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 講義を受けるたびに、どうして俺は経済学部になんて進んでしまったのだろうと思う。教授が呪文のような横文字を告げているのを見ていると、それにビートを載せたくなってくる。だけどそのリズムはエイト・ビートでもかと言って変拍子でもなく、脳内でテンポを刻んでもうまくいかない。集中していない俺は、また教科書に隠すようにiPhoneを点灯させて、YouTubeのアナリシス画面を確認する。この講義の間だけでももう四回目の確認だったので、先ほど見た時から何一つ動いていないだろうと思っていたら、カウンタが二つ回っていた。さらに、高評価が一つ。この動画――この曲に高評価がつくのは初めてだった。 「よっしゃ」  思わず漏れた喜びの声は、想像より大きかったらしい。大教室の近くにいる学生たちが何人かこちらをじっと見ていた。教授もこちらを見て、 「どうしたー?」  と問いかける。俺はぺこぺこ頭を下げて、どうぞどうぞと手を差し出して教授に主導権を返却する。  教授は、慣れた様子でそのまま講義を続けた。不揃いなテンポの講義を聞きながら、俺は周囲を見回した。西野がこちらを見てニヤニヤと笑っている。クソ、あいつもいたのか。  講義が終わり、いやにでかい教科書をカバンにしまっていると、「よう」と西野が話しかけてきた。  こいつとは大学に入ってから知り合った(というかこの大学には、中学高校の知り合いはほとんどいなかった)。入学式直後、オリエンテーションに一人で臨んだ俺に話しかけてきたのが西野だった。  分厚いシラバスと睨めっこしながら、スターバックスで俺たちは色々な情報を交換した。西野は妙に大学内部の情報――というほどのものでもないが、大学生なら漏れなく欲しがるような情報に詳しかった。例えばこの講義は単位が取りやすいとか、あの講義は必ず出席票を提出しなきゃいけないとか。話を聞くと、西野は姉がおり同じ学部の卒業生だという。  俺は納得した。  授業が始まると、西野は(その情報力のおかげもあるのだろうが)学部の中でも割と目立った存在になった。彼が他のやつといる時間も増えたが、俺との付き合いもそれとなく続いた。西野がバンドを組んでいると知ったのは入学オリエンテーションの少し後のことだ。高校時代からそういった活動をしているらしい。  うっかり、俺は自分が作曲してることを言ってしまった。  西野は会うたびに曲を聴かせろとせがんできた。お前は声がいいと思ってた。お前の曲が聴いてみたい。どんな曲書くんだよ。  俺は言い出しづらかった。俺が書くのはほとんどはラップ・ソングで、多分西野の求める感じではないと思ったからだ。  なぜだろう、うちのバンドに入れよ、とか、ボーカルしてくれよ、と言う風に話が変に膨らんでしまって、俺は根負けして西野に曲のデータを渡した。それを聴いた西野のなんとも言えない表情は、今でもはっきり覚えている。  それでも、俺と西野の関係は普通に続いた。西野は、俺にまだバンドに入って欲しいと言い続けた。 「もったいないよ。お前にはすごくいい声があるし、曲を聞けばメロディメーカーとしての才能もわかる。、お前の才能が本当に活かされるのはバンドなんじゃないかって俺は思うよ」  俺はそれを、正直少しだけ迷惑だと思っている。別に、言われることが嫌だとか西野が嫌いだとか言うのではない。  それは俺の個人的な問題だ。  俺は、何か漠然と『次』に行かなくてはならない必要性を感じていた。中学で自作のラップ詞を載せたままごとみたいな曲を作り初めてから、もう五年近くなる。自分がどうなりたいのか、例えばプロになりたいのか――つまり、それで飯を食って行きたいのか、自分でもよく分からない。ただ、月並みな表現になってしまうが、自分がスーツを着て満員電車に揺られる姿も、同じくらい想像できなかった。  周りの学生が、卒業後の進路について希望に満ち溢れた表情で語り明かしているのを見ると、どうしようもなく不安になることもある。  それで、YouTubeに曲をアップするようになった。ずっと自分で作って自分だけが聴いてきた俺にとってそれはそれなりに刺激的だったし、初めて人の評価に晒されて落ち込んだり励まされたりした。  だけど、俺が求めているのはもっと内面的な変化だったのかもしれない。作曲すること、作詞することに対しての何か違ったアプローチ。  だから俺は、西野の誘いに割と真剣に迷っていた。  