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西相の曲(4)

「玄草、一人の額はこの範囲だが、実際に交渉してから再考したい。余地を残しておいていいか?」  慈圓は東雨を放り出して、犀星の手元を覗いた。 「予算は無尽蔵では有りませんから、さすがに心得ていただきませんと、他の支払いが滞りますぞ」 「借金をする」 「待ってください!」  東雨が突然、青ざめた。 「ただでさえ、生活費二十八文でどうにか回してるんですよ。借金なんて……」 「いや、これは、杜撰なやり方で済ませられることではない。必要とあれば、前借りしてでも……」 「借りるって、誰に借りるんです?」  泣きそうに、東雨は首を傾げた。 「宮中の誰もが、若様の計画を一蹴したんですよ。貸してくれるわけがないです」 「歌仙様」  先ほどからずっと、様子を伺っていた趙姫が声をあげた。  聞こえないふりをする犀星に代わって、しぶしぶ、慈圓と東雨が振り返った。 「お金が必要でしたら、わたくし、用立てて差し上げますわよ」  東雨が明らかに迷惑そうな顔をした。幸い、趙姫は犀星しか見ていなかった。  犀星は一瞬だけ、趙姫を見て、すぐに手元に目を戻した。犀星としては、この一瞥で礼儀は尽くした、という心境であった。 「必要ありません」  あれこれと付け加える趙姫の発言は聞き流すに徹して、犀星は沈黙に切り替えた。  ここで、左相に借りを作ることに比べれば、他の手を講じた方が遥かに後ぐされがないとの判断だった。  慈圓は苦笑し、東雨はため息をついて首を振った。  犀星が手がけている大規模な治水工事には、とかく、金がかかった。  宮中の水路整備であれば協力者もいようが、実利のない花街では、誰も見向きもしなかった。  なおもよくわからない理屈を並べ立てている趙姫をそのままに、犀星は出かける支度を済ませ、慈圓と共に扉に向かった。 「伯華様、昼餉は?」  緑権が、趙姫の機嫌を伺いながら、呼び止めた。 「せっかくですから、お出かけは、趙姫様とご一緒されてからでも……」  犀星は振りかえらなかった。 「途中で済ませる。留守を頼む」  逃げた、と東雨は、目をそらした。  趙姫は黙って、後ろ姿を見送るしかなかった。  市場の賑わいの中に、犀星はごく自然と溶け込んだ。  歌仙親王が出歩く姿は宮中では注目の的となるが、市井ではあまりに慣れてにこやかに見守られる空気が出来上がっていた。  通り道の店で笹に包んだ肉餅を買い、気軽に齧りながら、犀星は慈圓一人をともなって花街へと向かった。 「懐かしいものですな」  慈圓は資料の包みを抱えて犀星に従いながら、十歳は若返ったように見えた。 「立ち食いなど、何年ぶりになるか」 「何十年ぶり、だろう?」  犀星はにこりともしないが、彼なりの軽口を叩いた。 「そうそう、伯華様がお生まれになる前かと」  いつになく、慈圓は上機嫌だった。  この老獪は、宮中で生まれ育ったわりに、その毒気に染まらない異端児だった。  若い頃から周囲に好んで敵を作り、その者たちを言い負かしては出世していくような、文人でありながら武人の気質を備えたところがあった。打ち負かされた者たちも、なぜかその後、慈圓を認めて味方につくという不思議な男だった。  五亨庵が完成した折り、帝から好きな者を官吏に選べ、と並べられた。犀星が真っ先に指名したのが、この慈圓であった。当時十六になったばかりの犀星が、三十以上も年上の、明らかに自分よりも影響力を持つ慈圓を選んだことは、周りを驚かせた。  親王として権力を振りかざしたければ、それなりに選ぶ年齢も身分も絞られてくる。世間知らずの人選、と周囲は一笑し、止めはしなかった。  なぜ自分を選んだのか。  当時、慈圓は犀星に直接問うたことがあった。  父上に似ていたから。  まだ、あどけなさの残る親王は、そう言って、慈圓の度肝を抜いた。そして、もう一人の人選を彼に任せた。慈圓は考え抜いた結果、当時、まだ才覚を表していなかった緑権を推挙した。