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西相の曲(3)

 趙姫はどこかぎこちなく、それでも精一杯に勇気を出して拝礼した。それは孔雀が羽を広げる様にも似ていた。 「玲親王殿下、生誕の儀、おめでとうございます」  皆がため息を漏らす美女の姿に、犀星はわずかに口を開いた。 「私が生まれたのが、そんなにめでたいか?」  うわ!  東雨は思わずのけぞった。  いかに犀星といえども、初対面の、しかも祝いを伝えにきた身分のある女に、そのような物言いはしないだろうと油断していた。だが、やはり、東雨の主人は例を見ない偏屈だった。 「もちろんですわ」  うわ!  趙姫のきらきらとした喜びの声に、東雨は、再度、驚いた。  犀星が東雨の想像を超えていた以上に、趙姫もまた、鈍かった。 「この国で、最も麗しい親王殿下の慶事でございますもの」  嬉々とする趙姫の背後では、結果を見届けようと、他の女たちが聞き耳をたて、様子を伺っている。皆が、犀星を狙う敵なのだ。  趙姫の笑顔は、可憐というより香りのきついけばけばしい花弁のようだった。 「親王様のような素晴らしいお方が、この世にお生まれになられたこと、万物に感謝申し上げねば」  大抵の男はこの笑顔に陥落するのだが、犀星は別格だった。むしろ、更に機嫌を損ねたらしい。東雨は、犀星が喧嘩腰になるのを感じて、これは面白そうだ、と黙って二人を見比べた。 「私のどこが素晴らしいと?」  犀星は、意地の悪い質問をした。東雨は好奇心を隠さず、趙姫の反応を注視した。 趙姫は自信満々に、両手を広げた。 「何もかも、ですわ」  恋にふらつき、蝶よ花よと育てられてきた趙姫に、犀星の行っている政治の中身や功績がわかるはずもなかった。 「殿下の頬は、極上の絹か、磨き抜かれた白磁のよう。|御髪《おぐし》は、夜の闇よりも深く、絹糸のように艶やかで、眩しいほどに輝いていらっしゃる。何より碧玉のように煌めく深い蒼色の瞳。物憂げな影を湛えていらっしゃるのが、また……」  結局のところ、彼女が誉めることができるのは、犀星の容姿だけだった。 「人間など、焼いてしまえば同じ骨だ」  止まらない趙姫を、犀星の一言が刺した。 「見かけになど意味はない。貴女は私を呼び止めたが、特に用件はないようだ」  そこまで言わなくても、と、東雨さえ、趙姫に同情した。  犀星は趙姫に形だけ礼を返すと、再び背を向け、歩き出した。  後ろから、女たちの慌てた声が聞こえた。  犀星は、ふと、足を止めた。しかしそれは、姫たちの喧騒のためではなかった。  夕闇の寒空の下、両手いっぱいに大きな蒸籠を抱えた明が、道の端に立っていた。  犀星は首をかしげた。  明は犀星より、その向こうにいる美しい趙姫を見つめていた。  南区とはいえ、宮中である。このような姫君にこそふさわしく、自分のような飯屋の行商には不釣り合いだ。  いたたまれなくなって、明は下を向いた。 「私、これ、届けにきただけなんです」  俯いたまま、明は大切に抱えていた蒸籠を、犀星に差し出した。  長いことそうしていたのだろう。籠はすっかり冷えてしまっていた。 「東雨さん、お願い。温め直して差し上げて」 「わかった」  東雨は犀星に代わって、蒸籠を受け取った。 「これを俺に?」  犀星は、自然と目を細めた。 「親王様、元気ないだろうな、と思って」  わずかに、犀星が息を飲む音が聞こえた。明は、凍えた手をこすり合わせながら、 「今日、親王様のお母様の命日だったでしょう。花の饅頭、作ってきたから、おそなえしてください。私たちのために、毎日、一生懸命お仕事してくれる親王様に、都のみんな、感謝してます」  深く一つ頭を下げて、明はそのまま逃げるように走り去った。  東雨は、そっと、犀星に並んだ。湯気の消えた蒸籠が、温かく思われた。 「あいつ、若様のこと……」 「……俺の心を察してくれた」  ふっと、犀星が寂しげな笑みを浮かべた。 「どういうことですの?」  