼ばれては、無視もできなかった。
犀星は渋々、足を止めた。冷たい無表情は、なぜか女たちには人気があった。いつも笑みを浮かべて、腹の中で何を考えているかわからない男たちより、笑わない犀星の方が宮中の女には魅力的に映るらしかった。
東雨は、偏屈な主人が趙姫をどうあしらうか、と好奇心で見物に徹していた。趙姫の美しさは群を抜いている上、父親は権力の頂点にいる左相だ。犀星との年齢を考えても、絶好の組み合わせであった。
しかし、犀星には、歌仙に残してきた想い人がいることを、東雨は盗み読んでいる文で知っていた。自分がもみ消して、相手には届いていないが、文面と犀星の態度から、明らかに相思相愛の中であると確信できた。犀星が都にきて長くたつが、その熱が冷める様子はなかった。
「何か?」
犀星は白い息を吐いた。
趙姫は厚手の化粧で大きく見せた目を、さらに開いて上目遣いにこちらを見ていた。すっかり息が上がっていた。
自分の容姿に自信がある趙姫ですら、犀星の澄み渡る立ち姿を前にして、心臓が縮むような緊張感を感じた。
一部の隙もない、それでいて他者を圧するような威力も発しない、そのあまりに美しい瞳に見つめられ、さしもの趙姫もすぐには声が出なかった。
東雨は、そんな趙姫の戸惑いを間近で見て、顔には出さずにほくそ笑んだ。
若様は、簡単に近づいていいお方ではないぞ。
単純に、東雨は貴人が嫌いだった。
立場上、従わなくてはならない分、不満も溜まった。変わり者ではあるが、犀星は他の貴人に比べて、はるかにましだと東雨は思っていた。少なくとも、自分に対して罰を与えたり、理不尽な理由で文句を言ったりはしない。その上、人として対等に扱ってくれる。
東雨は無言のままの犀星を見た。
表情がない、というより、状況をどこまで理解しているのかわからない顔であった。
「若様。こちらは、左相様の御息女、趙姫様にございます」
仕方なく、東雨が紹介した。趙姫はにっこりと微笑んだ。
「お目にかかれて光栄ですわ。今宵はぜひ、直接お祝いをと思いまして……」
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