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第5話 我慢のとき
ぶわりと嫌な汗が吹き出し、心臓が跳ね上がった。
仕事が残っているというのに、クビになるわけにはいかない。
孝弘は素早くスラックスを履き直し、膝立ちのままぼけっとしている炫を立たせた。
何もしようとしない炫に苛立ちながらその身なりを整え、汚れたスラックスを誤魔化すために孝弘のジャケットを炫の腰に巻きつける。
そして、そのジャケットのポケットに悪趣味なアナルプラグを突っ込んだ。
コツリ、コツリと足音が近づいてくる。
その対角線をいくように、駐車されている車に隠れて移動した。
その間も炫は焦る様子もなく、のんびりとしている。
堂々と背を伸ばして歩こうとするため、孝弘はその首根っこを掴み、半ば引きずるようにして足音の主から逃げていく。
(こいつッ……! って、そうだ、炫はスリルを楽しむタイプだったな)
この危機的な状況も、炫にとっては程よいスパイスでしかない。
炫の実家は金持ちで、学生時代から持っている株で稼いでいるとも聞いている。
ここで解雇されても、痛くも痒くもないわけだ。
この「かくれんぼ」だって、炫は全力で楽しんでいる。
「cloud nine」で働くことも、孝弘と肉欲に溺れることも、炫にとっては遊びでしかない。
圧倒的な格の違いを見せつけられ、そして、孝弘の事情を顧みない炫の自分勝手さに、腹の底からどろどろとした黒い感情が流れ出る。
足音は止まることなく、敷地の外へと遠ざかっていく。
危機は脱したようだ。
しかし、この格好で職場に戻るわけにはいかない。
「来い」
「どこに行くのさぁ」
「家だ」
「|真《・》|面《・》|目《・》なタカヒロが仕事ほっぽっていいの? かちょーに怒られるよ?」
ネズミを痛ぶる猫のようにニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべる炫は、孝弘を崖から突き落としたくてしょうがないらしい。
でも、残念だ。
「ばぁか。もうとっくに終業時間過ぎてんだよ」
左腕につけているスマートウォッチを炫に見せつける。
時計の針は、ちょうど孝弘の終業時間を差していた。
それを見た途端、炫は唇を尖らせた。
「なぁんだ。つまんないのぉ」
「そんな言うなら今日はなんもしねぇぞ」
「はぁ⁉︎ よく言うよねー。さっきだって俺の誘いに耐えられなかったくせにぃ」
「うるせぇ」
再び炫の首根っこを掴み、黒いセダンの前まで引き摺る。
スマートキーで鍵を開け、助手席に炫を放り込むと、孝弘も車内に乗り込んだ。
そして、耳栓を外してダッシュボードに入れると、エンジンがかかると同時に車を発進させた。
「ちょっとぉ。乱暴すぎない?」
「そのみっともない格好、同僚に見られたいのか?」
「別にいいもん」
「ど変態め」
「運転しながら勃たせてる人に言われたくありませぇん」
減らず口をたたく炫は、助手席から運転席へと身を乗り出し、孝弘の膨らんだ下半身へと手を伸ばした。
いくら冷たい態度をとっても、そこは嘘をつかない。
隠しきれない興奮は、炫の格好の餌食だ。
だが、さっきまで自分勝手な行動をしていた炫に主導権を渡すほど、孝弘は懐が広くない。
炫の手があと少しで孝弘の欲に触れそうになったとき、ニヒルな笑みを浮かべた。
「事故って痛い目に遭いたいか?」
「うそうそ! 大人しくしてるって」
効果は抜群。
炫はさっと顔を青くすると、シュバっと助手席に引っ込み、いそいそとシートベルトを締め、ちょこんと大人しく座り直した。
快感に伴う苦しさは好きなくせに、痛いのは嫌い。
つまり、縛られたり息が苦しくなるイマラチオは好きで、スパンキングなど痛みを伴う激しいSMプレイは絶対にお断り。
ビッチのくせに面倒な性癖の持ち主である炫は毎回突飛な行動をするため扱いにくいが、痛みを引き合いに出せば大人しくなる。
それだけが孝弘の唯一の救いなのかもしれない。
孝弘と炫が乗る黒のセダンはカジノ街から脱出し、繁華街を抜け、郊外の住宅街を走る。
車は法定速度ギリギリを攻めている。
孝弘は足音に邪魔されてからというもの、中途半端に火が点いた体を持て余していた。
早く炫を組み敷き、どろどろに溶かしてやりたい。
ぞくりと腰に走る獣欲が、孝弘を追い立てていた。
閑静な住宅街の一角にある白いマンション。
孝弘はその裏にある駐車場の指定場所に車を駐めると、痛い目に遭うと脅されて未だ拗ねている炫の手を引き、早足でエントランスを通過し、エレベーターに乗り込んだ。
目指すは三階。
ゆっくりと上昇するエレベーターは、孝弘の中で暴れそうになる獣欲に待てをかける。
(これなら階段使った方がマシだ)
そうした方が多少なりとも気が紛れる。
孝弘の舌打ちは、密室でやけに大きく聞こえた。
それを「よし」の合図と解釈したのだろうか。
「ほら、待ちきれないんじゃん」
炫の手がするりと孝弘の体に絡みついた。
首に巻き付いた腕に引き寄せられ、体が密着する。
ぐっと押し付けられた腰には、冷めない熱が二つ。
「ここで始めちゃおうよ」
耳元で囁かれる甘い誘惑に理性がぐらりと傾く。
だが、ここは孝弘の家の中でもなければ職場でもない。
他の住人に目撃されてしまえば孝弘は引越しを余儀なくされ、住所不定になる。
そんなのは御免だ。
「着いた。行くぞ」
「えっ、早……!」
余計な身体接触はあったものの、炫との会話が時間を進めてくれた。
待ち焦がれた目的階の到着に、心臓が興奮で脈を打つ。
孝弘は首に回った炫の手を無造作に掴み、炫をエレベーターから下ろす。
大股で向かうのは、一番奥の角部屋である孝弘の部屋だ。
ボタンひとつで玄関ドアの鍵を開けると、靴を蹴るようにして脱ぐ。
脱ぎ捨てた靴はそのまま、孝弘は炫を寝室に引き込んだ。
四畳半の寝室にはベッドしかない。
ミニマリストほどではないが、必要最低限の物が手元にあればいい。
その方が片付けや掃除も楽だからだ。
だからこそ、他の部屋も最低限の家具や日用品しかない。
殺風景な部屋は、当初寝るためだけのものだった。
だが、今はまるでセックスするための部屋だ。
週に一回、炫が泊まりに来る程度だったのが、週三になり、最終的に転がり込まれて毎日炫が入り浸るようになってからは、余計に。
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