様子を見ていた趙姫が、詰め寄った。  自分を邪険にしておきながら、下賤な民と親しくする犀星の態度に、さすがの趙姫も不満を感じたようだった。  犀星は表情を厳しくし、振り返った。 「貴女は、私が生まれたことが慶事とおっしゃったが、私には悲しみ以外の何ものでもない。私は、二十年前の今日、生まれることで、母を殺した」  趙姫ばかりか、後ろの女たちも言葉もなく立ちすくんだ。  犀星の母親が、出産で命を落としたことを、その場の全員が知っていた。知っていながら、祝いを理由に近づいてきた女たちの浅ましさが、犀星には許せなかった。  明だけが、犀星の心を案じていた。  犀星の気配が、夕方の風よりも鋭く凍った。 「私は人とは話をするが、人の心を持たないものと、縁を結ぶつもりはない」  犀星の声は凛と響いて、初冬の寒さよりも、女たちを震え上がらせた。  犀星はそれきり、二度と振り返らず、真っ直ぐ屋敷へと戻った。  その庭には、ささやかながら、母を思って建てた、小さな碑があった。  優しい娘と、自分の内側を受け止めてくれる民のため、一刻も早く、手を合わせたかった。  いつしか、空には重い雲が立ち込め、冷たい雨が降り始めた。  最後の曼珠沙華も、花を落とすことだろう。  その夜、犀星は深く優しい夢を見た。  暖かな雨が降り注ぐ中、赤や白の曼珠沙華の咲き乱れ、姿を知らぬ母が、優しく自分を抱きしめてくれる夢だった。  宮中には敵しかいない。  その中で、母はどんな思いで、自分を産んだのだろう。  決して会うことのできない、それでも、会いたくてたまらない母の面影は、夢の中で、優しく微笑んでいた。 風流逐雲行 追雲雨誘開 芳華霑潤色 哀泪湿吾腮 (伯華) 風流れ 雲を|逐《お》うて|行《ゆ》き 雲を追う雨 花を|誘《いざな》い開く |芳華《ほうか》は|潤色《じゅんしょく》に|霑《うるお》い |哀泪《あいるい》は吾が|腮《あぎと》を|湿《しめ)》さん  決定的な断絶と思われたあの日の後、趙姫は、何事もなかったかのように、五亨庵を訪ねてきては、自分を売り込むのに熱心だった。  緑権が緩みきった顔で対応する様子を、東雨は、こうはなるまい、と思いながらも艶美な容姿にほだされ、いいように使われていた。慈圓はさっさと書庫に逃げ込み、露骨に距離を置くことが決まりだった。  ただ一人、意中の犀星だけは、無反応のままであった。  これまで、犀星が話し相手をしたことは一度もなかった。  それでも諦めずに通いつめる趙姫にも、それなりの事情があった。  趙姫は、今を盛りの美貌の姫である。しかも、父親は出世を極めた左相で、誰も彼女に逆らえる者はいなかった。  彼女も自分の美しさを自覚しており、全てを思うがままにして育ってきた。  どんな男も彼女の前に屈し、あらゆる手段で口説こうと躍起になった。  そのために、私財を投げうって破産する者、妻と離縁する者、恋に呆けて隙を作り官職を追われる者、と、人生が狂った人々のいかに多いことか知れなかった。  学問にも芸事にも不器用な趙姫だったが、自分に求愛する男たちを転がす天性の賢さだけは持ち合わせていて、今まで好き放題に振舞っていた。  宝順の正室である宇城が、帝からよく思われておらず、表舞台に出てこないのを好機と見て、まるで自分が皇后のように派手に着飾った。周囲をたぶらかしては、必死になる男たちを面白がり、恋人を奪われて嫉妬する女たちをからかい、気持ちの赴くままに、奔放に生きてきた。  そんな彼女であったから、宮中の誰もが憧れる犀星を自分に振り向かせることには自信があった。  だというのに、自分を目の前にして、犀星は微塵も関心を示さない。  出会ってすぐのうちは、照れているのだろう、と余裕を見せていた趙姫だが、半年も放っておかれれば、さすがに焦ってきた。  自分の言動がどれだけ宮中の視線を集めているか、彼女には自覚があった。名高い歌仙親王に相手にされなかったとなれば、一生を揺るがす屈辱であった。  今まで見下してきた者に嘲笑われる、そのような辱めに耐えられる趙姫ではなかった。  