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第1話:口付けはビターな味で

翌日、午前7時30分  僕は、思わず出てしまった欠伸を噛み殺した。  昨夜のあの熱を思い返すと、もう元気の無い筈の僕がまた硬起しそうになる。  なんとも、愛おしい。  何にも替えられない感情、衝動…皆はこれを〝恋〟というのだろうか。僕を見つめるあの鋭い視線。彼が僕を見て、心を動かしてくれた。彼の世界に僕という存在を刻みつけてやった。込み上げた愛おしさから思わず笑みがこぼれる。   「おはようございます、ライサーさん。何かいいことでもありましたかぁ?」    一人の男が、ズレたメガネを直しながら声をかけてきた。僕はそっと表情を引き締める。僕と目が合うと彼は人の良さそうな笑みを浮かべた。 「おはようございます。ダリンさん」 「あれぇ?もしかして寝不足ですか?」    自らの目元を指差しながらダリンは小首を傾げた。柔らかいくせ毛が彼の動きに合わせてふわりと揺れた。  ダリン・ウィリアムズ。僕の先輩にあたる人物であり、今は部下の1人である。 「少しだけ、ですね」 「また面白い論文でも見つけましたか?寝不足でも貴方は大丈夫でしょうけど…はい、今日の一杯をどうぞ」  苦笑を零しながら、ダリンは慣れた手つきでカップに黒い液体を注いで僕に渡す。我が研究所で名物となっている彼特製のブレンドコーヒー。    カップに口をつければ、香ばしいナッツのような深みのある香りが鼻腔をくすぐった。口に含めば柑橘類のような爽やかな酸味が口に広がる。その味をゆっくりと楽しむように飲み込めば、ビターな余韻が抜けていった。   「…今日も最高の一杯ですね」 「本当ですか〜?ありがとうございます」  ダリンは少し恥ずかしそうに微笑んだ。  そんな彼を微笑ましく眺めた後、雑談もそこそこにして役員室へと向かった。  扉を閉め、程よく整理整頓されたデスクの上にあるPCの電源ボタンを押しながら席に着く。  モニターに映る見慣れた青い風景をレンズに反射させながら、カーソルを滑らせる。諸々の朝のルーティンをこなし、連絡事項を部下に送信する。 「ああ、もうこんな時間」  ほっと息を吐いて時計を見れば、長針はすでに頂点を過ぎていた。静かな室内には隣のオフィスから人々が行き交う音が大袈裟に響いて、不思議と孤立感を覚える。  デスクの脇に追いやられたカップを手に取る。まだ半分ほど中身が残っているそれは、ほんのりぬるくなってしまっていた。  コーヒーを啜りため息をつく。モニターに映るスケジュール表を見ると、そこにはまばらに文字が表示されているだけであった。  彼に会いに行こうか。  残りのコーヒーを一気に飲み干して、席を立つ。目についたノートPCやら謎の資料やらを適当にまとめて足早にドアの方へ近づく。  ドア横に立てかけられている姿見が目に入り、自然と寝癖を気にしてしまった。鏡の前で思わず口角が上がる。満足するまでチェックした後、オフィスに出れば歩みは少しだけ早足になる。 「あれ?今日はもうラボに行くんですかあ?お早いですね〜」  廊下に差し掛かる直前、自分のデスクで菓子パンにかぶりついていたダリンがもごもごと口を動かしながらこちらに声をかけてきた。 「今日は特に急ぎの用事もないので…。新しく入った被検体の様子でもチェックしようと思いまして」 「あ〜、確かに彼はライサーさんが担当になったんですもんね。行ってらっしゃいです~」  控えめに手を振るダリンに軽くお辞儀をし、僕はオフィスを後にした。視界の端で見えたダリンは、別の菓子パンにかぶりついて幸せそうな笑みを浮かべていた。  コンコン。    音に反応して、中からベッドの軋む音と大きな深呼吸が聞こえてくる。  「入るよ。」  ピッ  スライド式の扉が開く。僕を見たピーター君は、わかりやすく眉間にしわを寄せた。  「おはよう。調子はどうだい。昨日は慣れているとはいえ無理をさせ……」  「黙れ」  近づく僕に、彼はゆっくりと片足をあげた。その瞬間、鳩尾に鈍い衝撃が走る。一瞬呼吸が止まり、思わずしゃがみ込む。  「何ノコノコと顔出してんだこの犯罪者が」  足を下ろしながら僕のことを睨み付けるピーター君。そんな顔も可愛く思えてしまうのは、惚れた弱みとでもいうのだろうか。  「い、いや、なんでも何も、僕が君の担当だからさ……」  「自分のモルモットをついでに性欲処理に使うってか。本当に気持ちわりぃ奴だな」  ごみを見るような目。そんな言葉がぴったりな表情をしゃがみ込んだ状態の僕に向ける。背徳的な構図に、心臓が大きく脈打つのを感じた。  「なんって顔してんだ……じゃなくて、いいからここの頭を呼んで来い。てめぇを社会的に抹殺してやる」  「ごめんね……呼んであげたいのはやまやまなんだけど、ここの頭は僕なんだ……」  沈黙。  ピーター君はまるで苦虫を嚙み潰したような表情で僕を見つめている。  困り笑いを浮かべながら膝の汚れを軽くはたき、僕は彼に向き直った。  「うん、本当にごめんね。君の願いはどこにも届けようがないからさ……とりあえず、朝のバイタルチェックだけ済ませちゃおうか。」  事前に用意してあった器具を取り出し、彼をベッドへ誘導する。  案外おとなしく指示に従ってくれたおかげで作業はスムーズに終了した。相変わらずごみを見るような目は変わらなかったが。  「じゃあ、これで終わりだね。体調に関しても問題なさそうだったし、健康体で助かるよ。」  「俺は不健康でありたかったけどな」  皮肉な笑みを浮かべるピーター君。その目元に濃く刻まれた隈が目を引いた。  「っな、に……」  彼の顎をつかんで舐め回すようにじっくり観察する。光の入らない真っ黒な瞳が困惑の二文字を映していた。  吸い込まれるように気が付けば口付けをしていた。逃げようとする体を引き寄せて固定する。固く閉じた唇を舌でこじ開けて口内を優しく蹂躙すれば、先程まで揺れていた瞳が甘く蕩けていくのが見えた。    もっと、もっと欲しい。もっと、もっと……。  彼を掴む手に力が入る。荒い呼吸だけが部屋に響いていた。    ガリッ  突然、舌先に激しい痛みを感じる。ひるんだ隙に突き飛ばされて思わずよろける。口の中に鉄臭い味が広がっていくのが分かった。  「ほんっとに……気持ちわりぃな」  口を拭ったピーター君は、吐き捨てるように言った。その目は冷たく僕を見据えていた。  「ご、ごめん……あんまりにも綺麗だったから」  「犯罪者に言われても何も嬉しくねぇよ」  ベッドに寝転がり、彼はこちらに背中を向けた。気まずい沈黙が部屋を支配する。いたたまれなくなり、僕は後ろを向いた。  「じゃあ、またくるからね……」  「もう二度と来るなよ。」  扉が閉まる直前に聞こえた声は、とても冷たかった。

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