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試合の誘いを断る人は多い。暴力的なのはちょっと、というわけだ。お上品な方々はそう言って観戦を断る。だから俺は、断られるのには慣れている。
田島を誘って、断られた。
「おう、珍しいな。何も聴いてないの」
翌日の練習、無音でウォームアップをする俺に師匠が言った。俺はそれだけで、何かを見透かされた気がして恥ずかしかった。恥ずかしいことが恥ずかしかった。
「大丈夫か? なんだかペースが乱れてるぞ」
スパーリング中にも、師匠にそう言われる。
「ちょっと休め」
そう言われて背中を押されても、俺の心は全く楽にならなかった。俺はスマホを手にとって――何か違う曲を再生しようとしてやめた。スポーツドリンクを喉を鳴らして勢いよく飲みながら、気持ちをリセットしようと努める。
師匠が近くへ来た。
「何かあったのか?」
「何にも、……ないです」
師匠が困った顔をした。
本当だ、本当に何もないんだ。
そう思い、俺は何に苛立っているのだろうと思う。そして理解する。俺がムカムカしているのは、断られたことそのものじゃなくて――断られて動揺している自分に対してだった。
なぜ?
俺は問いかける。
なぜ俺は動揺している?
立ち上がり、パンチングボールを一発叩く。それはびよん、と音を立てて細かく揺れる。俺は動きを合わせてパンチを叩き込む。視界の端のほうで師匠が感心した顔をしているのが見える。その隣で、野澤がパンチを止めてこちらを見ている。俺はその視界の情報を自分の意志でシャットアウトして、目の前の揺れる物体に集中する。その物体の刻むリズムに自分を合わせてパンチを叩き込む。
パンチ、パンチそしてパンチ。汗が鼻の横を伝っていく。
最後に一発ストレートを叩き込むと、俺はベンチに座った。師匠が少し安心した顔で、野澤の指導を始めた。大方、大丈夫そうだとでも思ったのだろう。
ふう、とため息をつき、体の火照りを冷ましていると、スマホが点灯して、YouTubeの更新を知らせた。
ロックされているので、それがどのチャンネルの更新なのかはすぐにわからない。だけど、その時の俺にはわかった。
スマホを手に取って顔を向けると、ロックが解除され通知の詳細が表示される。
『新しい動画:Pitchblack』
このタイミングで更新された新しい曲。それが何を意味するのかも、もちろんわかった。
これは。
この曲は。
俺は両手で座っている太ももをぱつんと叩くと、再びトレーニングメニューに戻った。
トレーニングの帰り道、イヤホンを耳に突っ込むのがもどかしかった。はやく聴きたい。
トップ画面に表示された『Pitchblack』のサムネイルは、カラスの写真だった。
やっぱり。
俺の唇が自然と笑いのかたちになる。
親指で、しっかりと再生ボタンをタップした。
ビーッと攻撃的な音が鳴る。音圧のあるイントロ。
今までの、リラックスできるような田島の曲とは明らかに異なっていた、尖った音。そして、田島の声。
鴉 羽搏く 高く 高く
どこまでも飛び 孤独に戦う
ガラス の破片 眩 く 輝く
嘴 突き刺し 剥き出し 串刺し
心臓の BPM
鳴り止まぬ BGM
これは イージーゲーム じゃない
誰もが怯む 異次元 の バトル
勝つか負けるか やるかやられるか
Do your best, Do or Die.
パンチ打ち込み KOする帝王
*
離れた会場から、熱気がじわりと染み込んでくるように感じる。しかしその空気も、控室に侵入する頃にはキンと冷やされる。
ゴングまで、あと三十分。部屋には俺と師匠だけ。師匠は何も言わず、腕を組んで顎を少し上げ目を瞑っている。眠っている、のではないだろう。
俺は膝の上に前のめりに肘を載せ、壁をじっと睨みつけている。その壁に穴が開いてしまうくらいに強く。
耳にはイヤホン。鳴っているのは、『Pitchblack』。
己 を超え 踊れ たどり着け そこへ
立ち向かえ 戦え 愚かでも あらがえ
名前 を Say the name. 掴め るはずだぜ
無限の果て 行 けんのかって?