西野と一緒にバンド活動をすることは――俺のやりたいと思っていることとは少し、いやだいぶ? 違ったが、それでも、なんとなく漠然と、確かに新しい何かがそこにある気がした。俺はそこに、ふとした瞬間に無性に手を伸ばしたくなる。それを掴めば、何かが変わる気がする。だけどそれは、俺が心の底から求めているものなのかが、俺自身にもわからない。  だから俺は、西野への態度を保留し続けた。  それを申し訳なく思っている。西野の方から諦めてくれれば、と思うこともある。だけどその日が来るのも、なんだか怖い。  俺は、多分とてもわがままだ。  西野と連れ立って大教室を出る。過去問を貰った代わりにとってやったノートを渡す。 「さっきのあれ、なんだよ」  西野がニヤニヤと笑いながら言う。多分こいつは全部わかっている。だから俺はわざとそれを無視し、最近話題のオルタナティブ・バンドの新曲の話をする。西野が話題に食いつく。こいつは音楽の話をするとき、本当に楽しそうだ。俺にはよく分からない音楽理論を語っている時、こいつは目がキラキラする。 「西野はさ」  西野の話が止まったタイミングで俺は聞く。ずっと聞きたくて聞けなかったこと。 「卒業後の進路とか、どうすんの」 「俺? 俺はやっぱり――」  言いかけた西野に、急に現れた一人の学生が横からタックルをかます。そのままなだれ込むようにノートを懇願するそいつが話の中心になって、結局俺の聞きたいことは聞けずじまいだった。  西野と別れ構内を一人で歩いていると、YouTubeのアプリから通知があった。 『動画に新しくコメントがつきました』  コメント。珍しいと思いながら、どうせスパムだろうなと思う。  今までも何件かコメントがついたが、すべてよく分からない出会い系か、情報商材のコメントだった。  アプリをタップしてコメントを確認する。  ボクシンググローブが置かれたアイコン。 『石崎柊:いい曲。ずっと聴いてる』  コメントは、それだけだった。俺はそのコメントを――そのコメントを表示するiPhoneの画面を――しばらくじっと見つめた。 『石崎柊』。名前だろうか。  いしざきしゅうと読むのだろうか。それとも。  いしざきひいらぎ。  ――なるほど。  良い名前だ。とても、良い名前。本名だろうか?  俺の指は、自然とそのアイコンをタップしていた。石崎柊のチャンネルに飛ぶ。意外なことに、動画をアップしているようだった。 『練習風景 13』  それは、流行りのVlogと呼ぶには、あまりにそっけない記録映像だった。ひたすらに練習風景を――おそらくスマホで――誰かに撮影してもらっただけ。手ぶれもひどい、音質も悪い映像だった。  俺はそれを見た。  じっと見た。  心地いい、と思ったのは、一本見終わって自然に次を見始めたあとだった。なぜ俺は、こんなにこの映像を心地よく思うのだろう。  それは、リズムだと後からわかる。  彼のスパーリングのリズム、足のステップ、身のこなし、全てにリズムがあった。リズム、そしてビートが。先ほどの教授のノれないビートではない、自然に心が沸き立つテンポが刻まれていた。  心の奥の方がじんわり温まるのを感じた。何か叫びたいような、奇妙にハイな気持ちになる。唇を噛み締めて俺はそれを押さえ込む。  彼のホーム画面に戻る。再生リストの中に、 『試合』  というものがあった。  見ようかと思って、やめた。  サムネイルの画像が、目が腫れて口から血を流している彼の画像だったからだ。  流血を見たくなかった。人と人が殴り合うところを見るのは嫌だった。暴力。俺は、自然と自分の右の脇腹をさすっていた。その服の下にある皮膚が、少しだけ痙攣した気がした。  iPhoneを閉じ、駅に向かって歩く。  自然と頭は彼のことを考えた。彼の刻むリズム、そして血に塗れた彼の顔。彼は戦っている。戦う彼が、俺の曲を『いい曲』だと言っている。彼の腫れ上がった瞼を思う。ぎゅっと、何かが縮こまるような気持ちになる。それでも、どこか温かなものを感じる。不思議な気持ちだ、今まで感じたことのない気持ち。   俺の曲が 良いと 言うと   彼の ビートが 俺を リード   何度も リピート する 心臓   機能 停止前に 俺は行動  電車に揺られながら、慌ててiPhoneのメモ帳を立ち上げて湧き出る言葉を記録する。  視線を上げると、窓を流れる景色が俺の目に飛び込む。  唐突に、俺のやるべきことがわかった気がした。

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