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ここは 男の 戦うとこ
ホンモノ じゃなくてまるで ホモ
それなら 用はねえ 今すぐ ゴー・ホーム
その言葉を聞いた時、頭が真っ白になった。だけど同時に、自分がとてもナーバスになっていることも分かっていた。
目の前の男のこのバースは、ただの思考停止の攻撃でしかないのだ。同性愛者 がラップ史の中でどんな存在だったかなんて、俺だって手に取るように知っている。だけど俺はそれでもラップがしたかったし――そんなことは覚悟の上でラップバトルに挑んだはずだった。
だけど俺は、いざ本当にそのパンチが来るとそれをモロに喰らってしまった。そのとき俺の脳裏を占めていたのは、決して消えないあの日のこと、そしてあの西野の沈黙だった。その沈黙が伝染したみたいに、俺も何も言えなくなってしまった。
そして、俺は負けた。
情けない気持ちで帰路に着いた俺を、石崎が呼び止めジムへと誘った。
渋谷から少し離れたところにそのジムはあった。彼はポケットから鍵を取り出して、少し錆びた扉を開けた。軋んだ音を立ててドアは開いた。
薄暗いジムに踏み入ると、少し汗臭いにおいがした。石崎が電気をつけ、空間が明るくなる。中心に大きなリングコート。リングサイドにはサンドバッグがいくつかぶら下がっている。無骨な男の空間だった。
「座って」
石崎に言われ、俺はパイプ椅子に腰掛ける。そのパイプ椅子も、幾分軋んだ音を立てた。
石崎はでんと置かれた冷蔵庫から2リッターペットボトルのお茶を取り出すと、コップに注いで俺に渡した。
「あ、……りがとう」
石崎は椅子を持ってきて俺の隣に置き、座った。
石崎は黙っている。しばらく俺は、周囲を見回した。
ポスターが貼ってある。彼の名前と、写真が載っていた。
「あの、下の名前って」
ポスターを差す俺の指を見て彼は答える。
「ひいらぎ」
その返答に、俺は嬉しくなった。
「本当にひいらぎって読むんだ」
俺の表情を見て、石崎――柊がこちらを怪訝な顔をした。
「俺はこの名前、気に入ってない」
「どうして」
「女子みたいだろ」
「ああ……」
なるほど、と思い言い淀んだ俺に彼は問いかける。
「あんたの名前は」
「え? あっ、自己紹介、まだか。田島創って言います」
「つくる」
「はい」
「いい名前だ」
「いや、……その、名前負けしてて」俺は今日の失態を思い出す。「恥ずかしい」
「だったら、その名前にふさわしい人間になればいい」
柊は、なんでもないことのように言った。それは、彼が十分すぎるほどに強い、あるいは――強くあろうとしていることの証左のように思えた。
「なれれば、いいけど」
そう答えるのが精一杯だった。彼は視線を俺から外し、天井でゆるゆると回るシーリングファンを見つめている。
俺はお茶を飲んだ。
「あのチラシ」
彼はファンを見つめたまま言ったので、何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。少しして、先ほどの名前のときのポスターのことだとわかった。彼はもしかすると、それをあえて見ないようにしていたのかもしれなかった。
「今度、試合があるんだ」
そう言ったので、もう一度あのポスターを見た。確かに、二週間後の日付が記されている。
「大きな試合で、……すごいメジャーな選手が相手で」
彼の視線は、相変わらずファンを見上げている。もしかすると、そのファンが撹拌する粘性の高い空気を見つめているのかもしれなかった。
一拍置いて言った。
「別に八百長をしかけろって言われているわけじゃない。けど、多分、俺は負けることを期待されている」
相手選手には大きな会社がスポンサーについていて、そのスポンサーの力で試合はネットで中継されることになっている。すべてが相手選手中心に回って、お膳立てされていて――だから、彼に勝つなと言われている気がする。
俺は、石崎のことを何も知らない。ネットで曲に一言コメントをもらっただけ、ついさっき会ったばかり、まだ会話もろくにしていない。
だけど、彼は弱音を吐いているのだとわかった。
多分普段の彼なら、こんなことを決して言わないのだろう。
そんな彼に俺は言った。
「君のビートを見せてよ」
*
小気味良いリズムが刻まれる。彼のパンチがサンドバッグを揺らす。ステップ、ステップ、彼は揺れながらパンチを放ち、溜め、放ち放つ。
軽やかな蝶のようでも、鋭い蜂のようでもあった。しかし、どちらの比喩も適切でない。
彼はまるきり、カラスのように見えた。夜明けに自由に羽ばたく真っ黒なカラス。
「なんだよそれ、褒めてるのか?」
それを聞いた柊は汗を拭いながら笑った。苦笑いだったが、彼が笑うところを初めて見た。くしゃっと顔を崩す笑い方。
「褒めてるよ、すごく。カラス、かっこいいじゃん」
「そうかよ」
彼はパンチングボールに気だるげに一発拳を当て、びよんと揺らした。なんでもないその動作からそのまま軽やかな動きに移る。見事な切り替わりに、感動してしまうほどだ。何発かそのままパンチをし、
「カラス、ね」
そう呟き、
「そういや最近、カラス減ったよな」と言う。
「そうだね。なんか、駆除されたらしい」
「まああいつら、確かにちょっと怖かったしな。なんか賢いらしいし」
ばん、ばん、とパンチを打ち込む石崎。その一定のビートに、俺は爪先をとんとんと揺らす。
石崎はパンチを止めた。そのまま言った。
「試合、見に来ないか?」
なんでもないような誘い方だった。ただたまたまそこに俺がいたから誘っただけ、というような。
すぐに返事をしなければと思った。
その何でもないような誘い方の裏に、おそらく彼自身も何か意味などないと思っているのだろう。事実それはそうに違いない。だけどもしかしたら、そこには何かがあるのかもしれなかった。彼自身も気付いていないような、何か――。
沈黙は意味を持つ。
沈黙は意思表示だ。
それを、俺は知っている。
だから、すぐに返事をしようと思った。沈黙が意味を持つ前に、「行く」と言おうと思った。行くよ、もちろん、見に行く。でも、俺の脳裏に蘇ったのは、あのYouTubeのサムネイル。血まみれで、腫れ上がった石崎の顔。そうでなくても、あの鋭い石崎のパンチが、サンドバッグではなく誰かの顔面に叩き込まれているところを、俺は見ることができるだろうか?
俺は感じたかった。彼のビートを、彼のボクシングを。彼の魂を、本当に感じられるのはきっとその試合に違いなかった。だけどそれを見ることは、俺にはできないのだ。
「……ごめん」
絞り出した俺の答え。
「その日は、用事があって」
先ほどまでの沈黙が、多分その嘘を暴いている。
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