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全身から汗が噴き出した状態のまま、俺はボクシング・ジムへ向かう。残暑、今年はだらだらと長引いた夏がいつまでも続くようだった。取っ手の錆びたドアを押す。軋んだ音を立てて扉が開く。
「おう、遅いじゃないか」
首元にタオルぶら下げた師匠がそう言い、俺を出迎える。俺の顔に浮き出た汗を見て、
「また自主練してきたのか?」
そう言う。俺は頷く。
「真面目なのは良いが、トラブルにならないようにな」
師匠はあまり、俺のあの自主練に好意的ではない。スクランブル交差点を駆け抜けるあのトレーニングは、俺が素人だった時代に自力で編み出したものだった。師匠には何度となく、それとなくやめた方がいいと言われているけれど、俺の体があのトレーニングを自然に求めてしまう。師匠も最近では、口うるさく注意しなくなった。言っても無駄だと諦めたのだろう。
「体はあったまってるな。すぐ全力、いけるか?」
師匠がミットをはめながら言う。俺は頷く。グローブをリングに投げ込むと、ロープを潜り抜けステージの上に立つ。
とん、とん、と足で再びリズムを刻む。BPMは、『Dawn』と同じテンポで。あの歌が、俺に力をくれる気がする。自信のなさそうなあの歌が。不思議なものだ。どうして俺はあの歌を聴くと、いつだって心を動かされてしまうのだろう。
「よし、来い!」
ミットをばふっと打ち合わせて、師匠は構える。俺はそこにパンチを叩き込む。小刻みなパンチを何度も、何度も。
リズム、リズム、リズムだ。
俺自身を楽器にするイメージ。俺は打楽器になって軽快なリズムを打ち鳴らす。
ボクサーは――というよりも人間は皆、自分の中に何かしらリズムを持っている。だから古代から音楽という営みはあらゆる人種の中にあったし、みんな本能的に音楽が好きなのだ。だから、ボクサーが練習中や試合中に鳴らす音も、必ず何かリズムを奏でる。
つまり必要なことは、そのリズムの解明だ。
そうすれば、相手の懐に入り込むのは容易い。
「いいぞ、もっと早く」
師匠が言う。俺はペースを早める。BPMのカウンターが上がる。メトロノームの往復が速くなる。
だから、裏を返せば俺にもリズムはある。だけど、俺は多分そこらのボクサーと比べても、その手持ちの札の数が段違いに違う自覚があった。
師匠に言われるまま、俺は限界までメトロノームを早くする。
俺の視界の端の方で、ジムの同期の野澤龍太が手を止めてこちらを見ているのがわかる。俺は短く呼吸をしながらパンチを何発も何発も何発も何発も何発も叩き込む。
「オーケー!」
師匠が言う。動きを止めた俺の腕の筋肉は限界まで追い詰められて発熱してるみたいだ。「休んで良いぞ」
俺はリングを出て野澤の横を通り過ぎベンチに座る。イヤホンをつけ、またあの音楽を流した。汗が筋肉の膨らみに沿って流れる。
じっと俯いて床を見つめ呼吸を整える俺の目の前に野澤がやってきた。
「汗拭けよ」
そう言い、タオルを差し出してくる。
「あぁ」
それだけ言って受け取った。野澤はそのまま、俺の隣に座る。
俺は野澤が苦手だった。ボクシングで生きていくしかなくて、それだけを頼りに東京に出てきた俺と違い、野澤は東京出身で今も有名大学に通っている。なぜこいつはボクシングなんてしているのだろうと思う。もっと、他の良い生き方があるだろうに。
そして野澤も――これはおそらく俺の自惚れではなく――俺を羨んでいる。野澤の視線から、俺はその羨望を度々感じる。それをどう処理すれば良いのかわからないのは、きっと野澤がボクシングに対して、実のところ真剣だからだろう。
だけど。
だったら。
俺は野澤を見る。パタパタとシャツを仰ぎながら汗を乾かしている。
野澤、お前は――お前は、欲張りすぎだ。
いや、と俺は思い直す。野澤は欲張っている訳ではない。
ただ、気がついたら持っていただけなのだろう。
野澤が欲しがった訳ではない。だけど、お前は色々を抱えすぎだ。
それは、俺からはとても贅沢に思える。野澤の体は鍛えられ引き締まって痩せているが、目に見えない贅肉がたっぷりとついているみたいだ。
俺は何も持ってない。
だけど、それでいいのだ。
俺は、身軽だ。
耳元であの曲が鳴り続けている。
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