当たり前だろ、必ず掴み取る勝利を、今――
扉が開く気配がした。
俺の前に誰かがやってくる。俺はイヤホンを外し影を見上げた。
野澤が俺を見下ろしていた。
「――野澤」
俺が呟くと、野澤はしゃがみこんで視線を合わせてきた。俺は片耳だけイヤホンを外した状態で、彼と真正面から向き合った。
誠実さを絵にかいたような、真面目な顔つきの男。真剣な目の色で俺を見つめている。
「勝てよ」
彼は言った。
「いいか、絶対に勝て。――絶対、絶対だ」
それだけ言うと、そのまま立ち上がって扉へと向かっていった。Tシャツ越しの鍛えられた背中を見ながら思った。
俺は、野澤を誤解していたのかもしれない。
彼は俺が思っているほど単純な人間ではないのかもしれない。
それは、一つの天啓に近い感覚だった。シンプルなものは思っているより複雑で、複雑だと思えるものが思いのほかシンプルだということ。
――なるほど?
イヤホンを耳に戻そうとすると、
「お時間です」
扉を開けたスタッフが、そう告げた。
「よっしゃ、行くぞ」
師匠が伸びをし立ち上がって言う。俺は立ち上がって、軽く肘をぐるぐる回す。それから、肩をわざと上下に動かす。ぷるるるる、と唇を震わせるように息を吐いた。
大丈夫、大丈夫だ。体は軽い。
「行けそうか?」
師匠が問いかける。俺は無言で頷き返した。俺たちはそして、観客が溢れんばかりの歓声をあげる会場に足を踏み入れた。
盛大なコールとともに入場する。すでに対戦相手はリングに上がっている。
彼の入場のとき、割れんばかりの歓声が場内を埋め尽くしたのがバックサイドでも聞こえた。それに引き換え、俺のときなんてブーイングさえある始末だ。
俺はふうっと息を吐き、意識を集中させる。
「よろしく」
相手が言った。俺のことを舐めたような目で見つめながら。
「こちらこそ」
俺はあえて挑発するように言い、へっと強気に笑って見せた。
そして、試合の開始が告げられる。
ひゅっ、と相手のパンチが俺の元へ伸びてくる。
相手は俺よりも大柄でリーチが長い。加えてそのパンチは鋭かった。
俺はステップを踏み左右に揺れながら、相手の攻撃のペースを見極める。大きい――というよりも、長い体を存分に生かした戦い方。自分の体格の優位性をしっかり理解している。
そして、その独特なリズム……。
そのビートは他の人には見られない、馴染みのないものだ。
彼が、彼の中の固有のリズムに従って攻撃しているのが分かる。だが、そのリズムをこちらに悟らせないようにしている。まるでマジシャンが決して手の内を明かさないのと同じように。鮮やかな手つき、繰り出されるその驚きに飲まれていると、いつの間にか次を仕込んでいるというわけだ。
なるほど、確かに今まで戦った相手の中で一番の強敵かもしれない。
彼のビートを掴み取らなければならない。俺は攻撃を避けながら、相手の腹部に細かくパンチを刻み込む。相手のビートを乱すのが目的だ。ビートが乱れれば、修正しなければならない。そのとき、それがあらわになるはずだ。
しかし、相手も手強かった。同じように彼も、こちらのリズムを崩すような攻撃をしかけてきたのだ。
彼は戦いの本質が分かっている。
だけど俺は決して自分のビートを見失わなかった。俺の脳内には常にあの音楽が鳴っていた。
――『Pitchblack』。
俺はそのビートに言葉を載せる。相手のパンチを軽やかによけながら口の中で小さく呟く。
俺は強い
俺は強い
俺は強い
俺は自分に言い聞かせた。あいつの作ったビートに乗せて。そうしたら、俺は本当に強くなった気がした。
ばちん!