理由も聞かず、犀星は勧めに従って、緑権を所望した。  選んだ理由をいつでも答えられるように、と、慈圓は用意していたが、犀星が尋ねることはなかった。逆に慈圓の方が辛抱できず、理由が気にならないのか、と尋ねると、犀星は首を横に振った。 「玄草に任せたことだ。おまえが決めたのだから、それでいい」  全幅の信頼。  それがあるからこそ、部下は主人に忠誠を誓える。この人のためならば、と身命を投げ打つことができる。  人を成長させられる人間こそ、真に人の上に立つ資格がある。  慈圓は、犀星の懐の深さに感服し、ようやく得られた理想の主人に満足した。  さすがは、侶香が天塩にかけて育て上げただけのことはある。  犀星の養父、犀遠をよく知る慈圓は、心底、この親子が共に政治と軍事の表舞台に立てないことを残念に思った。 「玄草?」  何やら、薄ら笑いを浮かべている慈圓を不審に思って、犀星は声をかけた。 「気味が悪いな。おまえがそういう顔をしている時は、大抵、ろくでもない策を練っている」 「確かに、天下を憂いて思うところがありますのでな」 「今は、花街の水事情を憂いてくれ」  犀星は、どこまで本気かは知れない調子で言った。慈圓はわずかに表情を沈めて、 「しかし、せめて梨花を連れて来ればよかったかと」 「涼景たちは、千義との関係保全で忙しい時期だという。無理に引き出しては申し訳ない」 「とはいえ、親王が近衛もなしに出歩けば、あとから何を言われるやら」  慈圓は、自分に似て頑固な涼景のしかめっ面を想像した。  師匠がついていながらどうしてそんな勝手を許したのか、と、恨み言が想像できた。 「ならば、今日は俺が、俺の近衛になろう」  犀星はさらりと言った。 「また、そういう無茶なことを」  苦笑しつつも、慈圓の声にはどこか、楽しげな気配があった。  出会って四年。  まるで違う境遇の二人の間には、言葉にならない信頼関係が築かれつつあった。  この親王は、使えるやもしれん。  慈圓は探る思いで犀星を見た。  犀星の目に、花街へと続く境界の門が映っていた。  花街は都の北西に位置し、自治組織が仕切る区画だった。慈圓は太い門の柱と、|菫《すみれ》の彫刻がなされた花街の扁額を見上げた。 「都の辺境、宮中の連中には、触れる価値のない場所、ですな」 「彼らは、ここの実態を知らない。知ろうともしない」  犀星の呟きは乾いていた。 「ですが、伯華様は、ここから始めようとなさっている」  嬉しそうに、慈圓は言った。  犀星は門を行き来する人々を眺めた。 幽棲誰不顧 静中命猶存 誓願不曾棄 自茲今日生 (光理) |幽棲《ゆうせい》 誰か|顧《かえり》みざらん |静中《せいちゅう》命|猶《なお》|存《ぞん》す |誓願《せいがん》未《いま》だ|曾《かつ》て|棄《す》てず |茲《ここ》より |今日《こんにち》を生きん  犀星の目は、現実を見つめながら、同時にその向こう側に理想を描いていた。  これは、治世においては小さな一歩かもしれない。だが、敵地に放り込まれた犀星が、自分の人生を切り開くための切り札でもあった。  おまえと共に、ここに立つために。  犀星の脳裏に、歌仙に残してきた、忘れられぬ人の姿が蘇った。  引き裂かれた瞬間から、二人の時間は凍りついた。動かない時間の檻で、あの人は、今、どうしているのかと思うと、ただただ、体が冷えた。  おまえの心と共に。そして必ず、渡そう。俺がこれから残す全てを。  覚悟を決め、犀星は目を開いた。  慈圓は眩しそうに、その横顔を見つめた。  若き親王の胸の内は、いかに慈圓とてはかりきれない。しかし、はからずとも良いのだ。今は見守るべき時期と心得ていた。  二人は呼吸を揃え、頷き合うと、門の中へと踏み行った。  風の匂いがするりと変わった。  やたらと作り込まれた、強烈な匂いが様々な色を纏ってあたりに吹いていた。人とすれ違うたび、それは移ろい、決して留まることはなかった。それでいて、根底にある奇妙な懐かしさは、地面から漂ってくるようにどこまでも広がっていた。  