どんな手を使ってでも犀星を手に入れようと、その性格や趣向を探っていた。しかし、犀星とて、敵ばかりの宮中に召し上げられて以来、平穏無事に生きてきたわけではない。決して弱みを見せなかった。  この調子で、趙姫が来ると五亨庵の仕事は滞った。  犀星と趙姫の間をとり持ちたい緑権は、犀星の美点について、趙姫に事細かく話して聞かせた。  犀星が美しいだけのお飾り人形であったなら、ここまでの人気は出なかったこと。実力が加わって賢人たちも犀星を評価しはじめたこと。  そして、犀星の評価を高めた最大の功績が、花街の治水工事であることも、まるで自分の功績であるかのように熱を込めて語った。ただし、趙姫がどこまでそれを理解していたかは、東雨には疑問だった。  水資源豊かな歌仙で育った犀星は、水の利も不利も心得ており、そして何より、年若くとも実践経験が身についていた。  此度、犀星が三年前から構想していた大規模な工事に、ようやく許可が降りた。  今日は昼から現状視察に出かけるため、その準備に忙しくしていたところであった。そこに、仕事を止める趙姫がやってきたものだから、犀星の機嫌は一瞬で悪化した。しかし、それを表情に出さないのは、慈圓からの言いつけを犀星なりに守っている証拠でもあった。  東雨は緑権に趙姫の相手を任せて、犀星のそばを離れなかった。どんなに無表情でも、主人の機嫌が最低に悪いことくらい、長年共に暮らしている東雨には容易に察しがついた。  筆が乾く前に墨をすり、よこせと言われる前に地図を差し出し、頼まれてもいないのに茶を温めた。  元々、東雨は貴人が嫌いである。  特に趙姫は、特別用事もないのに、無駄話をして長居をする。こちらとしては気を遣う上、有益な情報が得られるわけでもない。そのくせ、見目はやたらと良いのだから、つい扱いが甘くなる。多感な心を押し殺して、東雨は犀星を真似た無表情を決め込んだ。 「玄草、このあたりで募ろうと思う」  犀星は視察先の地図を確認しながら、慈圓に話しかけた。書庫から早足で寄ってくると、他のことには目もくれず、慈圓は地図を覗き込んだ。 「よろしいですな……現場と近いですし、花街の情勢に詳しい者もおりましょう」 「花街!」  東雨が思わず復唱した。  趙姫が、ちらりとこちらを振り返った。東雨は慌てて声を低めた。 「直接、花街に行くんですか?」 「うむ」  慈圓が顔色一つ変えずに頷いた。 「検証の結果、ここが最も手をつけやすいのでな」 「うーん……でも、花街、ですよね」  何がそんなに気になるのか、東雨は斜め上あたりの壁をうろうろ見ながら、 「それって、その、そういう、ところ、ですよね」 「そういう?」  慈圓はあえて平然と問い返したが、東雨の言わんとしていることはちゃんと見通していた。 「そんなに、気になるか?」 「え?」  態度で肯定してから、東雨は唇を横に結んでぶんぶんと首を振った。 「別に、気になるってほどじゃ……」  上ずった声が、さらに動揺を垂れ流した。もっともらしく咳払いをして、 「でも、ですね……やはり、一国の親王が出入りするような場所ではないと……」 「伯華様には、考えがあってのことだ。安心しろ、おまえは留守番だ」  慈圓が楽しそうに東雨をからかった。十三になったばかりの東雨は、複雑な表情を浮かべた。 「それはいいですけど、でも……」  と、やはり犀星の輪郭を目でなぞって、 「心配です。玄草様はともかく、若様は周りが放っておかないというか……」 「ともかく、は余計だ」 「だって、ともかく、ですよ」  東雨はじっとりと目を細めた。 「若様がそういうことになっちゃったら、俺は立場がありませんし」 「おまえは何を心配しているんだ?」 「何って……」  東雨の顔がさらに複雑さを増した。  犀星は、そんな二人の戯言には興味を示さず、淡々と地図と計画の書きとめを確認しながら、

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