相手のパンチが、俺の顎を横に揺さぶった。ぐらりと視界が霞む。ふらつく足元、遠くなる意識を、まるで命綱を引き寄せるように手繰り寄せる。一瞬で俺は立ち直る。
食らった。
と思う。
相手は芯を捉えた感触があったのだろう、まだ生き残っている俺を、意外そうな目で見た。しぶとい、と思っただろう。俺は体が揺れるのを、頭が回るのを、意識だけ、強い意識だけで抑え込みコントロールする。大丈夫、大丈夫、俺はまだいける。戦える。
相手が間髪入れずに繰り出したパンチを、しゃがんで避ける。相手がバランスを崩す、俺は腹部にパンチを叩き込む。
おおおっ、とどよめく声。
今、恐ろしいほどに集中していた。この会場で起きていること、観客の呼吸、その額に滲んだ汗が垂れていく、それらすべてがわかるくらいに意識が澄み切っていた。すべてが手に取るようだ。そのとき、遠くの観客席の奥の扉が開き、誰かが入ってくる。扉の奥から差し込む逆光の中、影がそこに立っている。俺は相手の筋肉の動き――相手が繰り出すジャブを避けるのと同時にそれを見る。
瞬間、俺の脳裏にあいつの言葉 が蘇った。鮮やかに、俺の中にあのビートが刻まれた。
鴉 羽搏く 高く 高く
どこまでも飛び 孤独に戦う
俺はその時、俺を睨みつける相手の顔の向こうに、俺自身を見た気がした。
己 を超え 踊れ たどり着け そこへ
戦え 立ち向かえ 愚かでも あらがえ
*
朦朧と霞んだ意識の中、頭上から水をかけられているのが分かる。その水が、濁った視界の前を滝のように流れていく。ぐい、と誰かが強引に頬の血を拭って、鋭い痛みが一瞬俺を覚醒させる。口の中が切れている。鉄臭い味がする。俺は顔を右に動かして、リングの床に血を吐いた。赤いシミが、視界に小さく広がった。
「……った、……ったぞ!」
耳元で誰かが叫ぶ。たぶんそれは師匠だろうと思う。知っている。俺は勝ったのだ。脳内にぶち撒けられたアドレナリンが脳みそをじんと火照らせて、俺を叫び出したい気持ちにさせる。
勝った。
俺は勝った。
俺は勝った!
誰かが俺のグローブの紐を引き、そのままそれを外している。
俺は叫び出したい。獣のように叫んで勝った喜びを全身で表現したい。
だが、体に力が入らない。
師匠が、俺の汗だくの体の腕を持ち上げて、俺を立たせる。フラッシュライトが俺に降り注いだ気がするが、視界がブレてよくわからない。
「よくやった、よくやったな」
師匠の声が、ぼんやりエコーがかってきこえる。
俺は朦朧とした、しかし覚め切った意識で思う。あいつは、見ているだろうか。あいつはまだ、俺を見ているだろうか。なぜあいつは来たのだろう、絶対に見に行かないと言っていたのに、どういう心境の変化だろう。あいつは、見ているだろうか。俺を見ているだろうか。俺は立っていることができず、そのまま再びリングの上の椅子にどさりと座り込む。
「だいじょうぶか」
一枚の分厚い膜の向こうみたいな声が聞こえる。
誰かが俺の意識を確認するように俺の顔を覗き込む。
その時、その目の前の影の向こうで、一羽の黒い影が高く飛び立った。
俺にはそれが手に取るようにわかった。確かに見えたのだ。
――カラスだ。
カラスが飛んでいったんだ。
まっすぐ、空を切るように!
俺は動かない体の代わりに目だけを動かしてカラスを探す。
だけどそれは、俺の欠けた視界がただ見せた幻に過ぎなかったのかもしれない。どんなに周囲を伺っても、カラスなんていやしなかった。そりゃそうだ、ここは屋内で、カラスなんて入ってくる訳がないのだ。
俺は思わず少し笑って、そのまま意識を失った。
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