真昼の花街は、まだ、喧騒が浅く、白い太陽の光の下で、眠りの底に沈んでいた。昼に生きるわずかな者たちが、街の裏側を支え、夜までの時をつないでいた。  行き交うほとんどが男で、たまに華やかな色彩の着物があるかと思えば、女郎であった。連れ立って道の端を歩くのは、芸妓見習いの少女たちだった。幼い顔に艶やかな白と朱の化粧を施し、まだ扱いきれぬ楽器を布に包んで細い腕に抱えていた。その所作さえ心もとなく、容易に街並みの隙間で見失ってしまいそうな危うさがあった。  軒を連ねる遊郭は、皆、破風を垂らして屋号を謳うが、客見せの格子戸の奥にはまだ誰もいなかった。掃除の老妓が疲れた顔でゆっくり動き、素早いのがいるな、と思えば小間使の男が小走りする姿だった。  女郎に混じって、男娼の姿もちらほらと見かけられた。  俗人との区別は一目瞭然だった。皆、思い思いの美しい着物を纏っているが、同様に露出が多く、中にはあからさまな者もいた。  客は望みの花を買い、金で忘れる恋をする。  だが、娼はこの街の奴隷ではない。娼こそが、主であった。  彼らは堂々と、来訪する客たちを値踏みしていた。無賃で振りまく愛想など、持ち合わせていなかった。  犀星は、いつ訪れても変わらぬこの街の空気が好きだった。  ここには、陰湿で複雑な駆け引きはなかった。  好きか嫌いか、気にいるかどうか、それだけだった。  相手の腹を探り合う必要もなく、気を揉む心配もない。  慈圓は横目で犀星を見た。  ここに来るたび、犀星は表情が豊かになった。宮中では|蒼氷《あお》の親王と評される犀星だが、実のところ、心は瑞々しく動いていた。  犀星が感情を表さないのは、人間関係の余計な摩擦を避けるためだった。愛想笑いを絶やさぬ者がいるように、犀星は隠すことで、敵味方を分け隔てなかった。  本当は、誰よりも感情の激しい方なのだろう。  慈圓は密かに、そう、踏んでいた。  今でこそ、ある程度犀星を知っている慈圓だが、当初はそう簡単ではなかった。  口数が少なく、表情が動かない多感な年頃の犀星は、実に扱いづらかった。その上、鋭利な思考を秘め、読み切れない方向に飛躍した。慈圓は幾度も驚き、呆れ、そして唸った。  ただの、傷ついた子どもではない。  雨上がりの土の下に、凍り始めた冬の気配がする道を歩きながら、慈圓は知らず知らずに微笑した。 「気をつけろ」  物思いに耽っていた慈圓は、犀星の警戒の声で現実に引き戻された。  犀星が目配せした先には、目つきの鋭い男たちが、こちらを見て小声で話していた。 「この界隈の、ごろつき連中ですな」  慈圓が眉を顰めた。  花街では、秩序を破る客に制裁を加える者たちが自警団を名乗り、いくつかの派閥を作っていた。名目は理にかなっていたが、やり方は力任せで扱いが難しかった。  犀星は、わずかに残っていた笑みを消した。 「俺たちは、ここの秩序を乱すことになるか」 「さぁ、如何なものか。彼らにとっては、そうかも知れませんな」  話がまとまったのか、四人の男が、こちらに向かって歩いてきた。 「どうなさいます、伯華様?」  犀星はそれには答えず、じっと男たちを見つめていた。 「避けては通れない」  犀星は無表情のまま、こちらからも近づいた。  慈圓は、やはりな、と腹を括った。  一悶着あるのは、覚悟の内であった。  怖がりな東雨を連れてこなかった本当の理由は、この事態を予測してのことだった。  数歩空けて、両者は立ち止まった。一足一刀の間合いだった。  相手の一人が、顎で脇の路地を示した。  先に行け、という合図だ。  犀星は黙って示された道に入った。慈圓は警戒しながらついて行ったが、路地に入った途端、背後から男に突き飛ばされ、地面に座り込んだ。 「玄草!」  振り返った犀星の顔を掴んで、別の男が壁に押し付けた。ささくれた木肌が着物越しにも肌を傷つけた。 「おまえたち、最近、よく見るな」

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